[祭]日が沈む、夜が来る(前編) |
高い空を見上げれば、雲ひとつない晴天が太陽の光も眩しく広がっている。 イギリスは思わずこの息苦しい部屋から抜け出して、思いっきり外で走り回りたい衝動に駆られてしまい、溜息をついた。手にした万年筆を置いて窓枠に肘をつけば噛み殺し損ねた欠伸が否応なしに出てしまう。 イギリスがこの学園の生徒会長という役目についてからというもの、一日たりとも滞ることのない業務の合間を縫って、こうして外をぼんやり見るのはもう日課となってしまっていた。 土曜日は午前中で授業が終わるため、たいていの生徒は午後はサークル活動に時間を費やすもので、見下ろす先にも大勢の生徒達がわらわらと広いグラウンドに集まっては、サッカーやラグビー、野球や陸上などそれぞれの活動場所でスポーツに興じている。 そんな色とりどりのユニホームに着色された眼下を、馬鹿みたいにかっちりとした制服姿で真面目な顔して眺めている自分が、どこか一人だけ別世界にいるように感じられて仕方がなかった。なんでこんな天気のいい日にデスクワークに追われなければならないのかと、自然と気分も鬱々としてしまうものだ。 それもこれも全部フランスが悪い。あの馬鹿が真面目に昨日のうちに決算報告書を提出していれば、こんなところで貴重な土曜日の午後を潰さなくても済んだのに。月曜日に会ったら顔面に拳を叩きこんでそのまま簀巻きにして校舎裏手の焼却炉に突っ込んでやる! そう結論付けてイギリスは本日何度目になるか分からない盛大な溜息を吐きつつ、くるりと踵を返して再びデスクに向かうことにした。愚痴っていても自分がやらなければいつまで経っても仕事は片付かない。 ……が。 「あー。紅茶でも淹れるか」 すっかり気が散って集中出来なくなってしまっていた。仕方なしに再び立ち上がって給水室に向い、お気に入りの茶器を用意しているとコンコンと軽快なノックが聞こえて来る。 ポットでお湯を再沸騰させながら、イギリスはこんな時間に誰だろうと不思議に思いながら鍵を開けに行く。 「誰だ?」 「日本です」 誰何の声に耳触りの良い声が返ってきた。落ち着いた気配に思わず口元を緩めると、イギリスはそそくさという表現が似合う態度でドアを大きく開けた。 「なんだ、どうした日本?」 「先程ハンガリーさん達から焼きたてクッキーを頂いたんです。よろしければお仕事の合間にいかがですか?」 笑顔で差し出される色んな形のクッキー達は、可愛らしいラッピングにくるまれながら、ふわりと鼻先をかすめる甘い香りとともにイギリスの心を軽くしてくれる。ちょうどお茶請けを切らしていたところなのでありがたいことこの上なかった。 「今、紅茶淹れようと思ってたんだ。良かったらお前もどうだ?」 「宜しいんですか? お仕事中だったのでは……」 「なんつーか、その、煮詰まってたから気分転換に付き合ってくれると嬉しい」 「それではお言葉に甘えて失礼いたします」 人当たりの良い落ち着いた所作で日本は頭を下げると、イギリスの招きに応じて生徒会室へと足を踏み入れた。 イギリスはすぐに給水室へ戻り先ほど沸かし直したポットから湯をくみ上げる。そしてクッキーを皿に並べると顔を覗かせる日本に渡した。 「今日はお一人なのですか?」 いつもはフランスやセーシェルがいることを知っている彼は、室内を見回して首をかしげる。イギリスは苦い顔をして溜息をついて見せた。 「フランスの野郎は昨日から公用で本国に戻ってる。さっさと片付けておけって言っといたのに……まぁ急な呼び出しだから仕方ないけどな」 いくら生徒会の仕事が大切だと言っても、自国の要件が最優先されるのは誰であろうと当たり前のことだ。国から呼び出しがあれば自分だって何を差し置いても帰国するだろう。だから緊急の件で慌ただしく飛行機に飛び乗った副会長を引き止めることは、さすがのイギリスと言えども出来なかった。 日本もその辺は当然理解しているので、納得するように頷いてから淹れたての紅茶を持って応接セットへと移動する。 「セーシェルさんは?」 「あいつは元々休みの予定だ。なんでもアフリカクラスの連中と買い物に行くんだと。新作水着がどうとか言ってたな」 「あぁ、いいですねぇ。女の子って感じで」 これからのシーズン、色とりどりの水着がショーウインドウを華やかに飾っているのだろう。少なくともこんなところで書類と格闘しているよりも楽しいに違いない。 日本と共にソファに腰掛けると、イギリスは差し入れのクッキーを一枚指先で取りながら肩を竦めた。 別に咎めるわけではないが、その分自分の仕事量が増えたのが気に入らない。いつもこき使っているからたまには休みでもやらないとな、と仏心を出した結果がこれだ。ついていないと言うか、しょうがないと言うか、今更捕まえるわけにもいかず意気揚々と出ていくセーシェルを大人しく送り出したのだが……タイミングの悪さに愚痴のひとつでも言いたくなってしまう。 「日本は部活で残っているのか?」 「あ、いいえ。今日はないんです。それで帰ろうと思っていたところでハンガリーさんにお会いしまして」 「そうか」 「イギリスさんはこの時間ならまだこちらにいると思ったものですから、顔を見に来た次第です」 友人の嬉しい気遣いにはにかむように笑んでから、イギリスはゆっくりと小さく頷いた。このところ何かと忙しくてあまり日本とゆっくりお茶をする時間もなく、お互い同じ学校内にいると言うのに顔を合わせる機会も少なくなってしまっている。 こうやって日本の方から会いに来てもらわなければ一度も会話することなく今週を終えるところだった。 「そう言えば最近アメリカにも会ってないなぁ」 底抜けに明るくて無邪気な笑顔を思い浮かべなにげなく呟いた言葉だったが、日本が「そうなんですか?」と小首をかしげてこちらを見つめると、自身の発言が急に恥ずかしいものに思えてイギリスは慌てて首を振った。 「いや、別にあいつがどこで何をしてようと俺には全然関係ないけどな!」 ぶんぶんと大袈裟なほどに顔の前で手を振れば、くすっと笑って日本は続ける。 「アメリカさんなら、今日は体育館でバスケットボールの試合があるそうですよ」 「バスケ? また助っ人か」 「クラス別の練習試合だそうです。……あ、そうだ。息抜きにどうです? ちょっと覗きに行ってみませんか?」 「今からか?」 「はい」 試合ならもうはじまっているだろうし、イギリスの方もまだ仕事が終わらず残っている。折角の誘いではあったが素直にうなずくのは躊躇われた。 けれど日本は穏やかに顎を引いて、黒目がちの瞳に少しだけ悪戯っぽい光をたたえる。その様子がどこか有無を言わせない迫力を持っているように見えて、イギリスは一瞬言葉に詰まった。 「もしご一緒して下さるのでしたら、僭越ながら、私も書類作成のお手伝いさせて頂こうと思っていますが」 「……! 本当か!?」 「この時期でしたら決算報告書のまとめですよね。部外者でも電卓をたたくくらいなら問題はないかと」 「あ、あぁ……正直、すげぇ助かる」 日本の事務処理能力の高さはよく知っている。一人で悶々と細かい数字をチェックしているのには飽き飽きしていたので、願ったり叶ったりの申し出だ。生徒会とは関係のない彼に助けを求める気はなかったが、こうやって日本の方から手伝ってくれるというのなら断る理由は微塵もない。彼ならば不正や改竄の心配だってないので安心して任せられる。 しかもアメリカが出ているだろうバスケの試合にも行けるともなれば、その提案に飛び付かないわけがなかった。 「日本、ありがとう!」 「いえいえ。ではさっそく参りましょうか」 だいぶ気を使わせてしまっているのが分かって申し訳ない気分に陥りながらも、ここでそのことを指摘するのは賢くないやり方だ。日本はこちらがその真意を悟っていることを承知した上でわざわざ誘ってくれているのだ、余計な詮索は彼の好意を無駄にしてしまう。 カップに残った紅茶を一息にあおり、食器を流しに運ぶとイギリスは立ち上がった日本につられて生徒会室を後にした。 * * * * * 体育館へと続く渡り廊下を二人肩を並べて歩いていると、開けっぱなしの扉からは館内の歓声が漏れ聞こえて来る。シューズのラバーが床を滑る音がやや耳障りだが、それにも負けないくらいの賑やかな声だった。 中へ入れば入口付近からすでに女子が何人か集まって一生懸命応援している姿がある。他にも大勢の人が詰めかけているようで人いきれも凄い。遠目でもいいからとすいている二階へ移動するために人混みをかき分け通り過ぎようとしたら、ふと聞き慣れた明るい声が「日本!」と呼びかけて来た。 「珍しいじゃないか、君がここに来るなんて」 「アメリカさん」 「俺の勇士を見に来たのかい?」 立ち止まってにこりと笑う日本の傍に、ユニフォーム姿のアメリカが走り寄ってくる。相変わらず元気が有り余ってる奴だなぁと思っていれば、ふと後方に立つイギリスに気付いたのかアメリカの青い目が驚いたように見開かれた。 そんなに自分がここにいるのが意外だったのだろうか。思わずイギリスが憮然とした表情を見せれば、アメリカもすぐにいつもの調子でゆっくりと不敵な笑顔を浮かべる。 「会長業も随分と暇みたいだね」 「うるせ。息抜きだ息抜き」 「ふーん……まぁそういうことにしておいてあげるよ」 ふ、と笑ってアメリカはこめかみを伝う汗を無造作に手の甲で拭った。つい先ほどまで走り回っていたのだろう、心なしか頬に赤みがさしているようだ。 イギリスは無意識に制服のポケットからハンカチを出すと差し出す。すると「えー! ハンカチなんて嫌だよ!」と唇を尖らせながらもしょうがないという顔で受け取られた。 「タオルはないのか?」 「どっかに落としてきちゃったみたいだ」 「お前なぁ」 「まぁ別にいいじゃないか。タオルの一枚や二枚」 「アメリカさんのことですから、どうせ女の子に取られてしまったんでしょう?」 日本がどこか面白そうに口を挟むので、イギリスは思わず彼の方を勢いよく振り返ってしまった。 「そうなのか?」 「人気ありますからね」 「へぇ」 見た目だけはいいからなぁとまじまじとアメリカの顔を見やれば、当の本人は照れるまでもなく胸を張って「当然!」という顔をしている。謙虚さの欠片も見当たらなかった。 「特別ゲストとしての特権ってやつだよ」 「は! 言ってろ!」 澄ました顔が気に入らなくて冷笑を浮かべれば、日本が間に挟まって苦笑いを浮かべた。自分達のいつものやり取りに、しょうがないなぁという穏やかな年上らしい顔が覗いている。 北米クラスはアメリカとカナダしかおらず、いつもクラス対抗の時はどこかのチームに助っ人という形で入ることになっていた。今日はどうやらヨーロッパクラスが彼をゲストに呼んだようだ。 「まぁ、バスケはお前の得意中の得意なスポーツだからな」 肩を竦めながらイギリスは人垣越しにコートを見遣る。丁度今はアジアクラスとオセアニアクラスが対戦しているらしい。 ちなみにこの手の行事に生徒会役員が加わることはない。どうしたってパワーバランス的に偏りが生じてしまうので、イギリスもフランスもいつも高みの見物を決め込んでいた。 ……と、言うのはあくまで建前であって本音は面倒なだけである。 「君たちは最後まで見ていくのかい?」 「いや。このあとはまた生徒会室へ戻る予定だ。仕事が終わってないからな」 「それは随分と君らしくないね」 意外な口振りのアメリカに、イギリスは眉をひそめて「こっちだってさっさと帰りたかったんだ」と呟いた。 最近あまりゆっくり過ごす時間が取れなかったので、今日は授業が終わったらお気に入りの喫茶店で静かに一人、本を読むつもりでいた。春に見つけた小さな店だが、雰囲気がとても良く店長も人当たりのいい物腰の柔らかな老人で、イギリスとも気が合った。 だから今日こそ、わずらわしい日常生活から開放されに行きたかったというのに……まったく予定が台無しだ。 「じゃあこの後も遅くまであの部屋に閉じこもり?」 「いや、日本が付き合ってくれることになってるからな。いつもよりは早く帰れるだろう」 「日本が?」 アメリカの視線が傍に佇む日本へと向けられる。いつしか三人は他の生徒達の邪魔にならないよう、なるべく人のいない壁際へと移動していた。 日本はにこりと笑ってイギリスの言葉を引き継ぐように頷く。 「数字のチェックは嫌いではありませんから」 「ふーん」 「あ、イギリスさん。もし宜しければ今夜は夕食をご一緒しませんか?」 思いついたようにそう言う彼に、イギリスはぱっと表情を明るくして一歩身を乗り出した。寮の食堂は今日はやっていないし、自炊するにも最近買い物に行っていないので冷蔵庫は空っぽ。外食しなければと思っていたので連れが出来るのは素直に嬉しい。 思わずそうだな、と言い掛けたところでふいに割り込むように、アメリカが目を光らせて「俺も!」という声を被せてきた。 「マックかい? マックだよね!」 「え、いえ、その」 「日本はマクドナルドには行かねーだろ」 相変わらずの態度に呆れたようにイギリスが突っ込みを入れれば、アメリカは不満全開に頬を膨らませて腰に手を当てた。そして「マックに行きたくない人なんているわけないじゃないか!」とのたまう。どうやらマクドナルドは彼にとって聖地みたいなもののようだ。 日本は引きつった笑みで曖昧な返答をしながらも、その場を取り繕うように尋ねる。 「何時に終わるか分かりませんけど宜しいんですか?」 「明日は休みだしね! 試合が終わったら生徒会室に行くよ」 「そうですか。それでは駅前のお鮨屋さんに行くというのはどうでしょう?」 「スシ! いいね! 今夜はスシパーティーだ!」 勝手に一人で盛り上がりはじめるアメリカに、日本の目が申し訳なさそうにこちらへ向けられた。別に彼が悪いわけでもなんでもないのだが、性格上気になって仕方がないのだろう。けれどこういう場面でのアメリカはイギリスでさえ止めようがないことなのだがら、仕方がないと割り切るしかない。 アメリカの自分勝手さに溜息をつきつつ、けれど仕事のあと三人で出かけられるとなればイギリスとしてもこれ以上ないくらい嬉しい話だし、当然鮨屋で異論があろう筈もなかった。 このところ会えない日々が続いていたので、余計気分も浮き立ってしまう。ぽんと肩を叩いて「勝って来いよ」と言えば、アメリカは目を丸くしたのち思いっきりいい笑顔で「当然!」と叫んだ。 あぁそうだ。 楽しみがあるとなれば仕事もきっとはかどることだろう。 next |