18
「……兄さん!」
悲鳴のような声に、ロイの思考が停まる。
声は幻ではなく、現実だ。
「アルフォンス」
暗い部屋の入口に鎧の影。気がつかなかった。エドワードに構うのに夢中でアルフォンスの存在を一時忘れていた。
弟が兄を心配しない訳がない。駄目だと言われても我慢できずに追い掛けてきたのだろう。
そういえば扉に鍵は掛けただろうか? 覚えていない。
ロイは慌てる事なく淡々と言った。
「許可なく入れば不法侵入だぞ、アルフォンス。来るなと命令したはずだ」
「僕は軍属じゃない。アナタの命令はきけない。……それより、何をしているんだ! 兄さんから離れて!」
「……アル?」
悲鳴のような声と、突然止まった動きに、エドワードが不安げな声を出す。
「何でもないよ。『兄さん』」
ロイはエドワードと繋がったまま緩やかに動きながら、アルフォンスに聞かせるように言う。
「マスタング大佐? ……一体何を……」
アルの目に飛び込んだ光景は、とうてい受け入れられるものではなかった。精神が崩壊しそうだった。
兄の状態を心配して、ロイの家まで追ってきた。来るなと言われてた。だがどうしても心配だったのだ。ロイの家についてしまってどうしようかと迷った。呼び鈴を押そうとして鍵が掛かっていない事に気が付いた。
いけないと分っていても、エドの事が心配で足を潜めて声がする方まできてみたら……。
(なにこれ? なにこれ? なにこれ? 兄さん!)
重なる二人の身体。浮かぶ白い肌。何をしているのか分からないほど初心ではない。
エドワードは狂人のように、ロイに抱かれていた。入ってきたアルフォンスの存在にも気付かない。
アルフォンスの方が狂いそうだった。
「ほら『兄さん』……言って」
「アル……」
「もう一度」
「アルフォンス」
「愛してるよ、兄さん」
「オレもだ。……オレの、アル」
抱かれながら睦言のように囁かれる言葉は、アルフォンスの理解を越えていた。
(何でそんな事を言うんだ。兄さんを抱いているのは大佐じゃないか!)
ロイはアルに見せつけながら、エドワードを抱いている。
「アルフォンス……」
かん高い、アルフォンスが聞いた事がないかすれた声でエドワードが名前を呼ぶ。その響きにアルフォンスは震えた。
ロイがエドの中から出ていく。その目を背けたくなる醜悪さ。
「やっ……!」
むずかるようにロイを引き止める兄の様子に、アルフォンスは目を閉じられない自分の身体を呪った。
エドワードの下半身がイヤでも目に入る。ロイを受け入れていた部分が生々しく充血し濡れて光っている。
そこは受け入れる為の場所じゃないのに。
エドワードは確かに悦んでいた。
厭らしい。汚い。
何故大佐はこんな事を兄さんに?
(でも兄さんは厭がっていない。どうして?)
こんなのはエドワードではない。アルの知るエドワードは喧嘩ばかりして、短気で、勤勉で、我侭で、優しくて、自慢の兄だった。こんな無防備で淫らで壊れたようなエドワードは知らない。
「大佐! 大佐は兄さんに何をしたの? どうして兄さんはボクが分らないの? おかしいよっ! こんなの酷い! 兄さん、兄さん、大丈夫?」
アルは駆け寄って、エドワードを抱き締めた。エドワードは目は開いているが、ぐったりして意識がここにない。
「兄さん、しっかりして。ボクだよ、アルフォンスだよ。迎えにきたんだ。大丈夫? 苦しくない? 今医者に連れていってあげるからね」
「アル……」
エドワードがこの上もなく幸福そうな顔をしてアルフォンスを抱き締め返した。カン、と鉄同士がぶつかって音を立てる。
「エドワードを外に出すのは止めた方がいい。一晩たてば薬も抜ける。そうしたら正気に戻るさ」
ロイの言葉にアルフォンスが激高する。この男はどうしてこんな平気な顔をしていられるのだ。
信頼できる大人だと思っていた。どことなく読めない人だが、悪い人間ではないと信じていたのに。素直に信じた自分を罵る。
「……薬でおかしくなっている兄さんを陵辱したんですか?」
声が震える。殺意を抑え切れない。怒りがあとからあとから湧いてくる。吹き出す感情はマグマだ。
アルフォンスにとってはたった一人の兄なのに。何を引き換えにしても愛しい存在なのに。この男は薄汚い欲望で卑劣にも兄を犯したのだ。何も知らない、大事な兄を!
殺してやりたいっ! いや、殺してやる!
アルの怒りが分っているだろうに、ロイはただけだるげに身体を起こした。
ロイはのんびり言った。
「やれやれ、これでやっと解放される。……枯れるまでつき合わされるかと思ったぞ、鋼の」
「大佐!」
アルフォンスの鋭い叱責を、シイッと指を立てて黙らせる。
ロイの眼差しは状況に相応しからず、穏やかだ。
アルフォンスの腕の中にいるエドワードに向かって囁く。
「鋼の。……間違えてはいけないよ。君の大事なのはアルフォンスだ。君が身勝手なエゴで鉄の身体に閉じ込めた、たった一人の弟だろう?」
ロイの声は優しく、だが金属に響くように鋭く聞こえた。
「死んでいた方が楽だった弟を鎧に閉じ込めたのはどうしてだ? ……それは君のエゴの為だろう。君の身勝手な愛情で、弟はずっと不幸なままだ」
ロイの眼差しに止められて、そんなことはないとアルは言えないでいた。
ロイは何が言いたのだ?
「アル……」
エドワードの震える声が不安げに弟を呼ぶ。
「鋼の。君は罪深い人間だ。たった一人の家族なのに、弟を裏切り続けている」
「違う……」
「『認めて兄さん。ボクに抱かれたいんでしょう?』」
ロイの声がアルを真似る。
アルフォンスはギョッとした。
「『愛しているって言って』」
「アル……」
「『鎧のボクでもいいから、抱いて欲しいんだよね、兄さんは。鉄の身体に慰められたいんだよね? 女の人みたいに。……でもそれは悪い事だよ』」
「……ゴメン。ゴメンよ、アル」
「『……それでも兄さんの頼みなら聞いてあげないこともないよ。だって……愛しているから』」
「アル……」
「『言って。……そしたら何でもしてあげる』」
「アル…………愛してる……」
「『ボクもだ、兄さん。でもそれだけじゃあ足りない。ちゃんと言わないとあげないよ?』」
「……抱いて…………欲しい……」
「『ボクの指でされたい?』」
「…………して……」
「『ボクの鉄の指でお尻を犯されたい?』」
「アルので………………犯されたい……」
「『いいよ、兄さん。何でもしてあげる』」
アルフォンスは動けないでいた。
なんだこれは? 兄さんは何を言っているの? これも薬のせいなの? 大佐は何を言っているの?
「ほら、アルフォンス。鋼のの希望どおりしてあげなさい」
ロイは言って、エドワードの最奥にアルの手を導く。
「止めて! 何をするの? 大佐? こんなの変だよ!」
それでも様子のおかしいエドワードをアルフォンスは離せない。
「アルフォンス。それがエドワードの望みだ。薬に苦しめられて可哀想だと思うなら、助けてやればいい」
「こんなの、絶対に違う!」
「何も違わない。これがエドワードの望みだ。エドワードは飲んだ催淫剤のせいで意識がとんでいるが、だからこそ逆に普段隠している気持ちが押さえられなくなっているんだ」
「兄さんの気持ち?」
「普段は隠された、エドワードだけの秘密。あまりに罪深くて醜悪で、だからこそアルフォンスだけには絶対に知られまいとした、たった一つの真実」
「兄さんの………………真実? ボクに知られまいとした? 何それ?」
「どうしてエドワードは私に抱かれて私の名前を呼ばない?」
「どうしてって……」
「どうしてエドワードは私に抱かれて、弟の名前を呼ぶんだ?」
「どうして?」
「……その答えに、君は気付いた筈だ。可哀想な兄の哀れな気持ちに。……決して知られまいとした、禁忌に」
「…………禁忌」
「血の繋がりは場合によっては最大の禁忌だ。それは人体錬成に匹敵する。…………違うか?」
「だって…………そんなの……………………嘘だ……」
「信じたくないなら、信じなくてもいい。……だが信じない事は拒絶と同じだ。受け入れられないなら、今すぐここから出ていけ。……それが鋼のの為だ。君に知られたと知ったら、鋼のは狂うぞ。それだけは知られまいとした、エドワードの心の最後の砦だからな」
「……兄さんが…………狂う?」
ロイのアルフォンスを見つめる目は刃だ。
曖昧な逃げを許さない。
「狂わずにはいられないさ。受け入れられる事など微塵も望んでいない。弟の為なら地獄まで持って行こうとしている、鋼ののたった一つの真実だ。
壊れそうな心を支えているのは君への愛だけだ。そしてそれがどんなに罪深いかを知っている。だからエドワードは死ぬまで苦しみ続ける。
自分の幸福など望んではいない。
何故なら弟なしの幸福などありえず、弟が人の身体に戻れてエドではない誰かを選んでも、それが弟の為なら耐えようと心に課しているエドワードだ。命と引き換えでもいいから、弟の身体を戻そうと考えている。そういう風にアルフォンスを愛している。
…………可哀想で罪深い子供だ。
……アルフォンスがそういう兄を受け入れられないなら、それでいい。……何も知らなかった事にして、このまま立ち去りなさい。
……知って、否定するのは一番いけないことだ。
……鋼のは…………壊れるだろう」
アルフォンスは何も言えなかった。
嘘だと。大佐の言っている事は自らの行為を正当化する為の詭弁だと、言えなかった。
ロイの眼差しは深くてエドの想いとそれを信じないアルフォンスを断罪していたが、それでも真実だけは曲げられないとあるがままを受入れていた。
「兄さんは……ボクを愛している?」
ロイではなく、腕の中のエドワードに問いかける。
「うん。アル。……ゴメン」
「何で謝るの? ……兄さんが謝る事なんて、何もない」
「ゴメンよ、アルフォンス」
「謝らないで、兄さん。アナタはボクに酷い事は何もしていないよ」
「ゴメン、アル。…………愛して、ゴメン……」
「兄さん……」
意識のないエドワードの目から涙が溢れる。
機械鎧の苦痛にも耐える兄が、弟を愛しただけでこうも辛そうな顔をするのか。
「アルフォンス、選択しろ。鋼のの意識が戻らないうちに」
ロイの声にアルは最後の抵抗をする。
「こんなのって…………。もしかして全部嘘かもしれないじゃないか。大佐が兄さんを陵辱した誤魔化しに、でっち上げた偽りかもしれないじゃないか」
ロイはクスリと笑った。
「それは誤解だ。私は鋼のを陵辱したりなんかしていない」
「してたじゃないか!」
「されたのは私の方だよ。鋼のが乱暴に突っ込むから痛くてしょうがない。しかも避妊具なしだ。このままだと腹を壊すから、シャワーをあびながら流してくる」
「流すって……何を……」
「鋼のの精液。一体何回私の中でイッたのか……。あー、ヌルヌルして気持ちが悪い」
エドワードばかりに気を取られ気付いていなかったのだが、ロイの肢体は月明かりの下でもハッキリと見えた。下半身は兄と同じく濡れている。そんなのって……。
「え……と……。兄さんが、大佐を抱いた?」
まさかと思いながらも、嘘の欠片も見えないロイの態度に、アルフォンスは混乱する。
「だって……さっきは…………大佐が兄さんを抱いていて……」
「鋼のが疲れたみたいだから、攻守交替したのさ。鋼のはまるで理性のない獣のようだった。あれはセックスの名を借りた排泄だ。何も気にする事はない。私も気にしない。……それに抱いていたのは私だが、鋼のの頭の中では、抱いていたのはエドワードの愛した男の幻だ。………分るだろう?」
アルフォンスが見たエドワードは、ロイに抱かれて狂ったようにアルフォンスの名前を呼んでいた姿だ。
「兄さん……」
アルフォンスは途方に暮れる。どうしていいか分らない。こんな事は信じられない。たった一人の兄が自分を愛して苦しんでいたなど。そしてロイ・マスタングと通じ、身体を慰めていたなど。
だがアルが見たものは全部真実で、ロイの言った事も全部本当で、アルが信じなければエドは壊れてしまうかもしれないのだ。
このまま何も知らなかった事にして全部をロイに預けるという方法もある。
だが何も知らなかった事になど、到底出来ない。
そしてアルがそうすれば、エドワードは持て余した気持ちと身体を、ロイに任せるかもしれない。
(そんなのは厭だっ! 兄さんはボクのものなのに……)
「私はシャワーを浴びてくるから、それまでにどうするか、決めておきなさい」
出て行ってしまったロイに、アルフォンスは焦りを感じる。
始めにあったロイ・マスタングへの殺意はもうない。確かにエドを抱いていたのはロイだが、エドワードが呼んでいたのはアルフォンスの名前だ。
ロイはその身替わりのセックスを許していた。そして薬でおかしくなったエドを慰める為に、当り前のように身体を開いて道具となった。
(何で大佐はそんな事まで許すの?)
もしかしてロイはエドを好きなのかもしれないと考えると、悔しくなった。大人の余裕で心ごと包み込めるロイ・マスタング。アルには出来ない事を容易くやってのける大人の男。
兄さんはこの人の前でなら甘えられるのだろうか?
エドワードは必死だ。弟の為に四年間、死に物狂いで生きてきた。良く笑い喧嘩ばかりしている兄で、アルフォンスとも喧嘩して甘えて笑いあって過ごしているが、こんな風に全てを預けてきた事はない。
(兄さんはボクに言えない気持ちが苦しくて、大佐に甘えてるの?)
エドの気持ち、ロイの態度、そしてアル自身がどうしたいのかを考えて、出る答えは一つしかないのだ。
(兄さんはボクのものだ)
誰かにやってしまう事など、考えられない。
兄の気持ちを受け入れれば、エドワードはアルフォンスから離れないのだろうか?
例え肉体が戻ってもアルフォンスの事を一番に考え、共に笑ってくれるのだろうか?
それは甘美な想像だった。子供の執着心かもしれない。家族を奪われるかもしれないという、稚拙な我侭かもしれない。
だがエドワード自身がそう望めば?
それは互いにとても幸福な事なのだ。
他の人は許さないかもしれない。でも他人はアルフォンスを幸せにしてくれない。幸せにしてくれるのはたった一人の兄だけなのだ。右手を無くしても、命を掛けても、大事だと言ってくれる兄だけなのだ。
「決まったか?」
いつの間にか、ロイが戻ってきていた。
アルは頷く。
この人は誰にも渡さない。たとえロイ・マスタングにだって。
「鋼のと…………共に地獄に落ちるか?」
「兄さんがいるなら、そこが天国だ」
「……鋼のと同じ事を言うんだな」
腕の中のエドワードは、聞いているのかいないのか分らない表情で、ぼんやりアルフォンスを見ている。
その壊れた瞳が意志を持ってアルフォンスを呼ぶのを見たい。
壊れる程に愛していると、ひた隠しにしてきた心を触りたい。きっとそれは鎧の血印の中まで届くだろう。魂の中にまでエドワードの愛が定着するのだ。
それほどまで愛されて、どうして禁忌だというだけで兄を拒めようか。
「アルフォンス。……抱き方を教えてやる。その鉄の身体ではエドワードを傷つける。どうすればいいか、教えてやろう」
ロイが近付いてきて、囁く。
それは悪魔のような声だった。地獄へ誘う蛇の誘惑。楽園には戻れない罪への道程。
だけど構わない。楽園には本当の兄はいない。アルフォンスの兄は、蛇の側で真微睡み、アルフォンスが堕ちてくるのをジッと待っている。
差し出されたリンゴの名前はエドワード。
「……どうしたらいいんですか?」
アルフォンスは生涯ただ一度の選択を、罪と知りつつ受入れた。
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