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 ロイには初めて出会った時から分かっていた。この子供は罪を犯したのだと。たった二人きりの肉親なのに。執着で弟をあんな姿に変えてしまった。

 想ってはいけない感情で、大事な人間を想うのは大きな罪だ。それは隠さねばならない秘密だ。ひっそりと大きな岩の下に這う蟲のように、陽の下に晒してはいけないものなのに、知らずに垂れ流して子供は不幸を撒いた。

 エドが出す声は自身に対する呪詛だ。

「オレは逃げない。……絶対にアルを元の身体に戻す。その為だったら何だってする」

「もし戻れたら、弟はさっさと兄を捨てて別の人生をやり直すかもしれないな。それでも?」

「アルの為だったら命だろうと身体だろうとくれてやる。アイツと等価交換できるものがあればの話だが」

「ないだろうな。命の代価は同じく一個の命。キミの命と引き換えればアルフォンスは元の身体に戻れるかもしれないが」

「たぶん駄目だろう」

「何故そう思う?」

「錬金術の基本は等価交換。アルと引き換えにするには右手と左足が足りない」

「確かにな」

「オレの命を代償にするのは最後の手段だ。でないとアルが苦しむ」

「あくまで基本は弟の為か。泣かせるね。……だから笑える」

 エドは力では適わないロイを憎んだ。この男は自分の中の触れられたくないモノに爪を立てて引きずり出す。

「アンタはおかしいよ。セックスの時になると必ずこの話題を持ち出す。何故だ?」

「そうだったか? 鋼のは弟の名前を出すと興奮するのでな。キミとしているとその機械鎧から罪の匂いがして受け取ったものを返したくなる。毎回言っているように、私はどんな名前で呼ばれても構わないのだがな。私を抱いて抱かれて好きな名前で呼べばいい。きっと快感は増す。心を開放すれば楽だぞ。たった一人恋しい男の名前を呼ぶがいい。聞いているものは私しかいないのだ。誰に憚ることがある?」

「オレは誰の名前も呼ばない。アンタはただの排泄の道具だ。……そしてオレも」

「鋼の……キミは気付いていないのか?」

 ロイの哀れみの篭った目付きが気にくわない。次にそんな目をしたら、えぐり出してやろうか。人体修復の錬成は殆どした事がないが、人で試すいいチャンスかもしれない。

「ぶっそうな目で見ないでくれ。怖いな」

「オレが何を気付いていないだって?」

「鋼のは私に抱かれるとイク時に私以外の男の名前を呼ぶんだ」

「嘘だ」

「本当だ」

「そんなの……言った事ない」

「声は出ていないからな。きっと無意識に音を止めているんだ。健気だな。そこまでして心を抑えるか」

「……何だって?」

「鋼のは誰かの名前を喉で止めている。だが唇は形を成してハッキリ誰だか分る。誰を呼んでいたのかを」

「……嘘だ」

「そういう事にしておいてもいいが、鋼のの嘘に付き合う義理はないからな。……本当に気が付いていなかったのか?」

「馬鹿な……」

「……身体は正直だな。容易く心を裏切る」

 そんなことはないと思う。だけどロイに嘘をついているような空気はない。

 性格は悪い男だし悪意は山ほどあるが、こうして肌を合わせていると嘘か本当かは分る。

 自分はこの男に抱かれて無意識に他の者を呼んでいたのか?

 なんて醜い。ロイが嘲笑うはずだ。

「だから鋼のは私に抱かれるのが苦手なんだろう。我を忘れて自制心が飛ぶ事に不安を抱いている。隠している気持ちを曝け出してしまうのでないかと恐れている。鉄の自制心の中にある、醜くも脆い部分を他人に知られるのではないかと恐れている。禁忌とはかくも醜悪なものだな」

「やめろ」

「私の言葉を否定しても事実は何も変わらない。キミの罪深さは消えない。たった一人の弟を鉄に変えたその理由を……」

「違うっ! アルをあんな姿にしたのは……」

「そう、失いたくなかったからだ。自らのエゴの為に」

「エゴじゃない。たった一人の家族を失いたくないと思ってどうしていけない?」

「いけなくはないさ。だが人を人でない物に変えるというなら話は別だ。それはあまりに酷い事だ。変えられた人間はそうした相手を憎む。食べる事も眠る事も人と触れ合える事もできずに、誰とも共有できない闇の中を孤独と絶望に耐えなければならないのだ。憎んで当然だ」

「アルは……オレを憎んでいないと言った……」

「アルフォンスは気が付いていないだけかもしれない。兄を家族として大事に思っていた過去と、身体の一部を引き換えにしたという事実が、無意識に憎しみを覆い隠しているのかもしれない。自らの憎しみを認めれば待っているのは更なる苦痛の日々だ。兄の中に気持ちの安息を求めているのに、それさえ失ってしまったら生きていくのが辛すぎる」

「あ……」

 そんな事はないと否定できない自分が厭だ。ロイの悪意に満ちた眼差しに追い詰められていく。

 何故この男はオレをこんなに憎むんだ? そしてオレは何故この男に生理的嫌悪感を感じるんだ?

「鋼の……気をつけろ。キミの気持ちを気付かれたら待っているのは更なる地獄だ。弟をこれ以上不幸にしたいのか?」

 ロイはエドに気持ちを隠せと言っている。

 ロイの言った通り、エドの中は純粋な水の下にヘドロのような腐った泥が沈澱している。水を掻き回さなければ浮上してこない汚物は、エドの自制心の弛みによって容易に浮かび上がってくるのだ。

 気付かれたら破滅だ。

 たった一人の家族。……弟。

 それだけだ。それがエドの中の全てだ。だから取り戻したかった。

 だがロイはそれを違うと言った。それは酷い事だと。

 それは見ないようにしてきた事実だった。

 愛を言い訳にして弟を『造った』

 独りにしないでと側にいる事を求めた。

 挙句にコレか。自分はとことん罪深く出来ている。

「……だから? ……オレの罪深さはオレが一番良く知っている。アルの為だったら何でもしてやる。絶対に身体を取り戻してやる。そうしたらオレは消えてもいい」

「消えてもいいじゃない。消えたいんだろう? 鋼の」

「消えたい?」

「弟が健常な身体に戻って本来あるべき日常で幸せになるのを見るのが辛い。広がっていく人間関係。健康な肉体と健全な精神に相応しい女性と知り合って、気持ちを家族からその人に移すのを、ただ見ていなければならないのが辛い。無心の信頼は心を切り裂く刃だ。キミは永遠に自分のモノにはならない大切なものを失いたくはないが為に、弟の目に映る立派な兄の姿のまま消えたいんだ。弟が元の身体に戻れば待っているのは緩やかな当り前の別離だからだ。…………キミは本当に弟を元の身体に戻したいと考えているのか、鋼の?」

「そんなのは当然だろう! オレは命に替えてもアルを元の身体に戻す。その為だけに生きている」

「だが心中では密かに恐れを抱いている。今ある二人だけの関係を無くしたくなくて必死に目を閉じている」

「オレはアルの為だったら心だって差し出すよ。無くして惜しいものなんて何もないんだ」

「決して手に入らないものだけが欲しい…か。その執着が弟を壊さないように気を付けたまえ。想うだけでそれは罪だ。キミの中の悪魔が表に出ない事を祈っている。可哀想な弟とキミ自身の為に」

「アンタは本当に厭な男だ」

 見上げるロイの顔こそ悪魔に見える。酷薄で残忍で何処か自虐的だ。ただエドを嫌っているだけならこちらも何なく交わせるのに、それだけではない気持ちの複雑さがエドに絡んで締め上げる。

 この男は何を考えているのだろう?

「もう……止める。帰る」

 ロイの中で馬鹿みたいに沢山イッた。快感が消えると残るのは鬱陶しさだけだ。早く汗や臭いを落したい。エドの好きなのは人の匂いではなく、機械鎧に注す機械オイルや冷やかな鉄の臭いだ。そこには温度がなくていい。冷たくて安心する。

「そろそろ戻らないと弟が心配するか? 兄は大変だな」

「やることやったらもう用はないだろ。オレの上からどけよ」

「鋼のは酷い男だな。仮にも寝た相手にその言いぐさはないだろう?」

「オレはアンタと寝たんじゃない。排泄したんだ」

「ははは。そうか」

「アンタだってそう思っているんだろう?」

 ロイのニヤニヤと弛んだ顔がエドの言葉を肯定していた。ああ、この男は本当に嫌いだ。

「シャワーを借りるぜ」

 裸でバスルームに消えるエドワードの背を見送って、ロイは笑いを止めた。

 鋼のの言う通りだ。自分達は互いに汚い物を吐き出しあっている。相手が自分と同じ汚いものだと知っているので遠慮がいらない。自らを踏み付けるように相手を穢して安堵している。

 ロイはやりきれなさに拳を握りしめる。あの子供と寝た後は、言い様のない悔しさや痛みやその他諸々の怒りや哀しみや憐憫が、内から吹き出してくる。通り過ぎる嵐のようだ。たまらなく腹立たしい。なのに止められない。

「じゃあ帰るな」

 いつのまにかエドワードがいつもの赤いコートを羽織って出て行こうとしていた。

 その顔には欲の残滓など欠片もない。ここで汚い物を吐き出して綺麗な顔だけを弟に持って帰るのだ。そういう顔をしている。

 ああ、本当に排泄の場なのだな、私のベッドは…とロイは思い、ベッドでなく自分自身がそうかと思っておかしくなった。子供は本当に残酷だ。そして自分も。

 赤いコートを着た罪人の子供は、たった独り可哀想な弟の元に帰っていく。それを幸せだと信じて。

 そう、実際幸せなのだ。どんな形であれ大事な人間の側で笑っていられるのは。

(羨ましい)




 赤は血の色。罪の色。イシュヴァール人の瞳の色。ロイが屠ってきた山積みされた屍体の色。

 血まみれの地面を歩きながら、二人は罪を重ねていく。

 揺れる赤の残像。




 ユラリ……と。

 エドワードに対する破壊衝動が内から沸き上がってきて、ロイは思考を振り払った。

 エドワードを忌避するのも、側に置いているのも、同じ気持ちだ。自分と似ているからだ。

 エドワードを側に置いていると、否応もなく自分の内面を見せられている気する。汚くて愚かで、そんな自分を蔑みながら、みっともなく表面をコーティングして繕っている。

 ああ、厭だ厭だ。

 いっそ燃やしつくしてしまおうか、心ごと、あの子供を。





(エドワードは自分を映す歪んだ鏡だ)





 そう思って何もかも壊したくなった。鏡を壊せば自分も壊れる。だが止められない。

 脳裏に浮かぶ、ただ一つの顔。それを見たいが為だけにロイはみっともなく生きている。

 どこまでも穢れなく汚れない親友。

 イシュヴァールで心を壊し、不完全なままの自分を変化させながら、どうにか折り合いをつけて自分を成り立たせている。

こんな風になっても生き長らえているのはそれを望んでくれる友がいるからだ。





 いっそ何もかも壊してしまおうか…。





 その衝動が日に日に大きくなってくる。

 ロイ・マスタングは自らを壊したいのだ。

 そう自嘲して、顔を覆う。

 可笑しかった。

 喉から音が溢れてくる。蜂の大軍が身体の中で暴れているようだ。

 溢れかえる音を外に出す。

 大声で、ただ笑った。

 壊れそうだった。 







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