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「兄さん。本当にやるの?」

「何を今更。もう決めただろ」

「だって……」

 未だ割り切れないアルフォンスの足取りは重い。

 空っぽの鎧の中で不安が反響する。兄の力は分かっている。だけれどもし万が一……という事を考えると足元の地面が無くなってしまったような不安に駆られるのだ。

 エドワードはアルフォンスにとってたった一人の肉親というだけでない、それ以上の大事な存在だ。アルフォンスの不安や辛さをエドワードは共有している。

 肉体がないという事は恐ろしい。自分が何者かという自己の崩壊で、独りだったらとっくに心は壊れていた。エドワードの強い意志がアルフォンスの最大の支えなのだ。

 エドワードを失ったらアルフォンスは生きてはいけない。兄のいない世界は、アルフォンスには独りぼっちの孤独の闇だ。そこにアルフォンス・エルリックという人間は存在しない。あるのは空っぽの喋る無気味な鎧だけだ。

 エドだけがアルフォンス・エルリックという個を確立してくれるのだ。

「決してオレはアルを置いて行ったりしない。絶対にオマエの元に帰ってくる。オレの帰る場所はオマエの所だけなんだから」

「ボクだってだよ、兄さん」

 信頼と愛情に溢れる兄の温かさはアルフォンスの宝だ。この人がいない世界は闇も同然だ。鎧の身体にされても人でない物にされても恨めないのは、躊躇わず命と引き換えにしてくれたのだと知っているからだ。望めばエドワードは肉体の全てをくれるだろう。

 手足の欠けた血溜まりの中の兄の姿がアルの記憶に焼き付いている。想像を絶する苦痛の中で、兄は自分に謝罪していた。自分の酷い姿よりも弟の事で心を傷めていた。そんな姿を見せられて恨めと言われても兄を恨む事はできなかった。

「夜に大佐のところへ行くんだね」

「ああ」

「兄さんは大佐と仲がいいね」

「は? ……アルフォンス君、聞き間違え?」

 エドの足が停まる。眉間に皺が寄っている。

「ううん。聞き間違えじゃないよ。兄さんは大佐と仲がいい」

「……アル。普段のオレ達を見てどうしてそう思えるんだ? オマエ視力が落ちたのか?」

 鎧でも目が悪くなるのかとエドは心配した。鎧姿に眼鏡は変だろう。

「そうじゃないよ。だって兄さんと大佐って二人でいると何処か入り込めない空気があるんだ。兄さんが大佐をあまり好きじゃないのは知っているけど、それでも理解しあって打ち解けているって感じがする。ボクはそれが少し寂しい。ボクの知らない兄さんを大佐は知っているような気がするんだ」

「アル……オレがこの世で一番大事なのはオマエだよ。大佐なんかオマエと比べれば牛乳以下だ」

「兄さん……比べる対象が変だよ」

「オレ的には正しいんだ。それにアレは打ち解けているんじゃない。互いを嫌っているんだ」

「大佐は兄さんが大佐を嫌う程、兄さんの事を嫌いじゃないと思うけど」

「……オマエは知らないんだよ。アイツは誰よりもオレを嫌っている」

 そんな事はないとアルは何故か言えなかった。エドワードの声の中にある何かがアルを止めたのだ。
 エドワードはこうして時々アルフォンスの知らない目をする。突き離されているのではない。見えているのにそれはアルの知らない世界だと感じるのだ。

 エドワードの心は深くて暗い。だから理解できない。

 エドワードの心の中には常に何かがあって、理解できないアルフォンスはそれをもどかしいと思う。理解したいと思うのに、エドワードはアルフォンスに心を見せず遮断する。

 愛する事と理解することは別なのだと、この所アルフォンスは寂寥感に襲われる。

 ロイとエドワードが仲が良いと思うのは、二人に共通する何かが見えるからだ。ロイ・マスタングはエドワードとは全く違う人間だが、同質の違和感を感じる。ソコにいるのにソコにはいない、というような。

 アルフォンスも踏み入れられないエドワードの心の領域に、ロイは容易に踏み込んでいる。見られたくない部分で互い理解しあっている気がする。だからエドはロイを嫌っているし、ロイはエドに対して刺々しい。

 アルフォンスには証拠も理屈もないけれど、自分の推測を正しいと感じていた。

 肉体を取り戻せば以前のような何でも分りあえる兄弟に戻れるのだろうかと、アルは見えない未来を切望する。

 だが逆に言えばアルフォンスが肉体を取り戻さない限り、自分達は互いのモノでいられる。エドワードはアルフォンスの側から離れられない。それはアルフォンスには嬉しい事なのだ。

 大好きな兄とこの先も一緒にいたいと、アルフォンスの望みはそれだけだ。なのにたったそれだけの事がとてつもなく難しいと感じてしまう。

 国家錬金術師という鎖はエドを縛り存在をアルフォンスの元に止めている。狗になろうと罵られようと弟を元に戻すのだというエドの痛々しい決意が、アルフォンスの生きる糧になっている。

「アル……何を考えている?」

「兄さんの事」

「オレ? ……オマエまだ心配しているのか?」

「兄さんの事はいくら心配してもしきれないよ。本当に無茶ばかりするんだから」

「今度ばかりは大人しくしているさ。……オマエがいないんだからな。絶対に無茶はしない。アルフォンスとの約束は破らない」

「約束だよ? 無傷で帰ってくるって約束して」

「ああ。面倒な事はさっさと終わらせてまた賢者の石を探しに行こうぜ。今度は北か西に足を伸ばしてみよう。この国は広い。探す場所はまだまだある。きっと何処かに石は眠っているさ」

「そうだね。ボクらの知らない場所には知らない希望が眠っているかもしれない。北は寒いから西か南がいいな」
「これが終わったら西にでも行くか。南は事が収まるまで物騒みたいだからな」

「南か……。ところで兄さん。娼館に行っても大丈夫?」

「大丈夫って?」

「女の人に目移りしたりしない? 兄さん女性に免疫ないし」

「は? ……するわけないだろう」

「だって綺麗な女の人がいっぱいいるんだよ?」

「阿呆。仕事中に他に興味がいくわけないだろう。賢者の石でもあるなら別だが」

 それに売られる先は娼館は娼館でもペド相手の低年齢化した場所で、大人の女は少ないだろうと、エドは内心で続けた。(そんな事とてもアルフォンスには言えないが)

 エドワードはアルフォンスとは違う危機感を抱いている。 エドワードがこれから潜入する場所は正気ではいられない場所だ。そこで行われている事を目撃して果たして平常心を保てるかが自信がない。

 何を見ても怒りを爆発させずにあくまで捜査を重視する。それができなければエドワードはおろか子供達の命が危うい。

 イヤな仕事だとエドは憂鬱になる。自分はきっと堪え難いモノを見るだろう。エドの精神を泥の付いた靴で踏み付けるような。だからこそ一日も早く解決しなければならない。地獄に放り込まれた子供達の為に。

 世間の有り様は腐り始めた屍体のように醜い。

 大人は肌で知っている当然の事実を、何故子供に教えようとしないのだろう? そうすれば大人になって騙されたと嘆く者は少なくなるのに。

 愛や夢は表には出ない所で存在する。だからこそ儚く脆く美しい。

 ここで待っているアルの為に一日も早く戻ろうと思う。

 エドの厭世感はロイに会う度にひどくなる。あの男は嫌いだ。




 図書館への階段を二人で上り、埃の沈澱したような紙の臭気の中の片隅で、二人で席を並べる。

 アルが本を取りに行き席を離れたのを見て、エドは肺の中から後悔を吐き出すような深い息を吐く。

 これからロイと二人きりで会うのだ。

 エドワードは夜を思って憂鬱になった。







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