悪魔れむ歌・1




 〜序章〜





 その部屋に足を踏み入れた途端、足が竦んだ。

 消毒薬と機械油の臭い。

 機械鎧技師の家なのだから当然だ。

 一瞬の圧迫感。ほんの一瞬だ。気のせいか?


 ……いや、違う。


 地獄の入口を前にしたような強烈な恐れを瞬間感じた。

 何だ? 何が足を竦ませた?

 部屋は明るい。

 自分を竦ませるようなモノは何もない筈だ。

 数年前の悪夢が頭をよぎる。砂と埃と血と硝煙の臭い。

 ここは戦場ではない。悪夢は過去の事なのだ。

 ああ、だけどここは例の地域に近い。

 赤い悪夢が形になって血を吹いた地獄の場所。



 正面に子供がいた。

 ただそこに……あった。



 昏い二つの眼球がロイの目の前にある。

 死体? ……ではないらしい。だが瞳が死んでいる。白く濁って意識がここにない。

 ロイの背中をゾッと冷たいモノが撫でる。前方から強烈な腐臭を感じた。何処か腐り始めている。内側が倦んで外に漏れだしている臭気を感じる。

 死んだ魚のような目だった。生きる事を諦めた、いや、心が死んでしまい身体がそれに引き摺られて腐乱しかけ、生き腐れていた。

 一体何が起きた?

 見えない意識の手が自分の方に伸びてくるような幻覚が瞳に灼き付いた。

 ロイは咄嗟にその場に踏み止まる。

 何も自分の方には来ていない。子供は車椅子から一歩も動いていない。動けない筈だ。右腕も左足も欠けている。

 なのに何だ?この吸引力は?

 子供の中にロイを引き付ける磁力のようなモノを感じる。堕ちる、堕ちる、蟻地獄の穴の中。

 ああ、厭だ厭だ。見えない手で神経を鷲掴みにされているような気がする。

 咄嗟に逃げ出したくなった。見なければ、ここに来なければ良かったと後悔する自分がいた。

 翻せない足が反動で怒りを呼んだ。

 何故か?…と思うより、理屈でなく肚の底からこみ上げてくるモノがあった。

 熱い、否、冷たい爆発物が腹の中で弾けたようだった。

 唐突に吹き上げる怒りの塊はロイ・マスタングの身体を灼いた。

 目の前の子供をこれ以上見ていたくない。

 この子供は……存在自体が罪だ。汚れた肉の集大成だ。存在してはいけないものだ。

 怒りのまま車椅子の子供に詰め寄る。

 戦場で散々酷いモノを見てきたロイにとって、痛々しく手足もがれた者が例え子供だろうと、今更心を動かす事はない。可哀想だという憐憫すら思い浮かばなかった。自分はもっと酷いモノを戦場で散々見てきた。

 なのに怒りに捕らわれて自分がコントロールできない。

「貴様っ!一体何をした!何を造った!」

 ただ愚かだという怒りが湧いて、感情のままに子供に手を掛けた。

 重症を負った年端もいかない子供相手だという認識はなかった。

 何をしたかなど、その場に残されていた構築式を見ればおおよその検討はついた。血まみれの部屋。書き残された錬成陣。してはいけない禁断の錬成。

 文献で一度だけ未完成の構築式を見た事がある。少佐以上の軍人で国家錬金術師しか閲覧する事ができない機密書。それは不完全とはいえ、禁忌故に固く封印されていた。

 この子供はそれを見たのか?

 いや、違う。

 描かれていた式は本で見たのとは違っていた。

 ではこの子供は独自にそれを生み出したというのか? まさか。

 それを成そうとしたのが子供だからといって許されるわけではない。子供だからこそ許してはいけないのだ。

 物事の善悪の分別がつかないというのは恐ろしい。なんという事に手を出したのだ。

 多くの錬金術師が渇望しながら理性の壁の前で立ち止まっている事を、理性自体が希薄な子供はいとも簡単に決意し実行してしまった。それをしてはいけないと止める人間もいず、いや、こんな子供にそんな高度な技術があるとは誰も思わなかったのか。

 子供というより以前に、並の錬金術師ではできない難度の錬成。構築式を理解するだけでも一介の錬金術師では可能かどうか。しかしまさか子供がそれをやってのけるとは。

 だが失敗した。当然だ。禁忌は成功がありえないから禁忌なのだ。

 だが……。



 錬金術師の目で見れば、手を出せた事を驚くべきなのだろう。最大の禁忌とされているが故に研究資料などは殆ど閲覧不可能とされ、一般の錬金術師では知る事すら許されない。

 独自で構築式を開発する事ができるのは、国家錬金術師の中でも突出した天才だけだ。それほどに難易度が高い。まさかこんな子供が人体錬成の式を完成させて実行してしまうなど、目の前にいなければ信じられない。

 錬成は失敗に終わり、リバウンドで身体の一部を持っていかれたのは幸か不幸か。

 人体錬成は錬金術師の夢だが、大きく見れば人類全体の夢でもある。

 死んだ者を生き返らせたいと願うのは愛していれば当然だが、死んで埋葬された者が生き返らないという前提で人は生きているのだ。

 人体錬成は人の死を越えてしまう。

 人体錬成が可能となれば人の死は死でなくなる。死んでも生き返られるという事実は人の有り様の根底を覆す。人の命は軽くなる。

 一つしかない命だからこそ皆自分や他人を大事にするが、命にやり直しが可能になれば「どうせ生き返るのだから」という認識が人の中に確定し、命の重さは無に等しくなる。

 軍などその典型だ。

 人体錬成は簡易な悪夢だ。出来上がるのは不死身の軍隊。死んでも身体ごと吹き飛んでも、子供でも買える安い材料で生きかえることができるのだ。死を意識しないで戦える究極の人間兵器。

 極論を言えば怪我をして重傷を負い、不自由な身体になっても、一度命を絶って生き返らせてもらえば健康体に戻れる。歪な戦うだけの人形を造る事も可能だ。

 エルリック兄弟の研究が成功していれば世界は変わっていただろう。

 エドワード・エルリックは悪魔と罵られるか天才と崇められるかのどちらかで、どちらにしても異形の天才として死ぬ事すら許されずに軍に拘束されていた筈だ。もし母親の錬成が完成していたとしたら、それも格好の研究材料として軍の研究施設に送られていた。

 だが心安らぐことに人体錬成は失敗し、天才錬金術師の子供は手足をもがれた。

 しかしそれでも子供は魂の錬成をやってのけた。自らの右手と引き換えに。まさか魂のような形のないものまで錬成してしまうとは。錬金術には限界がないのか。

 錬金術師は神に背いた異端の悪魔だと罵ったイシュヴァール人の気持ちが良く分る。

 この子供は危険だ。

 放っておけば子供はこのまま廃人として生き腐れ、中央の目の届かない田舎の片隅で長くない人生を終えるだろう。その方が幸せかもしれない。禁忌に手をだし、挙句失敗したものの末路など哀れなものだ。

 愚かな子供をこのまま見捨てろと囁く胸の内で、どうしようもなく騒ぐ自分がいる。

 気に入らない。だが目を離せない。

 どうしてだろうと考えるだけで胸が悪くなるような腐臭感が漂う。

 馬鹿な子供だと見下すだけで終われない何かが、自分の中にある。

 何だ?

 何がそんなに気になる?

 天才とはいえ自分から見ればただの子供だ。

 馬鹿な、愚かなただの無力な子供だ。手足すら欠けている。

 放っておけ。見なかった事にしろ。

 厄介なお荷物など背負うな。自分には果たさねばならない野望がある。足を引っ張られるような存在は作るな。この子供は危ない。

 胸の中で止めろと囁く自分がいる。

 なのに駄目なのだ。

 だって目の前の子供はロイの鏡だ。

 だから見たくない。



(ああ、自分と同じだ)

 ロイはひっそりと思った。

 罪の塊のような人間。

 歪んだ鏡にしか写らない偽りの存在。

 表面は全部金メッキ。中身は安物のブリキだ。

 保身と自己愛で固めた、醜悪な偽物。

 とても自分とよく似ている。



 気が付くと子供を軍に勧誘している自分がいた。

 子供は自分と同じ軍の狗になるだろうと、ロイには分かった。

 誇り高い子供はどうしようもなく強く、脆い。

 魂を錬成してしまうなど酷いことをする。命と引き換えても惜しくない程の執心から、魂を鉄に封じ込めた。

 何て惨い事を。

 自分のした事が分かっているのか。弟は死んでいた方がマシだったかもしれないのに。

 彼の可哀想な弟の為に子供は狗になる。自業自得だ。

 ロイが子供に焔を付けた。

 子供の目はもう死んでいない。それは生きる者の瞳だ。ロイが腐った人形に命を吹き込んでしまった。

 嫌いだ、この子供は。

 自分の言った言葉に後悔しながら、どうして自分はこの子供に道を与えてしまったのだろうかと思った。

 このまま田舎の片隅で朽ち果させた方が、互いに心安らかだったろうに。

 金色の子供。疎ましいのに無視できない。

 天才だからだろうか。子供は錬金術師としては自分の上をゆく才能を持っている。その嫉妬と期待だろうか?
 違う、と囁く自分がいる。

 ロイ・マスタングは他人の才を羨みも妬みも期待もしない。欲しいものは自分で手に入れる。錬金術師としての成功や賞賛などどうでもいい。誰に何も期待しない。

 ではどうしてこうも子供が気に触るのだろうか?

 車椅子の哀れな少年。無力な虫ケラ以下の存在。

 この子供が立って自分の前に来た時に、何かが変わるのだろうか?

 心をざわめかせながらロイは子供を後にした。

 あの子供はいずれまた自分の前に来る。その時までにもっともっと強くなっておかなければならない。

 でなければ自分はこの子供を、エドワード・エルリックを殺すだろう。

 見ていたくはないが為に。

 殺意を抑えるには時間が掛かりそうだった。



 こうしてロイは奇妙で歪な子供の後見者となった。






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