きみいない世界幸せだった






 01


 紅茶を飲む手が止まった。止まらざるをえなかった。
「……アメリカ、今なんて……?」
「言いたくないけれど、言わなきゃわからないだろうからはっきり言うよ、イギリス。俺と別れてくれ」
「アメリカ、何を言って…」
「イギリス。分からないフリはやめてくれよ。もう君は俺が何を言いたいか分かってるんだろ?」
「…い、嫌だ…ど、どうして?」
「好きじゃなくなったから」
「そ……んな……」
「ごめん。でも自分の心に嘘はつけない。好きじゃなくなったのにつきあえるわけがない」
「嫌だ。嫌だ、アメリカ」
「ごめんね、もう君を好きじゃないんだ、イギリス」





 アメリカに好きだと言われた。兄弟愛じゃなく、恋愛感情を持っていると告げられて仰天した。
 応えられるわけないから、アメリカを傷つけないようにどうやって断ろうかと脳味噌が擦り切れるくらいに考えに考えて考え抜いて、フランスや日本に相談したら、彼らはすぐに答えを出さないでもっと時間を置いて冷静になる必要があると揃って言い、だからとりあえずそうする事にした。
 嘘みたいだが、アメリカが本気ならちゃんと考えないと失礼だと思ったから。
 アメリカの気持ちを信じられないけれど、こんなバカみたいな嘘はつかないだろうと思った。アメリカはどこぞのワイン野郎達と違って、からかうのも単純一直線で分りやすい。だから嘘や冗談でこんなことは言わないない。
 しかし正気とも思えなかった。どこかに頭を打ったか、それともホラーの見過ぎで脳が勘違いを起こしたのかもしれない。エラーだ。パソコンだってエラーを起こすのだからパソコンより単純なアメリカがエラーを起こしたっておかしくない。元兄として、アメリカの勘違いが訂正されるのを気長に待とうと思った。
 でもそんな本音を正直に言えないような雰囲気が告白してきたアメリカにはあって、俺は「とりあえず保留にさせてくれ」とアメリカに告げた。
 アメリカはそれから暇を見つけてはブリテン島にやってきて、俺の家に泊まっていった。一緒にお茶を飲んだりDVDを見たり、買い物に行った。まるで兄弟だった頃に戻ったかのような空気で嬉しかったが、アメリカの瞳はあの頃とは違い明らかな男の目で俺を見ていたので、俺は正直どうしていいか分からなかった。
 アメリカが好きだった。裏切られて一つの国として対等な関係になってギスギスした事もあったが、昔の思い出は胸から消えず、アメリカを思う気持ちはプリントされたように胸の写真立てにしまってあった。
 何度もアメリカは俺の家にきた。当たり前のように訪ねてきた。
 段々と距離が近付いてきた。アメリカが意図的にそうした。そして俺は逃げなかった。
 お茶を飲んでいる時に手を握られた。
 ソファーでDVDを見ていると肩を抱かれた。
 買い物の帰り道、公園でアイスを食べていると手に持ったアイスを齧られて、関節キスだと照れくさそうに言われた。
 帰りぎわに空港でキスされた、唇に。何度もやってきては帰りに空港まで送り、キスを繰り返した。
 ホラーのDVDを観賞した夜、恐くて眠れないから一緒に寝てくれと言われて押し切られた。
 自分を好きな男と一緒に寝るなんて危なくて仕方が無い事だし、油断もいいところだが相手がアメリカだと思うと頑に拒否するのも憚られた。無理矢理入ってこられたので仕方なくベッドで一緒に寝た。
 案の定のしかかられたので股間を蹴っとばした。キャンキャン鳴きながら君は酷い、男心を玩ぶなんて、と言われたので尻を蹴とばして同意のないセックスはレイプだ、この犯罪者と罵倒した。
 次の日薔薇の花束を抱えたアメリカに夕べのお詫びだと言われた。
 リベンジしたいと言うので、リベンジの使い方が間違っていると呆れた。
 可能性はないから諦めてくれときっぱりと断ったら、泣かれた。小さな子供が親に捨てられたかのような号泣におもいきり狼狽えた。 
あんまり派手に泣くのでオロオロして必死に慰めたら、抱きつかれてグズグズと泣きながらしがみつかれ、いつのまにかなし崩しにされた。
 恋人じゃない。でも兄弟でも友達でもない。微妙というよりズルイ関係だった。弟のアメリカを無くしたくないのに、今の兄弟じゃないアメリカも無くしたくなかった。誰か他の女に渡したくないと思った。受け入れる気もないのにズルズルと状況を引き延ばした。いつかは答えを出さなければいけないと分かっていながら、大事な事から目をそらし続けた結果がこれだ。

 アメリカから捨てられた。
 もう好きじゃないから、別れる。もう君の家には行かないとアメリカが言った。アメリカに言われた。


 アメリカが家から出ていって、テーブルの上の紅茶がすっかり冷たくなっても動けずにいた。
 とうとう捨てられた。
 分かっていた。答えを出さないでアメリカの気持ちの上にあぐらをかいた結果がこれだ。
 初めから断るつもりだったのだ。自分から引導を渡さずに済んで良かったじゃないか。
 でも気持ちは理性とは逆になってしまった。捨てられて良かったとは思えなかった。胸に穴が空いた。
 また、アメリカに捨てられた。
 独立から、二度目だ。
 二度も俺は同じ人間に捨てられるのか。
 初めは弟だったヤツで、二度目の時は恋人になりかけていた。俺はアメリカを好きになりかけていたが、アメリカは恋愛感情がなくなったと言った。
 アメリカはあっさり恋愛感情を無くした。
 そうだ。アメリカの気持ちなんて信頼に値しない。
 こんなにあっさり心変わりしたではないか。
 アメリカは若く、気持ちは変わり易い。うっかり信じて心を預けたりしたら、こちらが傷つくハメになる。
 ちゃんとつきあう前に別れて正解だったのだ。アメリカを恋人になんかしたら、いつ裏切られるか分からない未来への恐怖に雁字搦めになって、また臆病に弱くなる。
 アメリカが関わると俺は弱い。アイツに拒絶されるのが、軽蔑されるのが、離れていかれるのが、冷たくされるのが、とても恐い。
 捨てられた女のように未練たらしくアメリカにまとわりつく自分が嫌なのに、止められない。
 かつてあんなに愛してくれたではないか。またあの頃のような関係に戻れるかもしれない。それが俺の未練。
 現実ではアメリカは俺に傍若無人で空気が読めない。
 そんなアメリカが俺を好きになる筈なんてなかった。
 いつも俺にそっけなく冷たいアメリカが、恐いくらい真剣な瞳で「君が好きだ」と言った。
 目の中には自信と怯えがあった。あのアメリカが。
 俺に告白している事に怯えていた。
 俺が出す答えが恐ろしくて怯えている。胸が震えた。
 アメリカに愛されているという歓喜が俺の判断を狂わせた。
 はっきり断るべきだったのだ。単なるNOではアメリカは納得しない。明確な拒絶がなければアメリカにとってはNOではないのだ。限り無くイエスに近いノーだ。
 ずるい俺はアメリカの気持ちを利用した。好意を受けとる心地良さを甘受して、アメリカの気持ちの基本をおざなりにした。アメリカが物言いたげな瞳で見ているのを気付かない振りでやりすごした。
 その結果が今日、出た。


「はははは…」
 頬を流れる雫はテーブルクロスのシミになった。ジワリジワリとシミが拡がる。
「……く…ぁ…」
 噛み締めた歯の隙間から嗚咽が漏れる。
 やっぱり。やっぱり俺はアメリカとは駄目なのだ。
 一度捨てられた。二度目がないとどうして思った?
 答えを出さなくて良かった。アメリカに好きだなんて言っていたら立ち直れなかった。独立戦争後の惨状の再現はごめんだ。
 アメリカなんか好きじゃない。愛してない。だから辛くない。
 ……嘘だ。辛くなければ止まらない涙の理由の説明がつかない。胸どころか身体全部が痛い。苦しい。
 アメリカ、アメリカ、アメリカ。俺の、俺の大事なアメリカ。
 小さなアメリカ、大きなアメリカ。どっちも愛している。
 弟だ、でも恋人にだってなれるはずだった。勇気がなかった。捨てられたくなかった。二度目が来るのを恐れた。でも二度目じゃない別れがやってきてしまった。
 やっぱりだ。アメリカを信用しなくて良かった。恋人にならなくて良かった。恋人になんてなっていたら……今頃心は壊れて二度と元の形には戻らない。
 あんな真剣な瞳で見るから。怯えを含んだ瞳が俺を見たから。だから……俺は勘違いしたのだ。もう一度アメリカが手に入るかもしれないなんて。
 男なんて好きじゃない。アメリカは弟であって、恋人になんてなれるわけがない。
 分かっていた事を忘れてしまった。恋人になれるかもしれない、愛せるかもしれない、幸せになれるかもしれないと思った。思ってしまった。俺が誰から愛されるはずがないのに。あんなに愛してくれたあの子も俺を捨てたのに。
 ああ、なんて浅ましい。自分を捨てた弟に未練を抱き続けて、挙句に恋人という形で手に入れようなんて、どこまで俺は愚かなのか。自分のバカさ加減に自分を殺したくなる。
「アメリカ、アメリカ、アメリカッ…!」
 追い縋って愛していると言えば抱き締めてくれるだろうか。もう一度あの瞳を向けてくれるだろうか。
 無理だ。独立戦争の時を考えれば分かる。アメリカはそういう人間だ。切り捨てると決めた相手に対して容赦はない。その前にどんなに愛しあった記憶があったとしても、不必要になれば過去のものとして切り捨てる。心望むままにいらないモノを放して前に進み続ける、それがアメリカという男だ。分かっていたからアメリカの手をとれなかった。
 俺はアメリカのように大事なものを切り捨てて前に進む事はできない。今この場に留まって、手の中にあるものが溢れないようにするだけで精一杯だ。大事な物を何一つ捨てられない。
 強くなる為に簡単に捨てるアメリカと共に歩む事はできなかった。
 いらないものと判断すればアメリカは俺を捨てる。独立した時のように。
 アメリカが俺を好きだと言った気持ちは嘘ではないだろう。俺を愛してくれていたのだ。ついさっきまでは。
 でも今アメリカの心に俺はいない。
 いらないとアメリカは判断した。だから捨てた。
 それがアメリカだ。決断すればその瞬間から過去になる。過去にされる。
 俺はアメリカの過去になりたくなかった。だからその手をとれなかった。愛していても、弟への思いが恋という感情に移行しても、アメリカを抱き返すのは無理だった。
 だってこれがイギリスだ。グレートブリテンだ。
 俺と恋人になりたければ、こういう俺をそのまままるごと受入れてくれなければ無理だ。俺は変われない。変われない俺をそのまま愛してくれるのでなければ駄目なのだ。
「は……ははは…………なんでだよ。なんで俺を捨てるんだ。……アメリカ、アメリカ、愛して、愛してる。愛してるんだ、アメリカ。帰ってきてくれ俺を捨てるな」
 愛しているから手をとれなかった。捨てられる事を恐れた。捨てられて胸引き裂かれた。


「泣かないで、イギリス」
「どうしたの? あの子に苛められたの?」
「どうして泣いてるの?」


 妖精達が側に寄ってきた。俺があんまり嘆くので我慢できなくなったらしい。アメリカが来ている時は妖精達は遠慮して近くに来ない。
 俺が泣いているので妖精達は怒っている。
 アメリカが俺を苛めたと思ったらしい。間違ってはいないが。


「酷い子。あんな子呪われてしまえばいい」
「どうしてイギリスはあの子が好きなの?」
「そんなに辛いなら、忘れてしまえばいいのに」
「嫌い、アメリカなんか大嫌い」


「……忘れる? どうやって?」
 小さな羽を持つ少女は笑顔で俺に青いガラスの小瓶を差出した。


「これを飲めばいいわ。私達が使う忘却薬よ。忘れたい事だけ忘れさせてくれるの。辛い気持ちだけを忘れてしまえるわ」
「まあそれは素敵」
「ぜひ使ってイギリス。辛い気持ちなんて忘れてしまえばいい」
「アメリカの記憶を消してしまいましょう」


「ちょっと待て…!」
 妖精の好意が人間にプラスになるとは限らない。
 それを知っていたから慎重に対応しようと思っていたのに。
 すぐにNOと言わなかったから、妖精達はYESだと判断してしまった。
 小瓶の蓋が開けられ、塵のような粉が俺の上に振り掛けられる。
 咄嗟に後ろに引いてそれを避ける。


「イギリス?」
「どうして避けるの?」
「辛い事が全部忘れられるのよ?」
「忘れたくないの?」


 忘れたくないのだろうか。忘れてしまいたい。
 だが、どこからどこまで忘れられるというのだろうか。
 アメリカに好きだと告白された時からの記憶か?
 凍るような空気のロンドンで手を繋ぎながら歩いた事も、アメリカが自分の捲いていたマフラーを俺の首に捲いた事も、貧弱な君と違って俺は丈夫だし俺はヒーローだからねと照れたように俺を見たアメリカの表情も、キスする時一瞬見せる緊張した口元も、別れる時に名残り惜しそうに俺を見る瞳も、愛していると言った声も、全部全部忘れるのか。忘れてなかった事にしてしまうのか。
 忘れてしまった方がいい。憶えていても辛いだけだ。
 だけど。ああだけど。
 忘れたくない。あの優しい瞳を、情熱的な唇の熱を、愛を囁かれた声に湧いた胸のうずきも。
 忘れたくない。辛くても、涙が止まらなくても、忘れたくないのだ。
「すまない。……今はまだ……忘れたくないんだ」
「どうして? 辛いんでしょ? 忘れてしまいましょう。辛い事なんか何もなくなるわ。だって全部なかった事になるんですもの」
 強い誘惑だった。忘れてしまいたい。辛い事を何もかも。だが。
「逃げるなんて、大英帝国の文字にはねえんだよ」
「イギリス……。我慢ばかりしないで」
「しょうがねえよ。それが性分だからな。……でもありがとうな。心配してくれて」
「いいのイギリス。あなたは大事なお友達ですもの」
 小さな優しい友人達に礼を言って立ち上がる。
 これ以上泣いていると妖精達がまた心配する。一人で泣きたいとバスルームに行こうとして、酷く喉が乾いている事に気がついた。泣き続けて声も枯れた。
 カップに残った紅茶はすっかり冷たくなっていたが、逆にその冷たさが欲しかった。
 グイとカップを持ち上げて残りを飲み干した。
「あっ」
「どうした?」
「イギリス。そのカップに…。さっきの忘却薬が落ちたの、見てなかったの?」
「…………え?」
 ぐらりと視界が揺らいで、脳が真っ暗な部屋に放り込まれた。







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