親の心、子知らずアメリカのモブオヤジはかく語りけり


02



「……どうして弟はおまえさんから離れたんだ?」
 店主のカルロスが同情しながら聞く。
 気の荒い酒場の親父だが、家族愛は強い。
 若く見える男が子供を引き取って大事に育てたと聞いて親近感を抱いたのかもしれない。子供を育てるのは大変な事だ。この若者はそれを知ってる。
 子供は反抗して出て行った。仕事に手一杯で子育てまで手が回らなかったのかもしれない。人にはそれぞれの事情がある。こうして荒れて酒場で愚痴を漏らしているくらいだから、男はよっぽど子供が好きだったんだろう。気の毒な事だ。家族に恵まれたなかった人間なら尚更、新しくできた絆を大事にしただろうに。どうして彼の弟は兄を捨てたのだろう。
「……確かにオレはあいつに窮屈な思いをさせたよ。つき合う人間は厳選したし、ジーンズを履きたいあいつにスーツを与えた」
 英才教育か。ガキにはさぞかし窮屈な事だっただろう。
 親の思いと子供の願いは同じではない。教育には金がかかる。男は愛情を金という形で現わしたのかもしれない。しかし子供に親の愛は見えにくいものだ。どんなに思っても、それが意に染まぬ形だと反発する。
「コーヒーより紅茶を飲ませようとしたし、フランス人とはつき合うなと言った」
 そりゃあ酷い。コーヒーくらい好きに飲ませてやればよかったのに。
 イギリス人とフランス人は今でも犬猿の仲なのか。
「段々あいつはオレの言う事をきかなくなって、オレより背が高くなる頃には……反抗期に入って荒れて……そうして、ある日突然、出ていった……」
「そりゃあ……気の毒に」
 カルロスが同情を込めて言った。
 子供に出ていかれるなんて! そりゃああんまりだ。同じ親だから分る。ガキの反抗期にこんちくしょうっ!と思っても家族は家族だ。
 愛しているからちゃんとメシを食わせて育てている。それが「あんたなんか親でもなんでもない、出てく」…なんて出てかれてみな。親は泣くしかない。
 周囲が痛そうに若者を見る。そうか。この若者はそうやって育てた子供に捨てられたのか。あんまり性格良くなさそうな若造だが、若いのに一生懸命働いて子供を育てたのか。
 家族を持つ喜びと責任と困難を経験で知っている男達は、優しい目で荒れた若者の背を見ていた。
「ちくしょーっ、ア……アルフレッドのやつ、独立なんかしやがって。誰が育ててやったと思ってるんだ。ひとりで大きくなったような顔しやがって。オレが保護して育ててやんなきゃ、お前なんかフランスの餌食になってたくせに」
「お客さん、声がでかい…。他の客もいるんだしもう少し静かに…」
「勝手に出ていったくせに、アポもなく家に来るし、人んちの冷蔵庫空にするし、なのに人んちの食いもんに文句ばっかつけて喧嘩売って、そんなんだからメタボ腹になるんだ。どうせオレのメシはまずいよ、日本やフランスのメシには負けるよ畜生っ!」
 なんだかんだいって弟とは仲直りしたらしい。
 ならなぜこんなに荒れているのだろう。
 カルロスがそう聞くと。
「……お、弟だったのに。今は他人とはいえ……あいつはオレが育てたんだ。オレが育てた弟なんだ。なのに!あの阿呆は! おかしくなっちまった…というか、元からおかしかったんだ! オレは全然知らなかったのに、ヒゲ野郎は知ってたなんて…」
「……おかしかった?」
 …って、なにが?
「ど、独立したのは、オレの家から出てったのは……お、オレを元から兄だと思ってなかったからだって」
 若者はグズグズと泣きながらカウンターにつっぷした。
「酷い弟だな。育ててくれた兄貴にそんな事を言うなんて。……そいつがオレの息子だったら尻をひっぱたいてやるのに」
「無理だ。アルフレッドは強いから返討ちにあう…」
 同情されたのが分るのか、若者は甘えるように声のトーンを落とした。
「あんたは良い兄貴だよ。弟を愛して、育てたんだろ?その気持ちが弟には通じてなかったとしても、なかなかできる事じゃない。あんたは偉い」
 褒められて、若者は更に泣いてしまった。
「……あ、ありがとう。そんな風に誰も言ってくれねえし。…………そうだよ。昔は、か、金はないし時間もないし、でもあいつが大事だったから、金をつぎこんで精一杯愛したんだ。初めてできた家族だったから」
「にいさんの家族は?」
「……親は始めからいねえ。兄達は三人いるけど、いないも同じだ」
「身内をそんな風に言うもんじゃない」
 なんだちゃんと家族がいるんじゃないか…と思ったら。
「……土地争いで兄貴達はいつもオレの命を狙ってた。弓矢で射られた事もあるし、殴る蹴るは日常だった。昔はよく殺されかけて死にかけたな……」
 ヘヴィすぎる家族関係だ。…というか普通に警察に世話になるレベルだ。相続争いだろうか? ドラマみたいだな。金があるのも善し悪しだ。
「……警察には行かなかったのか?」
「オレもまだガキだったからな。育ったのはガキの虐待なんて珍しくない時代……じゃなくて、場所だった」
 育ち良さそうに見えるのに、相当苦労したらしい。なまじ金があるから財産争いにでも巻き込まれたのか。なんて子供時代だ。
「……にいさん、よく生きてたな」
「オレはしぶといからな。絶対に生き延びてやると思った。半殺しにされたくらいじゃ死なねえ、死んでなんかやるもんか」
 堂々と言われても。
 余所の土地の酒場で臆してないのは泥酔しているからだけではなく、荒事に慣れているかららしい。人は見掛けによらない。
「……酷い育ちかたしたな……。今からでも遅くないから警察に届けたらどうだ?」
「平気だ。ガキの頃の話だ。大きくなってから今度はオレが兄貴達を半殺しにした」
 目の坐った若者が吐き捨てる。
 ヘヴィな兄弟関係だ。兄貴達は自業自得だが。
「……にいさん、本当に苦労したんだな」
「……したさ、散々なっ。オレには家族はいないも同然だった。家族愛に恵まれなかったから、あいつを見つけた時に今度こそって思ったんだ。あいつは無邪気にオレに笑いかけた。大好きだって言ってくれた。だから精一杯愛したのにっ。……あいつも兄貴達と一緒だった。搾取するだけ搾取して、さっさと出てって、ひとりで生きてきたような顔をする。もう兄弟でも何でもないって言って。あの恩知らずがっ」
 若者は荒れて、カパカパと酒を空ける。
 カルロスはさっさと若者を潰す事に決めたようだ。こうまで泥酔していたらヘタな気遣いは逆効果になる。
 さっさと潰して休ませた方がいい。
 ……にしても世界には色々な人間がいるものだ。育ちが良さそうな坊っちゃんに見える若造が、財産争いで兄弟に殺されかけ、育てた弟には手酷く裏切られるなんて。
 全く神も仏もねえ世界だ。
 本当に同情するね。ガキの頃から家族に殺されかけてたら、そりゃあ人間も歪むってもんだ。
 それなのにこいつは、自分より弱いものに手をさしのべて優しくしたのだ。なかなかできる事じゃない。
「兄さん、そんな飲み方しちゃ身体に悪いよ」
 オレは若者を案じて横から声をかけた。
「……誰?」若者が胡乱な目でオレを見る。胡散臭いオヤジだと思っているのだろう。
 近くで見ると本当に若い。童顔というのだろうか。嫁に行ったうちの娘より若く見える。この辺では見る事のないガラス玉のようなグリーンの瞳をしている。
 ……にしても凄い眉毛だ。こんなぶっとい眉毛初めて見た。
 特徴的な顔立ちに目を奪われながら挨拶すると。
「この店の常連だよ、にいさん。あんたの辛い気持ちは分るが、自分に優しくしてやんなきゃ駄目だよ。辛い事は酒に逃げても逃げきれるもんじゃない。辛い事があったら、それを上回る幸せを手に入れなきゃ」
「……んなのわかってる、けど……。この日ばかりは飲まなきゃやってられねえ……」
「弟さんが家出をした日なんだって?」
「家出程度ならどんなに良かったか。戻ってきたら抱き締めてやったのに。……あいつは永遠に帰ってこねえ」
「でも、さっき家に訪ねてきたって言ってなかったか? 仲直りしたんだろ?」
「……してねえ」
 むっつりと若者は暗い雰囲気になる。
 普段がどうか知らないが、いつもこうなら弟が兄を疎んじて出ていった気持ちも分る。
 だが人として、恩を徒で返しちゃならねえ。
「弟を許してやんないのかい?」
「何を許せって? 勝手に出てったヤツだぞ。オレと決別した事を後悔してないって言いきってる。オレの事を懐古趣味だとかしつこいだとか言ってばかりだ」
 どうやら弟の方も素直になれないらしい。弟がどんなヤツか分らないが、こいつが育てたのだからそれなりにまっとうに育ったのだろう。
 育ててくれた兄への恩を忘れてないといいと願う。子供はいずれ大人になる。大人になれば見えてくる景色もあるのだ。兄を疎ましく思い家を出て外の世界を見て、人間的に成長したのかもしれない。子供を育てる事が大変だという事がよく分ったのなら、兄への仕打ちを後悔しているはずだ。
 しかし、若いのでまだ素直に謝れずにいるのだろう。
 戻るつもりはなくても仲を修復したいと考えて、兄の元を訪れているとしたら。
 兄が若く見えるのだから、弟もまだ年若いに違いない。意地を張り合っているのかもしれない。
「弟さんも弟さんなりに色々考えてるのかもしれないぞ。意地になる気持ちも分るがそう邪険にしてやんな」
「……オレは、じゃ、邪険になんか、してねえっ」
「そうか? 依怙地になってねえか兄さん」
「…なってなんか……あるかもしれないけど、そういう事じゃなく……。とにかく、オレはあいつを、あいつの気持ちを認めねえ、認めるわけにはいかないんだっ」
 泥酔状態の若者は頑だ。
 オレは若者の背を叩いて言った。
「なあにいさん。てめえを裏切った男を許すってえのは難しい事だが、離れても家族は家族だ。兄さんの弟が本気であんたを嫌って出て行ったんじゃないのは、たまに帰って来る事で分るだろう? あんただって許す気があるから追い出さずに家に入れてやるんだろ。意地張る気持ちは分るが、わざわざ兄貴に顔見たくて会いに来るなんて可愛い弟じゃねえか。なんで兄さんはそんなに自棄になってんだ?」
 一度は切れたと思っていた絆がヒビ入ったままとはいえ修復されつつあるんだ。若者が落ち込む理由が分らない。
 若い頃は周りが見えずに周囲の人間を傷つける事がある。だがそれを許すのが家族ってものだ。弟が絆を修復したいと願っているのなら、兄貴は一発ぶん殴って家に入れてやればいい。男兄弟なんだから、それでいい。
「……オレだってそうできればそうしたいんだが」
「できない理由があるのか?」
「……できない理由………………うっ」
 酔っ払いのくだ巻き野郎は酒が入ると泣き上戸にもなるらしい。今度はベソベソと泣き出した。