2011/7/4 米誕記念(米英)

親の心、子知らずアメリカのモブオヤジはかく語りけり


01



 出かけにかあちゃんが「あんた、今日は娘のサニーが来るって言ったでしょっ。今日くらいちゃんと家にいなさいよっ」と怒鳴ったので、聞いた事を右から左へと流して忘れていたオレは、
「うへえ、ごめんごめんかあちゃん、でもテッドと約束してんだ。かんにんなっ」と、目をゴブリンのようにクワッと剥いた長年連れ添った古女房を尻目に家を出てきた。
 いけねえいけねえ。近頃物忘れが酷くなってやがる。
 女房も昔は可愛い女だったんだが、ガキができてからはすっかり母親の顔になっちまって、面の皮なんかこの三十年でかなりぶ厚くなって昔の面影なんかありゃあしねえ。ただのおっかない鬼ババアだ。昔のキュートガールだった頃が懐かしいや。…………まあこのオレも似たようなもんだが。



「ヘイ、ダグ。独立おめでとう」
「ハッピーインディペンデスデイ、いつもの頼むよ」
「オッケー。……ほい、いつもの」
「おお」
 薄暗い酒場のあちこちで独立記念を祝う声が聞こえる。
 毎年の事だが、独立記念日は心が弾む。記念日だからって特別に良い事があるわけじゃないけれど、周囲が賑やかで明るい雰囲気だとなんだか自分もハッピーな気分になってくる。安い幸せだが、そういう平凡で安易な幸せの積み重ねが真の幸福なのかもしれないと、三杯目のラガーを空にしながら思った。
 地元の親父達に愛され、子供の頃からある安酒場。ここに来る大人達はみんなごきげんで帰っていく。自分が大人になったらいつか入ってみたいと期待し、何の問題もなく入れる年齢になったら今度はもっと上等なBarのドアを開けてみたいと思いながら気心知れた酒場が心地よく、結局最後にはここに戻って、やがて年をとっていつのまにか常連に名を列ねてしまっている、そんな面々が集まる男の聖域だ。
 うちにいるうるさいババアからの逃げ場だ。
 今日は独立記念日で昼間からあちこち騒がしく、TVをつければニューヨークやワシントンの式典の事ばかり、あとは浮かれた空気に浮かれたバカがバカをやった事などが流れている。これも毎年の事で、ああ今年もこの日がやってきたと思うだけ。
 地元の人間のたまり場のBarだが、もちろん一見の客も入ってくる。なんたってボストンに近い港町だ。
 独立記念日にやってきた観光客とか旅行者が夜になっても冷めない興奮に帰りそびれて、一杯ひっかけに入ってくる事がある。
 同じ酒のみだ。細かい事や野暮は言わねえ。
 礼儀を弁えた人間なら見知らぬ異分子でもそっとしておくのが流儀だが、そうじゃないのもたまに入ってくるから困る。
 色褪せくたびれた看板を掲げている酒場に品の良い紳士が入ってくるわけがない。入ってくるのはどうしようもない酔っ払いとか、礼儀をわきまえない意気込んだ若造だとか。
 そういう人間が来た時には、さりげなく店長兼バーテンのカルロスが一発で沈みそうな一杯を出して早々に御退場願う。とんでもない酒の味に文句を言い出しかける客も、カルロスの丸太よりぶっとい二の腕と腕に入った派手な柄のタトゥーにモゴモゴとクレームを口の中で濁して大人しくなる。
 だってここは何十年も地元の人間に愛されてきた場所だ。オレ達の居場所を穢すヤツは誰だって許せない。
 気の良い漁師達は反面、気の荒い海の男だ。ブルーカラーの持つ肉体の生々しい臭いの中、我を通せるのは同じ臭いを持つ男か周囲をちっとも見ない視野の狭いバカ野郎だけだ。



 その晩、フラリと入ってきた若者を見て、オレ達はあからさまに顔をしかめた。
 見た事のない一見の客だからではない。身分証の提示を求められそうな童顔だからでもない。その男は入ってきた時から泥酔していた。
 酔っ払いの若者は、ふらりと入ってきて迷う事なくカウンターの空いた席に座り「スコッチ」と言った。声も若い。……なのにスコッチかよ。ガキならビールだろ。
「お客さん。……一応聞いときますけど、二十一歳過ぎてますよね?」
「……チッ、ここでも身分証の提示かよ。いちいち面倒くせえ。……ほらっ」
 ポケットをごそごそ漁った若者はバーテンに身分証を見せる。素直に見せるのは、こうした対応に慣れているからだろう。アメリカの飲酒禁止年齢は他国より高い。ヨーロッパでは十代半ばで酒場に入れるが、合衆国ではそうはいかない。
 若者の使う英語には恐ろしく美しいクイーンズイングリッシュの響きがあった。着ている服も良いものに見えるから、もしかしたら外国人のセレブってやつかもしれない。それにしては荒んだ雰囲気だ。
「お客さん、イギリスの人かい?」
「……分るか?」
「発音でね」
「……ああ、そうか」
 バーテンとのやりとりも慣れている。
 見た目よりも年をくっているのかもしれない。
 周囲の人間もさりげなく新参者の様子を伺っている。
 祭りの日にはハメを外す者が多い。酒場ではちょっとした事でも喧嘩になる。それでなくても酒が入っているから色々火種だらけだ。揉めごとは困るというのが周囲の一致した意見だ。若者が泥酔して絡み出したら皆で叩き出してやれと物騒な事を周囲の者達は考えている。
 そう考えてしまうほど、若者の酒の飲み方はなってなかった。水でも飲むようにゴクゴクカパカパと酒を流し込む。いくら酒に強くても、こんな勢いで飲んでいたらあっというまに潰れる。潰れる為に飲んでいるとしか思えない。
「折角の記念日だっていうのに何か嫌な事でもあったのか? さっきからスピードが早い。……少し休め」
 カルロスの差し出したチェイサーの冷たい水を睨んで若者は「……うるせえっ。酒くらい好きに飲ませろ」と言った。
 ガキなら一目見ただけで怯みそうなカルロスの迫力にも動じないのは、酔っ払って気が強くなっているからだろう。シラフなら絶対タマが縮み上がってるに違いない。
「オレも酒が好きだから、こんな飲みかたされたら酒が可哀想だ。……気晴らしなら酒に逃げるんじゃなく、外でも走ってきたらどうだ?」
 客に言う台詞じゃないが、気の強さはバーテンも客も変わらない。元軍人のカルロスの態度は慇懃だ。
「……好きに飲ませろ今日くらい」
 若者の声が沈んでいたのでおやと思った。
「……もしかして、失恋でもしたのか?」
「するかよ。……失恋の方がマシだ。女の代わりならいくらでもいる」
 酷い台詞だが、この若者は女には不自由していないらしい。羨ましい限りだ。
 女を粗雑に扱う男は許されない。この台詞だけで周囲の男達から放り出されても仕方がない所だが、若者が放置されたのは全然幸福そうではなかったからだ。
「ほう。それじゃあ何があってそんなに荒れてるだ? 折角の記念日なのに」
 イギリス人の若者は酒を呷って毒を吐く。
「うるせえんだよ、記念日記念日って。独立記念日だからって全員が全員、ハッピーなわけないだろ。今日が最悪な日だと思うやつも大勢いるんだ」
 折角の独立記念日に水を差すなんてと嫌な気分になるも、なるほどと納得できる面もある。軽く酩酊した頭でも理性は残っている。独立記念日に失恋するやつもいるだろうし、命日の人間もいる。今日という日を最悪というやつがいてもおかしくない。
「……あんたも、今日が最悪だと思う一人か?」
 目の座った若者は空になったグラスを親の仇だというように見た。
「……今日は……オレの弟がいなくなった日だ………」
 心をサンドペーパーで削るような声がした。 
 思いがけず身体が震えた。
「……それは」
 さすがのカルロスもそれ以上、何も言えない。
 オレは若者に同情した。
 そうか。この若者の弟は七月四日が命日なのか。だからこいつはこんなに荒れているのか。
 家族を亡くすのは堪え難い事だ。静かに命日を祈りたいだろうに、街には歓声が溢れている。やりきれず酒に逃げて荒れても仕方がない。
「……今日が家族の命日?」
 独立記念日をアンハッピーだと思う人間は可哀想だ。
「……死んでねえよっ。………いや、死んだも同じか。……オレの弟はもう世界のどこにもいないんだから」
「死んでいないのに、世界のどこにもいない?」
 矛盾している。
「……いきなりオレに銃を向けて出て行ったんだよっ。あの薄情ものはっ!」
 物騒な話になった。だが彼の弟は生きているらしい。
 となると、周囲は陽気な酔っ払い。好奇心が疼く。皆、耳をダンボにして酒のつまみ代わりに若者の言葉を盗み聞きしている。盗まなくても若者の声は大きくてよく聞こえる。
「どうして弟さんは兄に銃なんて向けた? 普通、理由もなしにそんな事はしない。あんたらの親御さんはどうしたんだ?」
「オレにもあいつにも親はいねえ」
「……あいつにも? 弟とは血が繋がってないのか?」
 何か引っ掛かると思ったら、そういう事か。血縁なら『オレ達』と言うはずだ。
 酔っているせいか若者は素直に応えた。
「……オレ達は本当の意味じゃ兄弟じゃない。出会った時あいつはまだちっちゃなガキだった。互いに身内がいないから、あいつは唯一の家族だった。多忙で放っておいた事もあったけど、あいつの事を忘れた事も酷い事をした事もない。何不自由ない生活をさせようと色々なものを与えた。うまいものを食わせて、綺麗な服を着せて。……そりゃあ、過保護にしすぎて色々うるさい事も言ったし窮屈だったかもしれない。……けど、いきなり銃を向けて『君はもう兄でもなんでもない。オレは君から独立する』…はねえだろうっ。あの恩知らずがっ」
 若者の声は半分泣いていた。
 何があったのか知らないが酷い話もあったものだ。親のない人間が子供を引き取って育てて、そして大きくなった子供は育ての親を捨てた。
 若者は酷く年若く見える。
 酒が飲めるという事は二十一歳を過ぎているのだろうが、それにしても小さな子供を引き取って育て大きくした年齢には見えない。きっと子供を引き取った時、こいつはまだ未成年だったのだろう。アメリカではそんな事はできないが、外国では法も違う。治安の悪い場所では子供が子供を育てる事も、たったひとりで子供が育つ事も珍しくない。
 家族に恵まれない人間が、ひきとりてのない子供を育て、家族になった。そして育てた子供に裏切られた。哀れな話だ。裕福そうだが幸せには見えないのは、男に家族がいないからか。