第三章
「ええと……。これは夢か?」
エドワードは自分の頬を抓った。
「あんまり痛くないから夢か……」
「あの……あれ? 兄さん、ボクの声が聞こえるの?」
「はは、よくできた夢だ。今まで見た中で一番リアルだな」
「兄さん? ボクの身体……。鎧、だよね?」
「今更何言ってるんだ? オマエ、夢の中じゃずっと鎧だったろ?」
「いや、勝手に兄さんの夢にしないでよ。……それともボクが夢見てんのかなあ。現実なわけないし……ああ、これやっぱり夢か」
鎧が言いながらガチャガチャと下半身に上半身を乗せて動かすのを見ながら、エドワードはよくできた夢だなあと思った。
どこから何処までが夢か現実か判らない。
全てが夢なら、アルフォンスとベッドに入った時からが夢だという事になる。……とするとさっきのマスターベーションも夢か。起きた時に下着が汚れていたら恥ずかしい……。
そういえばアルフォンスも十四歳だからそろそろ性欲を覚える年だ。アルはそういう事してんのかなと下世話な想像をする。
鎧の手がうろうろと頭部を探していたので、手渡してやる。
「ほら、アル」
「ありがとう、兄さん」
ごく自然なやりとりに、エドワードはこれ本当に夢か? と疑った。
だが目を覚まして現実に還るより、ありえない夢に浸っていた方が幸せだった。
エドワードは鎧のアルフォンスを見上げ、固い装甲に手を当てる。
「アルフォンス。……オマエ、オレを恨んでるだろ?」
夢だから言えず問えなかった事が聞ける。
「なんで? 何度も言ってるじゃないか。ボクが兄さんを恨むわけない。だってこんなに兄さんは傷ついてる。これほどまでに愛されて恨めるわけがない。でも、兄さんが泣いてるのを見るのは辛い。そんなに嘆かないでよ」
「アル……。何度も言ってるって? アルはオレに何か言ったか?」
「いつも兄さんが泣く度に『兄さんのせいじゃない』って言ってるだろ。兄さんは聞こえてないけど。……今は聞こえてるんだね」
「オレの夢だからな。アルとこうして話す事が夢だった。夢でもいいからオマエに会いたかった。やっと会えたんだ。この夢が覚めなければいいのに」
「これはボクの見てる夢だろ? だって兄さんにボクの声は聞こえている筈はないんだから。ボクはずっと兄さんの中にいたのに、兄さんはボクに気付いてくれなくて寂しかったよ」
「何でアルの見てる夢にオレが出てくるんだ? 鎧のアルは眠る事ができないんだから、夢なんて見れないよな?」
「だからボクは兄さんの中にいるんだってば。鎧姿だったのは六年も前だ」
「は? …………こんな風になった夢は見た事ないぞ。新展開か? 夢のバリエーションが増えたのか。オレの想像力って凄え」
「ボクの夢なのに兄さんが変だ。でも自画自賛してる所は兄さんらしいかも。……いつもの夢みたいに泣いてないのはいいんだけど…………」
「…………………………?」
「…………………………?」
エドワードとアルフォンスは顔を見合わせて双方黙った。
「…………………………アルフォンス?」
「………………………………豆チビ」
「だーれがポケットサイズの豆だぁーーっ!」
エドワードの瞬発的な回し蹴りがアルフォンスに決まった…………と思ったら、足を取られてひっくり返される。
首を切られた食用鶏のように逆さまにぶら下げられたエドワードは、180度回転した世界に混乱した。頭に血が上る。
「……夢……じゃない?」
「夢……じゃないの?」
上からアルフォンスの戸惑った声が降ってきて、エドワードは腹筋に力を込めて首を持ち上げた。
鎧が困惑したように(鎧だから表情は判らないが、長年の付き合いで機嫌の善し悪しは判る)エドワードを見下ろしている。
「……アル?」
「兄さん?」
パッと手を離れ、エドワードはそのまま下にドサッと落ちる。
「……って」
痛みよりも目の前のアルフォンスの方が大事だと、エドワードは目を見開いて鎧を見た。
「兄さん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「…………………………………」
「…………………………………」
「「ええぇーーーーーっ???!」」
お互いを指差しながら信じられないと大声を出す二人だった。
「な、なんでこんな事に…………」
お互いコレが夢ではないと確認した後、二人はこっそり外に出た。大声で叫び騒音を立てたので、母親が様子を見にきたのだ。なんでもないと宥めて部屋に戻った後、窓から外に出た。
「信じられねえ……」
「ボクも……」
人間狂喜の度合いが大きいとすぐには深部には浸透しないようで、エドワードもアルフォンスも現実を受け止めかねていた。
「オマエ、ホンモノのアルフォンス?」
「兄さんこそボクの夢じゃないよね?」
家から離れて丘を登った。ここなら誰が来ても一目で判るし、馴れた場所なので灯がなくても歩ける。新月で視界は暗かったが、互いの存在が判ればそれで良かった。
草原に並んで腰掛けると、お互い言いたい事が山になり、つかえて中々出てこなかった。人間、過ぎた幸福には歓喜より恐れが先に出る。
「アル……。オマエ…………その、どこから記憶があるんだ?」
「全部、あるよ」
「全部って……。全部? どこからどこまで?」
「うん。十年前、母さんの人体錬成の失敗で身体がリバウンドで取られちゃった事も、兄さんが右手と引き換えにボクの魂をこの鎧に定着させてくれた事も、十二歳で兄さんが国家錬金術師になった事も、タッカーがニーナとアレキサンダーを合成獣にした事も、二人がスカーに殺された事も、ラッシュバレーに行ってパニーニャとドミニクさんと知り合って出産に立ち会った事も、ヒューズさんが殺された事も、リンやランファンと知り合った事も、大総統がホムンクルスだって事も…………兄さんが撃たれた事も」
「アル…………全部覚えているのか……」
「……酷いよね。兄さん。なんて事してくれたんだ」
「………すまない。許してくれとは言わないが……」
「ボクが何に怒ってるか判る?」
「元の身体を取り戻せずに死んでしまったから……」
「そうじゃなくて!」
アルフォンスは怒鳴った。
「兄さんが命を粗末にした事だよ。折角ボクが命懸けで兄さんを助けようとしたのに、兄さんたらボクの魂を再錬成しただろ。おかげで同時に扉が二つ開いて錬金術が暴走したじゃないか。それで二人とも死んじゃったんだから救いがないよ」
「オマエが悪いんだろ! オレを助ける為に自分の魂を代価にしたんだからっ! 誰がそんな事してくれって頼んだ?」
エドワードも怒鳴る。
「兄さんが死んだのにボクだけ生きてても仕方ないでしょ。兄さんがいたからボクは生きていられたんだ。魂だけで一人で生きろっていうの? ボクをアルフォンスと認識してくれる兄さんがいたから、ボクは自我を保てたんだ。兄さんが死んだらボクも死ぬって決めてた」
「勝手な事を! オレがどんな気持ちで……」
「勝手なのは兄さんの方だ! ボクには兄さんしかいないのにっ!」
泣き叫ぶような声を聞き、エドワードの頭が冷えた。
鎧の弟。エドワードがそう認識しているから人だと自覚していられたのだ。兄が目の前で死んでいくのを見て、正気でいられるわけがない。
アルフォンスの暴走は想定してしかるべきだったのに。
「……悪ぃ。……オレが死ぬのを見てオマエが正気でいられるわけないよな」
「兄さんが死にそうになった時……ボクは頭の中が真っ白になって、兄さんの命を助ける事しか考えられなかった」
「オレもアルの魂が鎧から消えているのを見て……。自然に手が動いた……」
「ボクらお互いにしょうがない兄弟だよね」
「ああ……」
どちらからともなく手を伸ばし、抱き締めた。
嬉しいというより胸が痛くて何かに縋っていないと倒れそうだった。
エドワードにとってこれは夢だった。
何度も夢に見た。 鎧の弟ともう一度語り合い、触れ合う事を。
遠慮のない包容は痛いだけだけれど、その痛みに現実を認識し、胸が詰まった。
話したい事は山とある。どうして魂が戻ったとか、今までどうしていたとか、こちらの現実がどうなっている、とか。
だが今でなくてもいいだろう。ここにアルフォンスがいる。それだけで充分だった。
今まではアルフォンスの錆び付いた鉄の臭いと熱を奪う冷たい感触を感じる度に、ひたひたと満ち潮のように哀しみが押し寄せて涙零していたが、今感じる涙は温かいものだった。
「兄さん、泣いてるの?」
静かに全身を震わせるエドワードの背をアルフォンスが撫でた。
「オマエが泣けない分、オレが泣くしかないだろ」
「ボクの分なの?」
「オレの分はもう泣きつくした」
「兄さん、ずっと泣いてからね。側にいて、ボクも悲しかった……」
「……側にいた?」
「兄さんは気がつかなかったけど、ボクは兄さんの側にずっといたんだよ。精神が兄さんと同化してたから」
「……へ?」
エドワードは涙で濡れた顔をあげた。
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