モラトリアム
第参幕


第三章

#22



「ねえ、兄さん」
「なんだ?」
 至近距離で見詰められて、エドワードはたじろぐ。アルフォンスが近付くとドキリと胸が鳴る。
 エドワードが恋したのはこのアルフォンスではない。だが同じアルフォンスだ。恋と後ろめたさは同位置にあって複雑にエドワードを責める。
「あの鎧、兄さんの何?」
「え……」
「何で兄さんはあの鎧が好きなの? 理由は?」
 真顔で詰め寄られてエドワードは言葉に詰まった。
 家に帰る度に丹念に手入れをしているのだから、エドワードが父親の部屋にある鎧を大事にしている事は家族全員が知ってる。二体あるうちの一体だけを大事に磨きあげるエドワードに、その理由を知りたいと思うのは当然だろう。
 一緒に暮らしている時、エドワードは鎧に興味を示す事はなかった。母親から危ないから触ってはいけないと言われていたし、エドワードもアルフォンスも鎧の存在など家具の一部くらいにしか思っていなかった。
 だがエドワードは突然鎧に執着するようになり、家に戻ると数時間かけてワックスで磨きあげる。その間部屋には鍵が掛けられ、エドワードと鎧の間には誰も入れない。
 変な趣味だと母親は笑い、アルフォンスは鎧と向いあっている間エドワードが自分を見てくれないので鎧の存在を面白くないと思っていた。
『そんなに好きなら持っていってもいいのよ』とトリシャは言ったが、エドワードはいいんだと首を振って断った。
 ここにあるのが一番いいと、エドワードは自分だけが理解している世界の法を順守するように言った。
 アルフォンスは兄が大好きだったので、数時間でも兄を独占するこの鎧が嫌いだった。
 決定的に鎧が嫌いになったのはあの時だ。
 アルフォンスが気紛れに鎧に触れた時、エドワードは「触るなっ!」と悲鳴のような声をあげアルフォンスを詰る目付きになった。
 そんなにこれが大事かと、ならイーストシティにでもどこにでも持っていけ、持っていかないなら目障りだから処分すると言い鎧を転がしたアルフォンスを、エドワードは殴った。
 兄に殴られてアルフォンスも瞬時に沸騰したが、エドワードが倒れた鎧に縋って泣いているのを目にして頭が冷えた。殴られた事より泣いているエドワードの姿が衝撃で、アルフォンスは謝る事も責める事もできなかった。
 兄の涙はアルフォンスを完全に拒絶していた。鎧に縋るエドワードにアルフォンスの姿は映っていなかった。その事が余計にショックだった。
 その後なんとなく鎧の事に関して双方口を閉ざし、一瞬吹いたすきま風の事も忘れたフリをしたが、忘れたフリなのでアルフォンスは忘れていなかった。
 無機物に嫉妬するなどバカげているが、鎧を抱き締めるエドワードの全てを拒絶する姿に、横っ面を引っぱたかれたアルフォンスは嫉妬と恨みで鎧を嫌った。
 研究室を使うとイヤでもその鎧が目に入る。エドワードのいないうちに処分してしまおうと何度も考えたが、もしこれがなくなってしまったらエドワードが帰ってこなくなるかもしれないと思うと、結局捨てる事はできなかった。
 エドワードが母親のいるこの家を見捨てる事はないだろう。なんだかんだいってエドワードはマザコンだ。アルフォンスだって兄に愛されている自覚はある。
 だがこの鎧を処分して、嫌われないという保証もない。
 何をしても嫌われないと思うが、これだけは判らなかった。
 ある時突然理解を越えた兄。それでも愛されている事を疑った事はなかった。
 だがその愛もエドワードの拒絶で揺らいだ。
「ボクとその鎧、どっちが大事?」
「バカ言ってんじゃねえ。アルに決まってるだろ」
「ならその鎧、ボクにちょうだい」
「なに言って……」
「兄さんがその鎧に向ける目がムカツク。ボクより大事にされてるみたい」
「んなわけねえだろ」
「大事なものなら放っておかないよね。大事ならイーストシティまで持っていくもんね。ボクがそれをどうしようと構わないよね」
「駄目だ」
「なら自分の物だってちゃんと言いなよ。でっかい家に住んでるんだから持ってけばいいじゃないか。置き場所ならいくらでもあるだろ」
「それは……」
「兄さんといられる時間は少ししかないのに、兄さんは僕達家族といるよりその鎧といる方が嬉しいみたい。すっごく腹立つ」
 そう言われてしまうとエドワードには何も返せない。
 幼い嫉妬なのだろう。エドワードにも覚えがある。
 母がここにいない父を、一緒にいる自分達よりも愛していると嫉妬していた。
 だから父親が嫌いなのだが、同じ思いをアルフォンスがしているとしたら、アルフォンスの嫉妬も判る。
「寂しい思いをさせてごめん。けど、この鎧は大事なものなんだ。イーストシティには持っていけないから置いといてくれ。絶対に捨てる事は許さない」
「捨てたらどうする? 兄さんがいない間に処分したら兄さんはどうするの?」
 アルフォンスは聞かなければ良かったと思った。
 表情を無くしたエドワードの目に殺意に似たものが浮かぶのを見て、アルフォンスの体が竦む。
 殺意など向けられた事がないのでそれがそうか判らなかったが、完全にアルフォンスを敵とみなしている視線は、一生エドワードから向けられるはずのないものだった。
「そんなに…………この鎧が大事なんだ…………そっか…………」
 フラリと立ち上がったアルフォンスは向いにあった鎧を手に掛け、そのまま引き倒した。
 ガシャーン、と大きな音が響き、鎧が崩れる。
「アルッ!」
「こんな物っ!」
 怒りのままに鎧の頭部を蹴るアルフォンスの背に、エドワードは飛びついた。
「やめろ、アル!」
「離してよ、兄さん。……嫌いだ、兄さんなんか。この鎧も! 全部大嫌いだ!」
「アル、駄目だって! よせっ!」
 突き飛ばされて尻餅をついたエドワードは目の前で踏みつけられる鎧にカッとなり、アルフォンスの足を払った。油断していたアルフォンスは背中から落ちる。
「うわっ!」
 その場に転がされたアルフォンスは鋭い痛みに右手を見た。
 倒れた拍子に鎧の肩にある鋭い飾りが手に刺さったらしい。ザックリと掌は切れていた。
 血を見たエドワードからサアッと怒りが引く。
「バカッ! 手を心臓より上にあげろ」
 すぐに傷口を押える。
「兄さん、汚れるよ」
「こんな時に何言ってんだ!」
 傷口を見るとかなり深く切れている。
「深いな……。縫わなきゃ駄目か」
「平気だよ」
 エドワードより怪我をしたアルフォンスの方が冷静だった。痛みはあるが、兄の白い顔の方が気になった。
「ばっちゃんのところへ行こう。手当てしてもらわなきゃ」
「母さんに怒られちゃうよ」
「ばか、そんな事言ってる場合か。……待ってろ」
 そう言ってエドワードは部屋を飛び出した。