モラトリアム
第参幕


第三章

#20



「アレキサンダーもニーナもアルも! ……頼むから休ませてくれ」
 二人と一匹につき合わされてエドワードはヘトヘトだった。しばらく会ってなかったから構ってやろうと思ってエドワードだったが、子供の体力を舐めていた。エドワードも子供だが、二人(&一匹)がかりではかなりキツイ。
「十分休憩」
 鬼ごっこからリタイヤしたエドワードは草原に寝転んだ。
 草の上で手足を伸ばす。青臭さと泥の臭いと綿菓子を裂いたような雲が浮かんだ青空に、エドワードはやはり故郷が一番いいと思った。リゼンブールにいるとホッと安らげる。心地良くて、幼い頃に揺りかごにいた時と同じように安堵できて心が凪ぐ。
 イーストシティでの自由気侭な生活もある意味楽なのだが、故郷=家という感覚があって、リゼンブールにいると自分が子供に返ったような気持ちになった。
 エドワードの精神は二十一歳だが、外見が幼いと内面までそれに引きずられるようで、エドワードは自分が大人になったとは思えなかった。それどころかこちらの世界に来てから何も成長していない気がした。
「エド、体力落ちてんじゃないの?」
 ウィンリィが寝転がったエドワードの頭の横に立つ。
「……白いパンツ見えるぞ……ゲフゥッ!」
 すらりと形良い足を晒しているウィンリィが目に入り、エドワードは正直に言ったのだが、乙女の恥じらいを理解していなかった為、腹を踏みつけられた。
「こ……このアマ…………。自分の不注意でパンツ晒しておきながら……」
「乙女の下着を覗いた痴漢が威張ってんじゃないわよ。成長不良のくせにそっち方面ばっかり成長してんじゃないでしょうね」
「乙女を自称すんならもっと恥じらいってものを持てよ。誰が成長不良だ。そっちこそ成長過剰すぎて胸が牛になってる……ガッ!」
 エドワードの顔の真横にウィンリィのスパナが落とされる。
 あらうっかりすべって落としちゃった、という感じだが、直撃したら頭が割れる。
 紙一重でかわしたエドワードはあっぶねえと顔色を変えた。
「バカ女! オレを殺す気か?」
「手が滑っただけよ。エドこそ錬金術ばかりやって反射神経が鈍ったんじゃないの? 素人の女の子の攻撃が避けられないんだから」
「攻撃って自ら認めてんじゃないか。いい加減にしてくれ。こっちに帰ってきてまで気が抜けないんじゃ、帰ってきた意味がないだろ」
「たまにしか帰ってこない方が悪いのよ。アンタ……何考えてんの?」
「ウィンリィ?」
 両足を抱え隣に座ったウィンリィはポツリと呟いた。
「どうして帰ってこないのよ。アルだってトリシャおばさんだってずっとアンタの事待ってるのに。何か帰りたくない理由でもあるの?」
「んなのあるわけないだろ」
「なら何故帰って来ないのよ。あっちにコイビトでもできたの? それとも向こうの生活が楽しくて帰るのが面倒臭いの?」
「……そんなんじゃねえよ」
「じゃあどうしてよ?」
 ウィンリィが本気で心配しているのが判るから、邪険な態度はとれなかった。
 だが本当の事を言うわけにもいかない。
 幸せになる事に罪悪感を感じ怯えているなど…。
「何かちゃんとした理由があってこっちに戻ってこないの?」
「いや……」
「なら帰ってきなさい。研究ならこっちでだってできるでしょ。お金があったってエドがいないんじゃ意味ないじゃない。トリシャおばさんもアルも可哀想よ」
 私も寂しいのだと言外に言われても、エドは言葉を返せない。
 また自分のせいで辛い思いをしている人がいるのだと思うと、いたたまれない。
 母が生きている事は奇蹟だ。
 二度と会えないと諦めた人がごく当たり前にいてくれる。何物にも替えがたい幸福が目の前にある。手を伸ばせばいくらでも掴めるだろう。誰もがエドワードに手を差し伸べてくれている。
 だがその手がとれない。
 一度は無くしたものを二度と失わない為には、側にいる方がいいのだと判っているが、そんな幸せが自分に許されるのかと、己を責める声が聞こえる。
 ただの自己憐憫かもしれないし弱さなのだろうが、向き合い立ち向かう勇気が持てない。
 家に帰り父親の研究室にある鎧……アルフォンスの鎧を見るたびに、体の内が冷えていくような気持ちになる。
 たぶんエドワードがこのまま温い幸福に浸っても『向こう側のアルフォンス』はエドワードを責めないだろう。
 エドワードが弟を愛するようにアルフォンスも兄を愛していた。
 弟がエドワードを恨んでいるとは思わない。だが……。
 全てはエドワードの底にある後悔が原因だ。母親の人体錬成、弟の魂の錬成、弟の嘆き、……死。
 幸福が手に入っても、底にある罪は消えはしない。手にした幸せが輝かしいほど、反対側にある不幸が冷たく鋭くエドワードを刺す。
 しあわせになりたい。
 しあわせになるのがこわい。
 全てはエドワードの心の中だけの問題だ。母や弟には関係ない。
 エドワードの怯えで、愛する者達を少しづつ不幸にする事はいけない事だと分っている。それでも。
「今はまだ戻れない。やらなきゃいけない事があるんだ」
 エドワードは空の色に見蕩れるように、その蒼を目に焼き付けた。
 思えば何かをやろうと決意した時、いつでも空は青かった。
 こちら側のロイ・マスタングと出会った時もそうだった。天は美しくエドワードはやる気に満ちていた。
 落ち込み気鬱を抱えていても、やるべき事があればエドワードは前に進める。
「仕事が忙しいの?」
「どうしても、やらなきゃいけない事がある」
「やらなきゃいけない事? それは家族よりも大事な事なの?」
「家族より大事なものなんてないさ。だけどそれ以外にも大事なものはあるだろ。友達とか……色々」
「エドに友達がいるの?」
「いないわけないだろ。人をなんだと思ってるんだ。……オレの事より、オレがいない間、うちは問題なかったか?」
「心配ならちょくちょく帰ってきなさい。……アンタんちは特に問題はないわよ。冬にニーナが熱を出したとか台風で裏の菜園が駄目になっちゃったとか、そんな事だけ。あと、アルがこの先どうするか迷っているみたい」
「アルが? 何を迷ってるっていうんだ?」
「アンタバカ? 自分の事ばかりでアルの事考えてないんでしょ。アルだってエドと同じ錬金術師じゃない。もっと勉強して腕を磨きたいに決まってるわよ。けど母親を一人残して出てけない。そのくらいの事も想像つかないの?」
「そっか……」
「側にいないから相談もできずにいるのよ。兄なら弟を気に掛けてやんなさいよ」
「ちゃんと話し合うよ。……アルよりもウィンリィはどうなんだよ?」
「どうって?」
「ずっと家にいるのか?」
「あたしは機械鎧技師だもん。当然でしょ」
「じゃなくて、どっかに修行に行こうとか考えてないのか?」
「そのうち外に勉強しに行こうとは思ってる。ばっちゃんも優秀だけど、新しい技術もどんどん開発されてるからいっぱい学びたいと思うし」
『未来の』ウィンリィはラッシュバレーで修行していた。
 こちらのウィンリィもそのうち出て行くのだろうか。
 歴史が変わっているからドミニクと会う事はないだろうし、パニーニャとも知り合わないだろう。この先どうなるのか。
 エドワードがウィンリィの未来を変えてしまったのかもしれない。
「そっか。頑張れよ。オマエの機械鎧は最高だ」
「やだなに? 急にどうしたの? 機械鎧に興味なんかないくせにどういうつもりよ?」
「褒めちゃいけないのか? 機械鎧に興味はないけどウィンリィの腕は知ってる。……オマエの技術は沢山の人の役に立つ。口に出した事はないけど、オレはオマエの事エライと思ってるんだぞ」
「やだ本当に。……エドったらどうしちゃったの?」
 冗談でなく褒められていると判って、ウィンリィは照れた。気心知れた幼馴染み同士で互いの良さは判っているが、面と向って言われた事はない。
 近年エドワードは故郷に寄り付かず、こうして顔を会わせる事はあまりない。
 外見がちっとも変わらない幼馴染みだが、中身はそれなりに成長して大人になっているらしいとウィンリィは驚く。
 本当は誰より家族を愛する人なのに、接する態度は反対に素っ気ない。
 エドワードの中身がどんどん変化していくようでウィンリィは寂しくなった。
「あんまり成長しないでね」
「それは伸び悩んでいるオレへの嫌味か?」
「バカ、中身の話よ。アンタ、どんどん変わってっちゃうんだもの。何だか知らない人みたい」
「オレは何も変わらないさ。大人になりきれずガキのまんまだ」
「謙遜なんてエドらしくないわね」
「ンなんじゃねえよ。単なる愚痴だ」
「へえ。アンタでも愚痴溢すんだ。珍しい」
「そうか? オレはいつもこんな感じだけどな」
「向こうではそうなの?」
「どこにいても自分の無力さは理解している。だから大人になろうと頑張ってるんだろ」
「アンタが無力だったらアメストリス中の十五歳が無力よ。国家錬金術師にまでなっといて何言ってるんだか」
「肩書きじゃなく中身が成長しなきゃ意味ねえだろ」
「判ってるなら大人になれば?」
「努力邁進中だ」
 ああ、エドワードは頑張っているのかとウィンリィは帰らないエドワードに納得した。エドワードはエドワードなりに自分を成長させようと努力中なのだ。
 その方法がどんなものだか知らないが、自分を追い込んで余裕を無くしているらしい。