モラトリアム
第参幕


第二章

#18



 長い話を聞いた。
 全ての話を聞いた後、イズミは強ばった身体を動かした。知らず体に力が入っていたのか、全身が固くなっている。
 イズミは考える。
 動揺が大きく冷静な判断が下せるか判らなかった。
 今の話は本当なのだろうか?
 まともに考えればただのファンタジーか誇大妄想だ。頭がおかしいとしか言いようがない。
 だが。
 エドワードは時空錬成の理論をイズミに話した。
 難解すぎてイズミでもすぐには理解しきれなかったが、その事自体がすでに尋常ではない証拠だ。 上辺だけ見ても子供の空想からはとても出てこない内容だ。物質的拘束を解き放たれた空間移送など机上の理論なのだが、エドワードの説明した理論に隙はなかった。
「すいません。残ると困るので口伝でしか伝えられないんです。……夜が明けたら忘れて下さい。……誰にも知られたくないし、軍にはとくに」
「ああ。そうだな。忘れる事にしよう」
 嘘だと思うなら忘れなくてもいい事だが、イズミはエドワードの話した事
が机上の理論でありながら成功の可能性も僅かだがあると理解し、恐ろしくなった。これは忘れるべきだと思った。
 人体錬成以上の禁術だ。こんな理論を知っているエドワードを気味悪く恐ろしいと思った。
 エドワードは式を、意味も判らず暗記しているのではなく、内容を全て理解して覚えている。
 エドワードの話した十五年分の軌跡はイズミの想像を遥かに越えていた。
「本当に……オマエは……エドワードは十五歳なのか?」
 イズミの視線はエドワードを疑っていた。目の前の九歳の子供の中身が本当は十五歳だなんて、ありえない。
「はい。この身体は九歳ですが、オレの精神は十五歳です」
「母親を……作ったのか?」
「到底母とは呼べないモノを作ってしまいました」
「弟の魂を錬成した?」
「右手一本分でなんとか引き戻せました」
「右手と左足が機械鎧?」
「だから、鋼の錬金術師と呼ばれていました。今は生身ですが、オレの銘はそれしか考えられないので、今生でも頼んでそうしてもらいました」
「私が……お前達の師匠だった?」
「母を生き返らせようと人体錬成を試みていたオレ達は研究に行き詰まり、師匠を欲していました。イズミ師匠は台風の日にリゼンブールに来ました。オレ達は出会い、貴女に弟子入りしました。…………歴史は繰りかえされる。オレは貴女が来るのを待っていた」
「……信じられない」
「信じなくてもいい。だけど……アルフォンスを弟子にする事は受けて下さい。アルの師匠は貴女しかいないんだ」
「エドが病気の母親を一人で助けるからか?」
「オレと母さんは中央に行く。アルは連れていけない」
「一緒に行けばいいじゃないか。そして側で学ばせればいい。オマエの話が本当ならエドワードは一流の錬金術師だ。その実力ならすぐにでも弟子をとれる」
「中央に連れて行けばアルも軍に目をつけられます。アイツの実力なら国家錬金術師になれてしまう。軍の狗でいるのはオレだけで沢山だ」
「弟は八歳なのだろう。精神が十五歳だというオマエならともかく、八歳で軍に目をつけられるほどの錬成力があるとは思えんが」
「オレ達が人体錬成を試みたのはオレが十一歳、アルが十歳だった。……アルの力は磨けばあっというまに伸びる」
「弟が十歳か。そしてエドが十一歳。……その年で人体錬成。しかも魂の錬成まで。……まさに天才だな」
「『真理の扉』を開けたから……アルの魂が錬成できた。初めてとられたのが左足だったから正気を保っていられたんです。師匠のように内臓をもっていかれていたら、無理だった」
「そうだな。あの『扉』に入れば膨大な知識が頭に流し込まれる。……魂の錬成、鎧への定着。そんな事がありえるんだな」
「全てを持っていかれたすぐ後だからできたんだと思います。……アルにとってはいいことではなかったかもしれないけど」
「なぜそう思う?」
「魂だけで肉体がないのは……酷い事です。アルは睡眠も食事も必要としなかった。オレが証明してやらなければ『人』として認められたかも判らない。血印を媒介に鉄の体で生きる事がどんな惨い事なのか……オレは魂の錬成をした時に想像もしなかった。あげくに元の体も取り戻せず、死なせてしまった」
「お互いの魂や命を代価にして同時に錬成しあうなんて、ありえない事をする。空間が歪むわけだ」
「オレはアルを失う事に耐えられなかった」
「それで異空間に放り出された挙句、『時空錬成』か。よく成功したものだ。……よくよく罪深いな」
「それがオレの罪状です」
 ああ、この子は責められたいのだとイズミには判った。エドワードの言った事が本当なら、なんて酷い事をしたのだろう。到底許される罪ではない。
 イズミはエドワードの話を信じている自分がおかしかった。
 ありえない事のはずだ。荒唐無稽だ。
 この小さな手が二度の人体錬成を試みたなんて。
 魂の錬成なんてありえないし、ましてや過去に遡るなんてできすぎた空想だ。
 よくできた作り話だ。
 小さな手が握りしめられ白くなり細かく震えていても、その瞳にあるのが罪悪感だとしても、理論が全てを裏付けしても、イズミは信じたくなかった。
「弟には錬金術を教えない方がいいんじゃないのか? 普通のちょっと頭がいいだけの子供のままにしておいた方が危険は少ないと思うが。オマエ達兄弟は危険すぎる」
 いつのまにか二人の会話は子供と大人のものではなく、対等な錬金術師としてのものになっていた。
「どこに行っても危険はあります。アルや母さんを守る為には、やはりアル自身に強くなってもらわないと。オレが止めてもアルは錬金術を学び続けるでしょう。ならしっかりした師について学ばせた方がいい。……ヨック島での体験は絶対に必要です。オレ達はあれで錬金術の基礎を学びました。全は一、一は全。師匠からの初めての課題です。生きる事理解する事を体と心で感じて受入れ、錬金術とは何かを知りました。……アルを連れていってやって下さい。今回はオレがいないからアルは一人きりで相当苦労すると思いますが、死ななければいいです。存分に鍛えてやって下さい」
「まて。私は引き受けるなんて言ってないぞ」
「師匠。等価交換です。取り引きをしましょう」
 エドワードは絶対に断られないという自信を目に浮かべてイズミに提案した。
「何を取り引きするんだ?」
「アルの心身を鍛えて下さい。その代わりにオレは貴女の望むものをあげられます」
「私が何を欲しがってるって? 私は欲しいものなんかない」
「いいえ、あります」
「勝手に決めるな。お前は押し付けがましいな」
「判りますよ。オレもそれで少し心が軽くなったから」
「なんだ?」
「聞いたら後戻りできませんよ?」
「その判断は私がする」
「師匠の罪悪感を一つだけ減らして差し上げられます」
「私の罪悪感? どうやって?」
 エドワードは真面目な……いや、表情を消した顔で言った。


「師匠の作った子供は……本当に師匠の子供でしたか?」


 エドワードの言葉は真理の扉の向こう側のごとき深さで、イズミの耳に届いた。











「じゃあ、ヴァン・ホーエンハイムと会ったら、すぐに連絡を入れる」
「お願いします」
 エドワードがやろうとしている事を聞いて、イズミはエドワードの提案を受けた。
「無茶をする」
「無茶は得意なんです。というか無茶しなければ対抗できませんから」
「その為の布石か」
「はい」
「失敗したらどうする?」
「成功するまであがきます」
「死ぬかもしれないぞ」
「元々死んでいた命です」
「全てを無かった事にして凡庸な幸せを見つけるという選択肢もある」
「それは最上の選択にはほど遠いです。オレの歩く道は常に険しい山道です。でも頂上へ行けば美しい花が咲いていると信じています。だから走り続けます」
「頑固なガキだ」
「ガキと言われても、もう二十一歳なんですけどね」
「威張るのは身長が160センチを越えてからにしな」
「せ、背の事は言わないで下さい。DNAの気紛れは個人の努力ではどうにもできないんです」
「努力? 牛乳飲まないやつが何を言うんだか。努力を語りたいのならミルクの一杯も飲めるようになってから言え」
「それもまた努力で補えないカテゴリーです」
「阿呆、もっともらしく言うな。ただの我侭だろ」
 イズミに阿呆呼ばわりされてエドワードは肩を竦める。
 イズミはエドワードのそんな姿を見て、この子は変わらないと思った。
 エドワードの成長は少し前から止まってしまった。
 背丈は小さいままで、体つきはほっそりとし、未熟な少年らしさが色濃く残っている。機械鎧を装着していないからもう少し成長してもいいと思うのだが、記憶の中の姿と同化するように体は小さいままだ。
 精神が成長に影響しているのかもしれない。エドワードの心は十五歳のまま止まっている。
 イズミはエドワードを恐ろしい子供だと思っている。
 人体錬成、時空錬成、二つの禁忌を犯したエドワード。外見は幼くても中身はバケモノだ。
 エドワードのした事を考えると嫌悪感しか感じない。踏み越えてはならない一線を越えてしまった子供。
 だが同時に愛しいとも思う。かけがえのないものを亡くし過ちをおかしたのは、イズミも同じだ。イズミにエドワードを責める資格はない。
 エドワードが未来の世界から来なければ、イズミの心は未だ深い闇を抱えていただろう。わが子の事を考えると今も多大な苦痛を感じるが、エドワードと会う前と後では痛みの種類が違った。
 人体錬成の失敗で死なせてしまった子供がわが子ではなかったという事実は、イズミの救いとなった。子供の命を辱めたのではなかったと知って、イズミは泣いた。
 エドワードの告げた事実はイズミの痛みを少し減らした。
 エドワードに対しては感じるのはなかなか複雑な感情だ。拒絶感と親近感と恩と憐憫。
 エドワードはイズミを師匠と呼ぶが、イズミにとってエドワードは対等な錬金術師だ。
 もしエドワードの精神が未来から来なければ、イズミは本当にエルリック兄弟の師となっていたかもしれない。そして同じ悲劇を起こし、同じ道を歩んだだろう。
 エドワードが未来から来た為に悲劇は免れた。母親は死なず人体錬成も行われず、表面上は何も損われてはいない。
 歴史を歪めるのは大罪だが、罪が一つ減ったのも確かだ。
 何が正しいか判らないが、イズミは六年前、十五歳のエドワードと出会えた事を僥倖だと思っていた。


 覚悟を決めて生きている子供にイズミは言った。
「エド。……私にできる事は他にあるか?」
「オレが道を誤りそうになったら、遠慮なくブチのめして下さい、師匠」
(仮)弟子の生意気な言葉に、イズミは「阿呆。二十歳越えた大人が甘えるんじゃない」と叱った。