モラトリアム
第参幕


第二章

#16



 初めてイズミがエドワードと出会ったのは今から約六年前。
 エドワードが国家錬金術師になったばかりの頃だ。
 カーティス夫妻が泊まっていたリゼンブールの宿に、夜中一人の少年が訪ねてきた。
 少年はエドワード・エルリックと名乗った。
 外はまだ嵐の中だった。
 少年は言った。
「お休み中すいません。突然訪ねた無礼をお許し下さい。オレはエドワード・エルリックといいます。イズミ・カーティスさん。お願いしたい事があります。話を聞いていただけませんか?」
「ボウズ、誰だか知らないけど、どこの子だ? 親はどうしたんだ?」
 ベッドから起き上がりエドワードを迎えたイズミは、まだ幼い子供が夜中に扉の前に一人でいる不自然さに驚いた。暗い廊下に他に人影はなかった。
 なぜ子供が自分の名前を知っているのかと訝しむ。
「ここの宿の子か?」
「いいえ、違います。……さきほど貴女に弟子入りを断られたアルフォンス・エルリックの兄のエドワードです。…………中に入れてもらえませんか?」
「アンタが…………国家錬金術師?」
「はい」
 信じられないとイズミは目の前のエドワードを見た。
 そういえばさっき会った子供と面ざしが似ていた。
 気に留めなかったので名前は忘れたが、さきほどの子供の兄だというなら国家錬金術師という事になる。
 この子供が?
 見下ろした子供はフクフクと柔らかく幼く、どこからどう見ても普通の子供で、意志の強い目をしている以外、特別変わった所は見られない。兄というからもう少し大きい子供を想像していたが、これではさっき会った弟の方と変わりない。
 イズミの目に映るエドワードはあまりに幼かった。
 イズミはしばし絶句し、不審感一杯にエドワードを見た。
 そういう視線に慣れているのか、それとも自分の方から訪ねてきたからなのか、エドワードはイズミの視線を気にする事なく自然体だった。
 風は微弱になり嵐の峠は越えたけれど、外はまだ雨が降っている。子供は羽織った雨具から雫をしたたらせていた。
 イズミは軍は嫌いだったがここまで小さい子を締め出す事もできず、仕方なしに部屋に招き入れた。
 いかつい自分の夫の姿に怯える事なく軽い緊張と好意の表情を浮かべる子供に違和感を感じたが、警戒するにはエドワードの姿はあまりに小さい。
 タオルで身体を拭かせ椅子を勧めると、エドワードはエイと腰掛け、イズミの姿をジッと見た。
 ブラブラと床につかない足に本当に幼いのだとイズミは怒りを感じる。
「親御さんに黙って出てきたのか?」
 イズミが聞くとエドワードはこくんと頷いた。
「内緒です。心配しますから」
 声も幼い。
 国家錬金術師と聞いたがガセではないかとイズミは思った。
「当然だ。こんな夜中にガキが一人で外に出るなんて非常識だ。しかしここにきた事を知らない方が心配するぞ。私達だって子供の誘拐犯に間違われたくはない」
「大丈夫です。母さんは薬が効いてるから朝までぐっすり寝てるはずです」
「薬? まさか自分の親に一服盛ったのか?」
「人聞き悪い事を言わないで下さい。母は持病があって常時薬を飲んでいるんです。その中には睡眠作用の強い薬もあるんです。ついでに言うと父親は蒸発していません。あ……イズミさんは先程倒れたんですよね。身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。気分は大分良くなった」
「良かった。……夜中に失礼かと思ったんですけど、我慢できなくて。……どうしても御会いしたかったんです」
「何故?」
「会える事を楽しみに待っていたからです。イズミ師匠」
「センセイ? なぜそう呼ぶ?」
「あとでちゃんと理由を説明します」
 好意に溢れた声になぜこの子は私の前でそんな顔をするのだろうとイズミは訝しんだ。
 それに言葉遣いが子供らしくなかった。イズミが倒れた事は大勢が見ていたから知っていてもおかしくないが、気遣いの言葉がどうにも大人びていて姿と合わず、違和感を感じる。
「じゃあ家に残っているのは母親と弟だけか?」
「ええそうです。だから早めに話を切り上げて家に帰りたいんです。アルがいるから大丈夫だと思うけど、なるべく母さんの側から離れていたくないので。母は体が弱いんです」
「お前……エドワードは今いくつだ?」
「九歳です」
「弟は?」
「八歳です」
「九歳で国家錬金術師?」
「はい」
 再び感じた怒りで拳に力が入る。ふざけている。全てが。
 だがエドワードを殴ったところで事実は変わらない。殴られるのは親の方だ。こんな小さな子供に何をさせているのか。
 天才と煽てられ、あげく国家錬金術師などになってしまったのか。愚かすぎる。
「子供は寝る時間だ。用があるなら明日の朝聞いてやる。親と一緒に来い」
「それは困ります。母さんには内緒にしておきたいので」
「子供の戯言につきあう気分じゃない。帰れ」
「用件を済ませたら帰ります」
「しつこい子だ。夜中に突然訪ねてきてお願いか? 母親の教育を疑われるぞ」
「母は関係ありません。母さんは何も知らない」
「その年の子供が親が関係ないわけないだろう。保護者なしで話を聞くわけにはいかん」
「知られたくない事があるのはお互い様のはずですが」
「なんだと?」
「失礼しました。とりあえず聞くだけ聞いて下さい。
五分だけ、オレに時間を下さい。たった五分ならいいでしょう?」
 懇願するように言われてイズミも妥協する。
 五分経ったら有無を言わさず家に連れて帰ろうと決める。
「用件はなんだ?」
 エドワードは背筋を伸ばすと言った。
「お願いがあります。……さっき会ったオレの弟のアルフォンスをイズミ師匠の弟子にしていただけませんか?」
 なんだそんな事かとイズミは少し呆れた。
 夜中に何を言いに来たのか。一度断られたから今度は兄が来たのか。国家錬金術師の頼みだから断られないとでも思ったのか。非常識にもほどがある。
「断ったはずだが。弟から聞いてないのか?」
 尖ったイズミの声を気にする事なく、エドワードは話を続ける。
「聞きました。けれど受けてもらわないと困るんです」
「何が困る。お前が国家錬金術師というのは信じ難い話だが、本当だというなら自分が教えればいいじゃないか。ガキでも国家錬金術師になれるくらいなんだから、相応の実力はあるんだろ?」
「当然の答えですが、オレはやる事があってアルに錬金術を教えている時間がありません。ですから師匠にお願いしたいのです」
「勝手な願いだな。……というか、勝手にセンセイ呼ばわりするな。私は弟子などとらん」
「いえ、とっていただきます。それが正しい選択ですから」
 しゃあしゃあと言うエドワードにイズミは殴ってやろうかと拳を握る。
 ブチのめすにはまだ小さいが、礼儀作法を教えるのも年長者の役目である。