モラトリアム
第参幕


第一章

#03



 トリシャ・エルリックの哀しげな眼差しにロイはそれ以上何も聞く事ができなかった。
 トリシャがエドワードについて語る事はアルフォンスからの情報と大差ない。エドワードはごく当たり前の子供の姿しか家族に見せていない。
 変容は突然だったという。エドワードは前兆なく開花した。
 良い意味で変わったのだろうが(そうでなければ母親は今頃生きていない)突然の、原因の判らない変容に家族は不安を隠せないようだ。
 軍の情報部がどんなに調べてもエドワードの師や前歴(田舎育ちの九歳の子供の履歴などたかが知れている)は出てこなかった。
 故郷から一歩も外に出ず専門の教師もなく、いきなり光り輝いたダイヤモンドの天才児。
 誰が研摩したのか。どうやって育ったか知りたいと思うのは当たり前で、エドワードについては散々調べられた。
 だがリゼンブールで生まれ、育ち、頭がいいだけの田舎の健康優良天才児として成長したエドワードについてあげられた事実は近所の人間が当然のように知っているような事だけで、天才の秘密と呼べるようなものは何も出てこなかった。
 息子について何も知らないと言うエドワードの母親がウソをついているようにも見えなかった。エドワードは親の目から見ても異端児なのだ。
 ロイはエドワードに興味がある。何となく気になって目が離せない。
 だが心惹かれると同時に警戒心も抱いている。 好悪の感情でいったら好意の方に傾くかもしれないが、正体の見えない不気味さも感じるから純粋な気持ちは抱けない。好きか嫌いか、自分でもよく判らない。
 どうにもエドワードから不具合を感じる。しっくりこないというか、ジグソーパズルのピースが当て嵌まるべきところに正しく入っていないというような気持ちの悪さを感じるのだ。
 その印象はロイしか持っていないようなので気のせいなのかもしれないが、エドワードを知れば知るだけ自分の中の違和感が大きくなってくる。
 エドワードはロイに好意的だ。(何故だろう?)
 憎まれ口ばかり叩くし、ヒューズに向けるような素直な愛情表現を示す事はないが、後見人であるハクロ将軍に向ける取り繕った愛想笑いを向けられた事もない。
 そういえばエドワードは秘密主義でありながら、ロイに対しては本音を語っているようだ。それはロイだけではなく他の東方司令部のメンバーに対しても同じで、なぜかエドワードはロイ以下の人間に対して素直で子供らしい。つまり友好的だ。
 それは何故なのか。考えても判らないので、そろそろ考えないようにしている。
 エドワードはロイの周辺に対して本当に好意的だ。ヒューズに懐いているし(ヒューズの方がエドワードを構っているだけのようにも見える)アームストロング少佐に対してもぞんざいで(鬱陶しそうではあるが)気を許しているような所が見られる。
 あの二人が人間的に暖かく善良だからなのかもしれないが、それにしても時々エドワードを覆っている殻が壊れて中の素直な少年が見えるのは、ヒューズ達に接している時だけだ。家族はまた別だが。
 エドワードは自分の家族、母と弟に対してはひどく慎重だ。兄らしく尊大ぶったり母親の前では借りてきた猫のようにふるまうのは普通の事だが、時々どこか遠慮しているように見える事がある。ニーナではないが、まるでエドワードの方が養子のように見えるのだ。
 思春期で精神的に不安定な時期なのかもしれないし、また別の理由があるのかもしれない。家族を故郷に残しているという引け目なのかもしれない。
 少年期の複雑な心情は自分もそうだったにも関わらず読み取り難い。
 探って見えないのだから直接聞くしかない。遠慮をしないのがロイだ。
「君が精神的に不安定だと私も心配だ。君の憂い顔には必ず原因があるからな。それもかなり真剣な」
 ロイが真面目な面持ちで言うと、心当たりのあるエドワードは気まずく顔を逸らした。
「何か私に言う事はないか? 私はそんなに信用ないか? この部屋は盗聴されていないから相談するなら今だぞ。私も忙しい身だし、そうそう君にばかり関わってはいられない」
「アンタが忙しいのはよく分かってる。その大佐がなぜオレなんかを気にかけるんだ?」
「君は自分を過小評価しているようだが、鋼のは注目筆頭株の国家錬金術師だ。少なからず君に関わってきた私が心配するのは当然だろう」
「オレに関わっても大して益にはならないぜ。むしろ不利益を被るかもしれない」
 エドワードは皮肉げな声と視線をロイに向ける。
「益になるならないは別として、君の事は気になる。君には分らない所が多すぎるからな。君の秘密が知りたいとずっと思っていた」
「他人の秘密を覗きたいなんて悪趣味だぜ、おっさん。オレが女だったら口説かれていると思うぞ」
「誰がおっさんだ。私はまだ二十代だ。私は少女趣味はないので、君が女性だったとしても口説いたりはしない」
「四捨五入すればとっくに三十歳だろうが。あと数カ月で三十代突入なんだから潔く認めろよ」
「ケツの青いヒヨッコには判らんかもしれんが、二十代と三十代の間は広くて深い溝があるのだ。君がいつかその立場に立てば判る」
「……三十歳か……。その時まで生きていられればな」
「若者が何を言っている。三十代なんてずっと先の事だと思うだろうが、月日が経つのはあっという間だぞ」
「……知ってる」
 苦く笑うエドワードの表情が人生に疲れはじめた中年のように見えて、ロイはなんて顔をするのだと思った。
 人生を斜めに見ている愚かで人生経験薄い生意気なガキが浮かべる表情ではない。エドワードが何を背負って生きているのかは知らないが、時折浮かべる諦観じみた疲労の表情はそのままエドワードの抱えている心労のようで、なぜそんなに疲れているのだとロイは襟元を掴んで問い質したくなる。
 本当なら他の子供と同じように学校へ行き、将来を夢見て希望を持ったり諦めたりまだ見ぬ明日を不安と期待で迎える日々を送っているはずなのに。
 エドワードは母親の為に一足飛びに大人の仲間入りをしたけれど、もし母親の件がなかったらどういう十五歳になっていただろう。軍の狗などにはならず、のんびり田舎暮らしを満喫し、ロイに接点を持つ事もなく平和に明るい一生を終えただろうか。それとも都会に出て錬金術師として生計を立てるか。どちらにせよ、エドワードの未来は明るかったはずだ。
 なのに現実はこうだ。エドワードは常に人生を憂い戸惑い傷ついて、途方に暮れている。
 表面上は完璧だが、身近にいる人間はエドワードの気鬱が見える。才能や実績、何もかもを持っているエドワードだが、意気揚々とし幸福に満ちているようには見えない。
 だからロイも違和感を感じ疑問を持つのだ。
「君は何が欲しくて国家錬金術師を続けている? 最愛の家族と離れ、たいして欲しくない金と権力を持って、それ以上何がしたい? 母親が助かった時点で軍とは手を切るべきだった。軍は綺麗な場所じゃない。君が軍にいれば家族だって心配する。家族を思うなら故郷に帰るのが一番だ」
「あんたにそんな心配をされるとはね。……アンタの目に映るオレはそんなに不幸顔してるのかよ?」
「君が自覚しない程度にはね。君がこのまま軍に残ればいずれは戦場に出されるぞ。北も南も国境付近は常に戦場だ。今は割合平和な東部や中央を基準に考えていると後で後悔するぞ。その不幸顔が張り付いてとれなくなる未来は必ずくる。自分や家族が可愛いなら軍から身を引くべきだ」
「軍人の……大佐の地位にいる人間が吐くセリフじゃねえな。上に知られたらヤバいだろ」
「今は大佐としてではなくただのロイ・マスタングとして言ったんだ。私も戦争に出た。……あれは地獄だ。君には耐えられんよ。あそこにいる人間は皆悪魔であり死神であり、ひとでなしだ。戦場では道徳も常識も慈悲も消え失せる。錬金術師の戦闘は戦いですらない。ただの虐殺だ。……もう一度言う、君には耐えられん。あそこにいる人間達は人の皮を被ったケダモノだ。戦場は人を壊しひとでなしにしてしまう。地獄は死後の場所だと思っているなら大間違いだ。本物の地獄を人間は作りだせるんだ」
「アンタそれ……自分の事言ってんだろ? 焔の錬金術師」
「……………………」
「イシュヴァール戦争か。……アンタはそんなに自分が許せないのか? まだ傷口から血が流れてるのか……。そうだよな」