モラトリアム
第参幕


第一章

#02



 人にはそれぞれ心に沈めた闇があり、エドワードだけが特別なのではない。とは思ってもエドワードの秘密の不思議さには首を傾げずにはいられない。
 エドワードはまごう事無き
天才で稀代の錬金術師だ。
(それなのに師匠と呼べる人間がいない。指導者もなくここまで突出できるわけがないのに)

 エドワードは時々先を見透かしたように色々な事を言い当てる。
(推測だけでは説明できない事が多すぎる。だがエドワードはそういった情報を何処から得たか絶対に漏らさない)

 エドワードは無欲だ。
(国家錬金術師として多額の金銭と名声を得て不自由ない暮らしをしているから、というだけではない。例え自分の研究を他人に盗まれても平然としている。自分の研究に固執しない科学者はいない。だからエドワードの態度は研究者としてはあるまじき姿だ)

 あげれば数々と浮かびあがってくるエドワードの疑問。
 ロイが警戒するのも当然だ。エドワードは不透明で怪しすぎる。
 それにエドワードの方からわざわざロイの方に近付いてくる意図も読めない。
 この子供はなぜロイに近付こうとするのか。
 目的があるからこその行動なのだろうが、その目的は検討つかず謎のままだ。
 ロイとエドワードは、六年前までは接点がなかった。
 だがその接点をエドワードの方から作り、そして今ここにいる。
 この子供はどうしてロイを知ったのか、そして近付いたのか。
 ごく普通の家庭に育った子供。母親と弟を見れば家の様子はなんとなく想像できる。平凡で愛に溢れ幸福に満ちた家庭。何事もなかったならエドワードも凡庸な田舎の少年として育ったろうに。
 ロイは疑問をそのままにはしておけず、率直に聞いた。
「君がそういう顔をしている時にはロクな事が起こらない。何がそんなに気に掛かるのか、ハッキリ言いなさい。他言無用にしたいなら秘密は守るぞ」
「別に……」
「またそうやって誤魔化して、事が表沙汰になった後に動いて間に合わず後悔するのか? タッカー事件の時のように」
 瞬間エドワードの顔付きが変わったのに気付いたが、ロイは構わず続ける。
「君がもっと早く私に相談していたら、タッカーは罪を犯さずに済んだかもしれないのに」
「やめろっ!」
 エドワードの鋭い声は悲鳴に似ていた。
「自分のせいだと責任を感じているから、三年経った今も事件を口に出せないのだろう」
「煩い!」
「動揺を隠す事もできんのか。後悔しているのなら同じ過ちを二度と繰り返さない事を学んだはずだ。……何か気に掛かっている事があるなら言いなさい。憶測の域を出なかったり、くだらないと思うような事でも構わない。君が気に掛けるなら事なら私も知りたいと思う」
「大佐……」
 顔色を変えたエドワードだが、ロイの瞳が真剣なのに気付くと浮かせた腰を下ろした。
 ロイの追求は好奇心や命令ではないからエドワードも否定しきれない。
 三年前の事件にロイも関わり苦い思いをした。
 錬金術による人体実験。人と獣の融合。禁忌の技。
 事前にエドワードがその非道に気付いたのに止められず、悪魔の実験は遂行され悲劇が起きた。
 事件は公にはなっていない。一部の上層部だけが知るのを幸いとし、揉み消され、タッカーは牢獄に入り、実験体となったキメラ……タッカーの妻は自殺した。
 全ては三年も前の過去だが、関係者の傷はまだ深く残っている。
「ニーナが可哀想だと思うなら、どんな小さな事でもいいから私に知らせておきなさい。悪いようにはしない。できない事も沢山があるができる事もある。少しでも私を信じているなら言うべき事は言っておけ。後悔しない為に」
 エドワードは口一杯の苦い物を飲み込みように頷いた。ロイは正しい。
「ニーナは元気かね? あの子ももう四歳か。月日の経つのは早いものだ」
「ニーナは元気だよ。かあさんが育ててるからな」
「子供は田舎で育つべきだな。都会は何かと騒がしく情報も蝿のように飛び交う。……ニーナは自分の両親の事を何も知らんのだろう?」
「ニーナは……自分がエルリックの本当の子だと信じてる」
「だが人の口に戸は立てられん。学校に通う年になれば、いずれは誰かから自分が養女だと聞かされる事になるぞ」
「その時になったら……皆で慰めてやればいいさ。いずれは判る事だ。一生は隠しておけないからな」
「君はそうやって割り切っているのか?」
「割り切っているんじゃなく……覚悟している。善良なリゼンブールの住人だって悪意がないわけじゃないし、ニーナがエルリック家と血が繋がっていないのは周知の事実だから、誰かが気軽に漏らしてしまうかもしれない。大佐の言うとおり、人の口に戸は建てられないからな。いずれニーナは自分の出自を知る」
「そうか」
 こういう所がエドワードが子供らしくないと思う所だ。子供だったら……ニーナは絶対に自分が守るのだと息巻いているだろう。だがエドワードは動揺しながらも結論を冷静に出す。
 エドワードはニーナ・タッカーに特別な思い入れがある。(それが何故か判らないが)
 エドワードはあの事件の後、強引にニーナを自分の家族にしてしまった。本当ならニーナは施設に入るか遠縁の親族に引き取られている所だった。だがエドワードは持てる権力とコネを使って、ニーナ・タッカーをリゼンブールの自分の家に引き取った。
 タッカーを止められなかったのはエドワードの責任ではないし、タッカーの悪行を知っていて止めなかったのはグラン准将だ。責任はひとかけらもないのにエドワードはニーナを気にかけ、最後は引き取った。
 エドワードは国家錬金術師ではあるが子供だったし仕事があったので、実際にニーナの面倒を見ているのはエドワードの母親だ。
 子供を引き取り、育てるのは容易な事ではない。ましてやニーナは乳飲み子だった。
 エドワードは自分の無責任さを知りながら、面倒を母親に被せてしまうのを承知の上でニーナを家族にした。
 どうしてそこまでエドワードはニーナに肩入れするのだろう。
 エドワードの本心が何処にあるのか判らないし誰も知らない。何度も「なぜ?」と問う周囲の声に返る言葉はなく、エドワードは沈黙を貫いた。
 ロイも不思議に思いエドワードではなくその母親に尋ねた事がある。だが母親もエドワードのニーナに対する思い入れの原因を知らなかった。




『あの子は黙って私に頭を下げました。ニーナを育ててくれと。自分では育てられないからと言って』
『だからニーナ・タッカーを引き取ったと? 赤の他人ですよ? 気軽に引き受けられる事ではないでしょう。エドワードの望みを無責任な善意とはね退けなかったのは何故ですか?』
『あの子が心からそう望んでいたからです』
『トリシャさん?』
『わが子が泣かない涙を流しているのを、どうして母親の私が嘆かずにいられるでしょう。一度、自分の命を諦めたのは私です。どうしようもなかったとはいえ、私は子供を捨てようとしたのです。身を蝕んだのが不治の病とはいえ、ろくな治療も受けずに死を受入れてしまった。エドワードの抵抗があったからこそ今の私がいます。……国家錬金術師になる少し前から、エドワードは昔のように無邪気に笑わなくなってしまった。私の病気が治った今も、エドワードの顔には笑顔が戻りません。あの子の笑顔はもう子供のものではない。寂しい、孤独を抱えた一人の人間のものです。家族がいるのに、エドワードの心には隙間が空いています。そうしてしまったのは私です。……エドワードは子供らしい我侭を言いません。私に判らない仕事に明け暮れ、家にも帰らない。まるで私と暮らすのを恐れるように』
『まさか母親を恐れるなど……。鋼のは誰より家族を、あなたを愛しています。だからこそ国家錬金術師になったのです』
『ええ。あの子は私達家族を愛しています。だけれど同時に恐れてもいます。あの子の目には常に不安と恐れがある。……昔のエドワードは違った。自信と未来への希望に満ちた無邪気な瞳をしていた。なのに、ある時から薄い膜が掛かってしまった。まるで太陽を遮る厚い雲のように。そしてその雲は一度も晴れた事がありません。国家錬金術師になった時から、あの子の目は未来を夢見るのを諦めたように陰ったのです。まだ九歳だったのに……。そんなあの子が、久しぶりに私に〈自分の望み〉をぶつけ懇願しました。母として……叶えないわけにはいきません』
『エルリック夫人……』
『マスタング大佐。大佐は私にエドワードの事が聞きたいのでしょう。ですが、腑甲斐無い事に私はエドワードが分らないのです。自分の息子の事なのに。母親失格ですね。愛し愛されている事は確かなのに、私にはあの子が見えないのです。あの子が私を時折恐れの目で見るのは、理解されない事への恐怖なのかもしれません。どうぞ腑甲斐無い母親とお笑い下さい』