ロイの前から立ち去ろうとすると手を掴まれた。
触っていいと許可した覚えはないと睨む。
子供とはいえ、女の身体に許可なく触れるのは礼儀に反している。そんな事を平気でするのは、裏通りでいかがわしい日常を過ごしているチンピラだけだ。
しかしロイという男はオレを女だと思っていないらしく、平気で触れてくる。
傍目にもオレは女に見えないから、誰も非礼な態度だと思ってないし。
「君ねえ……。ありがたいと思うなら素直に受けたまえよ。チャンスがあれば奪い取る、間抜けは蹴落とす、それが弱肉強食の世界を生き抜く法だと知らんのか? 知らないのなら覚えておきたまえ。チャンスを逃す者は一生出世できないし豊かにもなれない。君はチャンスを棒に振るつもりか?」
ロイは教え子を諭すようにそう言った。
いささか押し付けがましいが、本気でそう思っているのだけは判る。
「同感だ。けど……初対面の人間を簡単に信用しろって方が無理だろ。アンタがどんな人間かも知らないのに推薦なんか受けられるか」
「用心深い事だ。……しかしそれは良い事だ。誰が敵か判らない世の中だからな。利用しているつもりで利用される事だってあるし、腹黒い人間を見分けるのは難しい。しかし君には失って困るものはそう多くないだろ? 財産があるようには見えないし、私は君に性的欲求は感じてないのだからそういった繋がりは持つ事はないし、君程度の子供にいちいち恩を着せるほど狭量でもない。君にとっては良い事づくめの筈だが?」
「それが胡散臭いって言うんだよ。……アンタ、『タダより高いものはない』って格言知らないのか? 世の中の悪党の定番セリフだってあるだろ。『騙された方が悪い』って。アンタがただの善意の金持ちだとしても信用できない以上、関わり合いになりたくない。自分が胡散臭いって、アンタ自身が一番判ってんだろ? ロリコンジジイの方がまだ目的が判りやすくていいや」
ロイは憮然とした顔で言った。
「私はそんなに胡散臭い男に見えるのか?」
「上から下まで隙間なく。その目が笑ってない笑顔も、隙だらけに見えて全く隙がない物腰も、演技掛かった大仰なゼスチャーも。……善人ぶりたかったら笑わない方がいいと思うぜ。筋肉の動きだけの笑顔なんて……ちょっと観察すりゃ分る。不審を抱かれるに決まってる」
「……そうか」
ロイはスッと笑顔を消してオレの手を掴んだまま立ち上がった。
「君の言い分はよく判った。確かに初対面の人間を信用するのはバカだ」
「判ったんなら、いい加減手を離してくれ。野郎に触られると虫酸が走る」
「……酷いな。御令嬢方からはダンスの申し出を受けたくて、伸ばされる事を待ち望まれている手なのに」
「ならその御令嬢さん達の手でも腰でも握ってやれば? オレは関係ないし遠慮する」
「ふむ。関係は……あるぞ」
「どんな?」
「私は提案し、君はそれを聞いた」
「断っただろ?」
「私は誘いを断られた事はないので、諦めるという事もした事がない。君が諦めたまえ」
「良かったじゃないか。初体験だ。何事にも初めてはある。諦めるという事を学べ」
「いいや。君は断らないので、残念だが[諦め記念日]は後日になりそうだ」
「ンなわけないだろ。いい加減手を離せって」
ロイに手を掴まれたまま廊下を引き摺られる。手をブンブン振って手を払おうとするが固く握られた左手は離れやしない。
右手が空いてるので鳩尾に一発入れて自由になるという手もあるが、相手が貴族ボンボンだと面倒な事になるので、最後の手段だ。空いた教室にでも連れ込まれ、いかがわしい事でも強要しやがったら、最後の手段炸裂で二度と女とできないようにしてやるつもりだ。
「コンチクショウ、放しやがれ」
「女性がコンチクショウだのやがれだの言ってはいけないよ。君はエレガンスを学ばなければならない」
「でっかいお世話だ。は〜な〜せ〜〜!」
「遠慮は美徳だが場合にもよるぞ」
「誰が遠慮だ。イヤだって言ってんだよ。テメエ、人の言う事聞きやがれっ」
そうこうしているうちに、オレがさっき受験した試験会場とは別の棟に連れて来られてしまった。
廊下を引き摺られるように歩いていくと突き当たりの部屋の入口に、何か白く長い紙が貼ってある。見ると錬金術なんたらと書いてあるので、例の大学の錬金術学科の試験会場だろう。
抵抗なんか気にせずにロイはオレをその前まで運ぶ。
「おいこら。オレは試験を受けるつもりはないと言ってるんだが」
オレの言葉なんか聞こえないフリ……というより無視されている。
なんでこの男はオレにンな事をさせたがってるんだ?
いかがわしい内容ではないので素直になってもいいかな? と思わないでもないが、本能が『この男を信用してはならない』と囁く。そしてオレの第六感は結構当たる。
ロイという男は名しか名乗ってない。姓も教えず顔と声に嘘を滲ませる男を信用するなんて、盗人に金を与えるようなものだ。
「おい……いい加減に……」
しろ、と言い掛けたオレをロイはポイと当然のようにドアの中に放り込んだ。
「おい!」
閉められた戸をドンドンと叩くと、向こう側の声が聞こえた。試験会場の入口で案内をしていた男がロイに向かって困惑しているような声を出している。
『あの………。今の子供は一体誰ですか?……。本日の受験者は全員着席しており、そろそろ試験が始まります。部外者は困ります』
『今の子供は私の推薦する錬金術師だ。便宜を計ってくれ』
『はあ……。しかし突然そうおっしゃられましても……。もう試験まで二分をきっておりますし、それにそのようなお話はまったく聞いておりませんが』
『言うのを忘れていたんだ。上にはこれから話を通す。君に責任は及ばない。問題はない』
問題大有りだろ、と尊大で無茶な言葉を聞いて思ったが、意外にも外の男は『かしこまりました。では閣下の御推薦者という事で特別に席を御用意致しましょう。……試験会場は御見学されますか?』とのたまわった。
張り付いていたドアから滑り落ちそうになった。
おいおい。
そんなんでいいのか、大学受験。
ロイって身分高い大貴族のボンボンなのか? すんなり受験申請が通ったぞ。どんな権限があの男にあるっていうんだ?
閣下とか呼ばれてる所を見るとボンボンじゃなく若くして爵位を継いだ貴族か爵位持ちなのかもしれない。服装は地味だが貴族にも華美を好まない人間はいる。
ドアが開いてロイが入ってきた。
「そういう事なので早く席につきたまえ。推薦者の私の顔に泥を塗るような真似をするなよ」
塗れるものならこの厚顔男の顔に泥団子を投げ付けてやりたい。
笑顔と成りゆきに押し切られ、何だかよく判らないうちにオレは講堂の端に坐され、試験問題が配られてしまった。
他の受験生達の目が痛い。
なんだ、このガキは? 場違いだぜ、邪魔だ、って視線を受けて肩身が狭い。空気がピリピリしている。
オレのせいじゃありません、オレの意志じゃないんです、よく判らないけど人の話を聞かない強引男が勝手にオレをここに引っ張ってきたんです……と言い訳したかったが、面倒な視線も試験が始まるまでだった。
開始三十秒前になると、とたん空気がピンと張り詰める。
ううむ。よく判らない展開だが、大学受験か。……なんだかちょっぴり楽しくなってきたかもしれない。
いずれ受けようと思ってたものだし、時間もあるし、まあいいか。
男の思惑に乗るのは業腹だが。
開き直ってオレはチャイムと同時に試験問題を捲った。
自分の思い通りに事が運び満足げな顔をしているロイの顔がムカついたが、問題を始めるとすぐに忘れた。
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