第三章
それからしばらく会話らしい会話がなかったが、ロイは先を急がず、エドワードが話し出すのを待った。
エドワードの中で何かが葛藤している。焦れる気持ちはあったが急がず待つしかない。
そうして。
「これから言う事は……誰にも言わないでくれ。勿論ヒューズ中佐にも、ホークアイ中尉にも」
「誰にも喋らずずっと黙っていろと? 秘密を墓の下まで持って行くような秘密なのか?」
「いいや。……そこまでしろとは言ってない。ただ……今は駄目だ。話していい状況になるまでは黙っていて欲しい」
「誰かに知られると困る話なのか? 軍上層部か?」
「ああ。……上層部だけじゃない。誰にも、誰にも知られちゃいけないんだ」
「君の言う事を聞くと、私は軍に対して嘘を吐かなければならないのだな?」
「嘘八百は得意だろ」
「場合による。嘘にも重さ軽さがあるからな。必用か不必要か判断するのは私だ」
「……オレは必要でなければこんな頼みはしない。オレの願いを軽いと言うなら、大事な事は言えない」
「判断するのは私だ。話せ」
「ショウ・タッカーはキメラの錬成をしている」
「それが? さっき聞いた」
「キメラの存在自体は珍しい事じゃない。それだけでは国家錬金術師にはなれない」
「そうだな。だが錬成の出来栄が良ければ合格する事もある。筆記試験と実技の両方が合否の基準になる」
「タッカーは二流の錬金術師だ。キメラは錬成できても、ヤツはそこまで止まりだ。国家錬金術師になる力はない」
「何故断言できる? タッカーの事をよく知ってるんだな。面識はないんだろう?」
「面識はなくても……そういう情報は掴んでいる」
「ほう。真偽は判らんが君の話を信用するなら、タッカーは無駄な受験をしているという事になる」
エドワードは自分の右腕を大事な物のように擦りながら言った。
「グラン准将って人は……オレはよく知らないけど厳しい人だって聞いてる。自己顕示欲と出世欲が強くて、好戦的な権威主義者だって。軍を信奉し組織の中での順位を尊ぶタイプだ」
「身も蓋もないがその通りだ。人を力でねじ伏せるのが大好きな肉体派だが、ヤツも国家錬金術師だ。頭は悪くない。グラン准将がどうした?」
「そんな人間があっさり二流の錬金術師に騙されて後見人を務めると思うか?」
「……それは、ないな」
エドワードに言われて考えた。
グラン准将は用心深い男だ。脳まで筋肉な肉体派だが、バカでは国家錬金術師にはなれない。言動は乱暴だが頭脳はそれなりだ。
グラン准将を騙して後見人につけたい錬金術師がいるだろうか? 騙されたと判ればどんな目に合わされるか判らない。万が一いるとすれば、グランの目に適う一流の錬金術師だけだ。
だがエドワードはタッカーを二流の錬金術師と断言した。
「君の言う通りだとしたら、変だな。タッカーが二流の錬金術師なら、グラン准将は初めから相手にはしない。タッカーはどうやってグランの信用を勝ち得たのだ?」
「……筆記試験が悪くても、一発逆転できるジョーカーの存在をチラつかせたのかもしれない」
「ジョーカー(切り札)? タッカーはどんな持ち札を持っているというんだ? 君はそれを知っているんだな?」
「タッカーは……あるキメラを作り出そうとしている。……と、いう噂がある」
「どんなキメラだ? 馬に鷲の羽をつけてペガサスでも作るのか?」
冗談を言ったロイは戸惑った。
エドワードの表情があまりに暗かったからだ。まるで地獄の蓋を開け中を覗き込んで、見てはいけないものを見てしまったような顔だ。
「鋼の?」
「タッカーが作り出そうと…………出そう……と……してる…………キメ……ラは……キメラは…………」
「鋼の!」
ロイは慌ててエドワードを支えた。
エドワードは喉を抑えて喘いでいる。呼吸ができないようだ。
エドワードを寝かせる。
「鋼の。無理に息をするな」
側にあった紙袋を頭から被せた。喉を掴み、暴れるエドワードをロイは押さえ込む。
ゼイゼイとエドワードの荒い息がすぐ近くで聞こえた。
「暴れるな。じきに楽になる」
やがてエドワードの息が穏やかになると、そっと袋を外した。
「……大丈夫か? 過呼吸だ。酸素を吸い込み過ぎて起こる。……今まで過呼吸を起こした事は?」
「……ない」
「じゃあ初めてか。……病気か、それともストレスか? ……どちらにしろ一度病院で診てもらえ」
「いい……」
「鋼の。自分の体の事だ。一人前に扱って欲しければ自己管理をしろ。誰かの手を借りなければ呼吸もできない人間など足手纏いだ」
厳しいロイの言葉に、エドワードは覆い被さるロイの胸をソッと押し戻した。
「騒がせて悪かった。……体は何ともない。過呼吸を起こしたのは初めてだが…………原因は判っている。精神的なものだ」
「原因が分ってる? 過度のストレスに思い当たる点があるんだな。何がそんなに鋼のを追い詰めた?」
「……悪い。タッカーの事はセントラルについてアイツに面会したら話す。それまで保留にしておいてくれ」
「鋼の」
「頼むよ」
「……仕方がない。どうせその錬金術師に会うのは二、三日後だ。それまで待つとしようか」
ロイの言葉に安心してエドワードは椅子の上に寝転んだ。聞きたい事が山とあるだろうに、とりあえず譲歩してくれるロイにありがたさと後ろめたさを感じながら。
「タッカーの件は、そんなに鋼のにとって重大な事柄なのか?」
ロイは探るというより心配して問う。再び過呼吸を起こされては困る。
「……今度の事が何事もなく済めば……大丈夫だ」
「そうか」
白い顔色を見ながらロイは、エドワードは何をそんなに怖れているのだろうと思った。普段は気丈な子供なのに、今のこの怯えと弱さは一体どうしたというのだろう。
エドワードの謎がまた増えた。
「鋼の。気分は悪くないか?」
「大丈夫」
「何か飲むか?」
「いらない。……少し寝る」
「……そうか」
目を閉じたエドワードが寝ていない事は判っていたが、ロイは何も言わずにいた。
突然あんな状態になるから驚いた。やりたいように気侭に振るまっているからストレスとは縁のない子供だと思っていたが、そういえばエドワードは隙を見せぬように注意を払っていると言っていた。自由気侭なように見えても、一方でそれなりの気遣いをしているようだ。気がつかなかったのはエドワードがロイの前では良い子の仮面を被っていないからだ。
倒れたエドワードを抱えて驚いた。エドワードの体は小さかった。鋼の錬金術師はまだ本当に子供なのだ。だがその小さな体に無限のパワーと深い謎を秘めている。
いつかエドワードはロイに本音を語る時が来るのだろうか…と思ったが、他人の本音が軽いわけがなく、そんな重たい物をおっ被せられても困るだけなので、知りたい欲求を押さえる。聞けば知らなかった事にはできない。恐らくエドワードはロイ以上に本音を語る重さを知っているのだ。他人に心を預けるというのは賭けだし、預けられた方に覚悟がなければ互いに良くない事になる。
ガタガタと揺れる列車の振動に、ロイは再び睡魔が襲ってくるのを感じた。ここ数日殆ど寝ていなかったのでまだ眠い。緊張感がないから疲労を深く感じる。
エドワードの付き添いを兼ねてセントラルに行けとハクロ少将に命令を受けた時は立腹したが、こうしてゆっくりする時間ができたのだから、結果として悪くない。残った仕事は副官以下でなんとかこなせるだろうから心配はないし、休息でき睡眠不足も解消されヒューズにも会える。ホークアイ公認の休暇だと思えば子供の付き添いも悪くなかった。
まさかエドワードの内側がこんなに荒れていたとは思いもしなかったが。
顔色の悪いエドワードから目が離せない。
過呼吸を起こすほどに感じるストレスとは何だろう?
子供の抱える秘密を知りたい心が疼く。だが知ってしまえばその業に巻き込まれる事も判っていた。ロイにはしなければならない事があり、厄介な何かを抱えるエドワードに寄り道している余裕はない。
「大佐……」
エドワードの声は初めて会った時と変わらず高い。改めて見てみればまだ声変わりもしていない子供なのだ。
「なんだ、鋼の」
「さっき抱えられた時思ったんだけど…………アンタ、ぶっちゃけ臭い」
「うっ……。しばらく風呂に入ってないからな」
思わず体の臭いを嗅ぐ。
「汗臭いを通り越してマジ臭いから、司令部行く前に風呂入れよ」
「……司令部に行く前に、シャワーを浴びる」
「うん」
それきりまた静かになったエドワードにロイは言った。
「抱いた時思ったが……鋼のは小さいな。もっと沢山食べて成長しなさい」
「ウルセー。余計なお世話だ」
「子供があんな状態になるなんて心配するに決まっているだろう。私はそこまで無情でも無神経でもないよ」
「……メーワク掛けて悪かったよ」
エドワードはコートを被ると背を向けてしまった。
椅子は広く大人はともかくエドワードが寝るのに充分な広さがあった。エドワードの尻尾のように揺れる三つ編みを見ながら、なぜ鋼のは髪を伸ばし始めたのだろうかと思った。
「大佐……」
「……ん?」
「……ゴメンな…………ありがとう」
小さな声だったのでよく聞き取れなかったが、礼を言われたような気がした。
「鋼の?」
背を向けたエドワードがどんな顔をしているのか判らなかったが、覗き込むのは不粋な気がした。
今の『ゴメン』と『ありがとう』がどの言葉に対してのものか判らなかったが、エドワードの心が感じられてロイの内側に響いた。そうか、子供だからゴメンとありがとうが一緒に言えるのかと思った。
「鋼の。……君は素直じゃないね。今度は背を向けないで正面から言いなさい」
ロイも手すりに寄りかかり、目を閉じながら言った。
エドワードがちゃんと聞いている事を知りながら。
可愛いものだと思ったロイだが、背を向けたエドワードの表情を見たらのんびり気を抜いてはいられなかっただろう。
エドワードは目を開いたままジッと正面だけを見ていた。ギラギラした幽鬼のような目を光らせながら。
見なくなって久しい悪夢をまた見そうだと、怯えながらエドワードは左手で右手を強く掴んだ。生身の腕が鉄のように冷たかった。
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