モラトリアム
第ニ幕


第二章

#21



「何故君は私に連絡を取った? 君とは面識がなかった筈だ」
「面識はなくてもオレはアンタを知っていた。ホークアイ中尉、ハボック少尉にも世話になった。アンタが知っている世界が世界の全てじゃない。視界の外にあるからといってそれが『無い』わけじゃない。大佐や大部分の人が見えない不思議をオレは少しだけ覗いた。そして今のオレになった。世界は複雑で、だが見える部分は単純で、みんなその単純な世界を常識だと認識している。だが認識外の世界もまた理だ。間違いでも常識外でもない。ただそこにあり認知されないだけだ。だからオレはアンタを知り、アンタはオレを知らない。ただそれだけの事だ。アンタの知らない世界でオレはアンタと色々関わり合った。だから一応、信頼している」
 冗談の入る隙間もないような声に、ロイはこれが十三歳のガキか、と嘆息した。
「その独りよがりのセリフが判らないと言っている。君は私を何処で知った?」
「リゼンブール」
「私はリゼンブールなど行った事は無い。君の認識は間違っている」
「間違っていない。大佐がリゼンブールに来たのは本当。来なかったのも本当。どちらも真実。正反対だがそれは間違いではない」
 謎掛けのようだが、声は硬く偽りの色はなかった。
「正反対の事がどちらも正しいなんて、あるわけないだろ」
「ありえない、なんて事はありえない。全てはあり得て、だが知っている情報がそれを否定する。情報そのものが間違っているとは思わないのか? 世界の常識は都合よく定められている。だが定めた者がいる以上、あらゆる可能性があるという認識もまたありえる。本当の事なんて……実は一つもないのかもしれない」
 ホムンクルスがこの国を作った以上、常識を定義しても無駄と知っているエドワードは、言っても判らないだろうと思いながらもそう言った。
『こちら側』に来てから本音で語る機会が減って久しい。
 エドワードは沢山の事を知りすぎて、誰にも同調できない自分がいる事に気が付いていた。
 時間の数だけ世界があり、刻々とその世界は分裂し、その分裂した世界がまた分裂を繰り返し数億数兆の時間の流れを作り続けている。他の世界ではエドワードはとっくに死んでいるのかもしれない。人体錬成の失敗後、ロイ・マスタングに会う事もなく機械鎧を着ける事無く故郷で朽ち果てているかもしれない。
 世界はあまりに多すぎて、エドワードは自分が実はパラノイアではないかとすら思い始めている。人体錬成失敗で精神を持っていかれ、チューブに繋がれて廃人となり夢を見ているだけなのかもしれない。
 けれど、ここが夢であろうと幻だとしても、守るべき家族がいてエドワードを必要としているのなら、行動するしかない。
 エドワードは償う機会を探している。アルフォンスの為に何かしてやりたいが、それがよく判らない。金銭では不自由させないつもりだが、元々欲薄いエルリックの家族に大金は必要ない。
 欲しい物が金では買えない人達に何をしてやれるのか、エドワードは判らない。
 側にいるが一番いいのは分っていた。アルフォンスは兄の帰還を望んでいる。
 だが、エドワードはそれができなかった。
 過去を過去とし、素直に今のアルフォンスだけを愛せればいいのだが、からっぽの鎧だった十四歳のアルフォンスはエドワードの全てだった。忘れる事などできはしない。
 だから、今の、年相応のあるべき姿の弟を見ているのが辛い。
 家族、恋人、親友、全てを兼ねてきた肉体の欠けた弟。
 肉体がないせいか肉親と恋愛関係に陥ってもさほど良心は痛まなかった。肉体の欠落からエドワードの身体に興味を示したアルフォンスは、あっさり垣根を飛び越え兄の身体を自分のモノにした。
 エドワードは引き摺られていると思いながらも、アルフォンスの我侭な欲に歓喜して身体を拓いた。
 禁忌の恐れよりも愛が勝った。あさましくも幸福な一時だった。肉体が戻れば解消されるかもしれない疑似恋愛だったが、エドワードは真剣だった。未来よりも『今』が大事だった。今は必ず未来に繋がる。それでもた互いの手を離せなかった。
 ここにいるアルフォンスは……違う。エドワードの愛した恋人ではない。恋人になる以前の罪を知らないアルフォンスだ。
 エドワードは自分はどちらを愛しているのか判らなかった。どちらも愛しい弟で、だが一方は恋人ではない。
「鋼の。やっぱり君の頭の中が判らない。一度解剖させてくれないか?」
「そういう冗談はつまらないから止めた方がいいぞ」
「いや、本気だ」
「なお悪いわ。マッドサイエンティストみたいな事言うなよ。解剖したってオレの頭の中味は見えねえよ」
「じゃあ自白罪で腹に隠している事を全部喋らせるとか」
「ンな事したら余計に謎は深まるだけだと思うけど。オレの抱える謎は錬金術師の夢だよ。だけど所詮夢は夢。現実にはならない。なるとしたら奇蹟で、奇蹟は一生に一度しか起こらないから参考にはならない。人は神様じゃないから奇蹟は起こせない。偶発的に起こった事は運命の悪戯であって、人の力ではどうにもならない。どうにかできるんだったらオレはとっくにそうしてるよ」
「……君と話していると頭が痛くなってくるな。どうしてそう自分にしか判らないような会話をするのかな。子供らしくしろとはもう言わないから、もっと理論的に判りやすい説明をしろ。結局君はどうして私を信用した? そしてどうして私を知っていたんだ?」
 エドワードはロイをジッと見た。
 ロイにはエドワードの真実を話してしまおうかと思った事がある。ロイが協力してくれればエドワードも行動しやすくなる。一人では行動力に限界がある。ヒューズを助け、ホムンクルスを倒し……やるべき事は沢山ある。それをエドワードは一人でこなさなければならない。
 実は、一人だけエドワードの事情を知っている人間がいる。
 イズミ・カーティスだ。
 イズミはエドワードが国家錬金術師に合格した秋に、リゼンブールを訪ねた。以前の歴史と同じだ。
 洪水を防ぐ堤防を作った後倒れたイズミは宿屋に運び込まれ、そうしてアルフォンスの「弟子にして下さい」という懇願を一蹴した。
 弟子入りを受ける気のないイズミが何故アルフォンスを弟子にしたかと言えば、裏でエドワーとイズミが取引きしたからだ。
 リゼンブールに母を迎えに戻っていたエドワードは重なった歴史にただ驚いていた。
 本当なら、エドワードとアルフォンスの二人が、イズミの弟子になった筈である。
 兄が国家錬金術師だと聞くと嫌悪を露にしたイズミに、エドワードは等価交換を申し出た。
 アルフォンスの弟子入りの為に、エドワードは『ある情報』をイズミに与えた。
 そしてその時にエドワードの事情を全部説明したのだ。エドワードは錬成陣無しの錬金術が使えた。その意味をイズミはよく知っていた。
 エドワードはアルフォンスに、かつて自分達が過ごしたあのヨック島で真理に気付き、錬金術師としての腕をあげて欲しかった。兄がいなくてもアルフォンスなら錬金術の真理に辿り着くだろう。
 エドワードは母につきっきりで、アルフォンスの側にはいられない。二人がいない間、イズミに師事するのが一番良い選択だった。
 エドワードの話を聞いたイズミが何を思ったのかは知らないが、イズミは黙って申し出を受けた。
 イズミの元でアルフォンスはのびのびと成長した。
 イズミに話したようにロイにも話せるといいのだが、まだその時ではないと思う。
 ロイはエドワードの心に焔をつけた人間だ。嫌いだが信頼はできる。
 ロイが軍のトップを目指すというならさっさとそうしてくれと、エドワードは後押しくらいはしてもいいと思っていた。
『向こう側の世界』では結局目的は達せず、兄弟一緒に亡くなって大迷惑をかけてしまった。
 だから代わりにこっちの大佐に借りを返しておこうかと思ったが、説明しても簡単には信じてもらえないだろうし、誇大妄想が過ぎると一蹴されかねない。うっかり詐欺師扱いなんかされたら悲しみでボコッてしまうかもしれない。何も知らない人間に荒唐無稽を信じさせるのは難しい。

 エドワードに見透かすように見られてロイがもぞもぞを身体を動かした。子供の金の瞳に見られていると、心の淵を覗き込まれているような気分になる。
「鋼の。君は何故イーストシティにいる? 家族に心配をかけてまで」
「……目的の為。……東部出身だからな、あの野郎は」
「目的?」
「ちょっとした人探し」
「人探し? 誰を探しているんだ?」
「……内緒。……冗談だ。人なんか探してない。オレが東部にいるのはこの都市が一番リゼンブールに近いからだ。セントラルは遠すぎる」
「ああ……」
 はぐらかされたな、とロイは思ったが腹は立たなかった。エドワードはいつも多くを語らない。たまに多く語ってもそれはロイには判らない事だらけだ。
 だがそんな曖昧な態度を怒れないのは、いつもエドワードが真剣だからだ。
 エドワードは謎だらけだ。その小さな身体の中に大きな鉄を抱いている。重く鎮座したそれは子供にあるはずのない覚悟というものだった。ロイが内乱中決意し、以後も持ち続けている鋼の意志を、エドワードも同じく持っている。平穏な家庭で育った子供が持つはずがないものなのに。
 だからロイはエドワードを一概に嫌う事ができない。エドワードは子供に見えて子供ではなく、疲れていて、だが自分に休息を赦していない。エドワードから感じる悲嘆は確かにそこにあり、内側から滲み出てロイの中の憤りに共鳴するのだ。
 ロイはかつて地獄を見た。死んで行く地獄より生者の地獄の方が恐ろしいと知ったのは数年前。
 軍に入る意味は知ってはいたものの、ロイも同僚も本当のところ何も分かってはいなかった。血で血を洗うとはよくぞ言ったものだ。
 ロイは指先一つで大量虐殺できる己の錬金術を心底嫌悪した。親友のヒューズがいなかったら、今頃軍を辞し精神を病んでボロボロになっていただろう。
 ヒューズはロイに言った。
『辛いだろう。辛いよな。世の中狂っている。皆どっかおかしくなっちまってる。オレもお前も……。けど死ぬなよ。狂うだけなら簡単だ。死ぬのもだ。でも死んでも地獄行きになるだけだぜ。生きている地獄から本物の地獄に行くだけだから、死ぬのは無駄だ止めとけ。 この地獄がイヤなら自分で何とかしろ。死んだ後は世界を変えられないけど、生きているうちはまだ変えられるチャンスはあるんだから』
 チャンスはある。
 その一言がロイの希望となった。
 ロイは何とか生き延びて多望な日常に身を浸し、上に登ってきた。
 周りからは有能だがサボり癖のあるタラシだと思われている。その軽い評価は間違ってはいないが半分はフェイクだ。必死に上に登っている事が伝われば、周りはよってたかってロイを潰しにかかるだろう。ロイを疎む者は沢山いる。
 だからロイはこういう自分を演じている。真摯と勤勉を軽薄というオブラートで包み、己を守っている。
 イシュヴァールの悪夢を見続けながら、骨身を削り軍を憎悪している己などまるで見せずに。