モラトリアム
第ニ幕


第二章

#19



 ロイは隣を見た。ハボックが顔を顰める。
「ハボック、手伝え」
「ノー、サー。お断りします。自業自得ですから」
「上官命令だ」
「こちらの業務は定時にあがれそうなのでイヤです。命令なら中尉を通して下さい」
「中尉は私の部下だ。したがって中尉の意見は必要無い」
「そのセリフまんま中尉に伝えてもいいスか?」
「卑怯だぞ、ハボック」
「どっちが」
 二人の様子をアルフォンスが目をまんまるにして見た。
「兄さん。ハボックさんとマスタング大佐って仲がいいんだね。ボク軍人さんて、もっとおっかないんだと思ってた」
「……マスタング大佐の幕僚は特別だ。ここを軍人の基準にするなよ。軍っていうのは本当に厳しいんだ。『普通』の軍人で大佐の地位にある人間はサボったりしないし、仕事を溜めて副官に銃で脅されたりしないし、部下に『雨の日は無能だから引っ込んでいて下さい』なんて言われたりしないんだ」
「鋼の。……雨の日は無能っていうのは何だ? 中尉がそんな失礼なセリフを言うわけないだろう」
 憤慨するロイにエドワードはそうか、まだ言われた事ないのかと思った。
「そのうち言われると思うけど。大佐の発火布って雨の日は湿気って使えないんだろ?」
 サラリと言われてロイは詰まる。
 何故かエドワードはロイの特徴をよく理解していた。
「わ、私の錬金術は焔だけじゃないぞ」
「知ってる。けど雨の日は湿気ったマッチだろ、アンタ。でもまあ……ライター持ちあるけば大丈夫か? 雨が降れば水素の錬成も楽だろうし」
「大佐って気体錬成が得意なんですか?」
 錬金術の話題にアルフォンスは興味深そうに聞く。
「私の錬金術は確かに気体の錬成を得意としている。いちいち錬成陣を書いている時間がないから錬成陣を書いた手袋を使う。軍の国家錬金術師達はみんなそういう形で錬成陣を用意している。実戦が主だからな。君のお兄さんのように両手を合わせるだけで錬金術が使える人間などいないし」
「確かに急場だといちいち錬成陣を書いてはいられませんよね。でもそれだと使える錬金術が限られてくるんじゃないですか?」
「その限られた錬成をどう有効的に使っていくのかが大事なのだ」
「そうなんですか。錬金術を戦闘に使うんじゃ、そうするしかないですよね。でもそれだけに使うんじゃ錬金術の知識がもったいないですよ。もっと役に立つ錬金術は沢山あるのに」
 善良な幼い錬金術師の言葉にロイはやや苦笑した。
 軍人は大衆の役に立つ研究などしない。
「仕方がないのだよ。軍はそういう所なのだから」
「でも兄さんは色々な研究をしているみたいですけど」
「鋼のは正規の軍人ではないからな。研究は軍に吸い上げられるが軍人よりはよっぽど自由がきく。そういえば鋼のは今どんな研究をしているのだ? 集められた資料のジャンルに一貫性がないので対象が判りにくい。もうじき査定だろう」
「オレの研究? まあ……そのうち判るよ。査定には間に合わせる」
 エドワードは言葉を濁した。
 エドワードの研究は軍に見せられないものばかりだ。
 ダミーも含めて何を研究しているのか判らないように巧妙にカムフラージュしてある。
 査定のレポートなど、以前からの知識を適当につなぎ合わせればそれなりにまとまってしまう。
「秘密なのか? それとも言いたくない?」
「そんな事はないけれど……。今ちょっと手を広げすぎてまとまりがついてないんだ。もう少し詰めるまで言いたくない。今年の査定に間に合わなければ来年にまわそうと思うし」
「じゃあ今年の査定には何を出すつもりなのだ?」
「まあ……適当に。今までの研究をそれらしい形でまとめれば何とかなるし」
 査定などどうとでもなるようなエドワードの適当さに、ロイは呆れた。
「鋼の。査定は国家錬金術師の資格の保持に必須だ。甘く見ていると資格を剥奪されるぞ」
 エドワードはフッと笑った。
「まあ……別にそれでもいいけど。……万が一国家資格を剥奪されたら、すごすごと尻尾を巻いて田舎に帰るよ。田舎の二流錬金術師に成り下がっても研究はできる。研究費用は惜しいけど、軍のヒモつきじゃない分気楽でいいや」
 本当にどちらでも良さげな様子にロイは呆れた。
 皆懸命になって国家錬金術師になるというのに。
 確かにエドワードが国家錬金術師になったのは母親の為だった。理由がなくなったから国家錬金術師でなくなってもいいというのだろうか。なら何故自ら資格を返上しないのだろう。
「君は……国家錬金術師の地位などどうでも良さげだな。そんな態度では不敬罪で本当に国家資格を剥奪されるぞ」
「大佐が漏らさなければ問題ないだろ。剥奪どころか、オレにその価値がある限り軍はオレを鎖で縛り続ける。このまま国家錬金術師を続ければいずれ戦争の兵器にされそうだ。あんたがイシュヴァールでそうしたように」
 ロイは顔色一つ変えなかった。表情は穏やかで空気も和んでいたが、その瞳が一瞬だけ陰ったのにエドワードだけが気付いた。
「イシュヴァール戦争に……確かに国家錬金術師が投入されたが、今後もそうなるとは限らない。あれは試験的な意味合いで国家錬金術師を使ったのだから」
「そうして試験は見事合格した。次にまた大規模な戦争が起これば……国家錬金術師の出番になるだろうな。その方が短期決戦で終る。国家錬金術師の力はそれだけ大きい。七年の及ぶ内乱が、国家錬金術師の投入で一年で終結したんだ。次も……と考えるのは当然だろ」
 淡々と、だがエドワードは言葉の刃でロイと自らを切った。
 エドワードは冷やかになるロイの瞳を真っ向から受け止めた。
「それが判っていて何故国家錬金術師を続ける? 自分は子供だから戦争には行かされないとタカをくくっているのか?」
「いいや。軍はそれほど甘くはない。オレが使えそうだと判断したらさっさと命令書を送るだろうな」
「では何故?」
「じゃあオレも聞くけど、あんたはあの地獄を目の当たりにしても何故国家錬金術師のままでいる? その手で灼いた人の数は最早数え切れない。絶望と苦痛にのたうちまわり、ヒューズ中佐にすがりついて戦争に耐えたんだろ。次の地獄が用意されるかもしれない軍に、なぜいるんだ?」
 ロイは答えなかったし、エドワードもまた期待していない風だ。
 エドワードの無神経さをロイは責めなかった。
 質問に質問で答えるエドワードの無礼さを咎めるというより、見てきたかのようにロイを語るエドワードが判らなかった。子供がイシュヴァールの戦いを知るはずがない。
 だがエドワードはまっすぐロイの苦悩を読んでいた。
 知ったかぶりではなく、ロイの瞳を反射するエドワードの瞳も地獄の赤い色をしていた。
 イシュヴァールを知らないハボックより、エドワードの方が余程薄氷の下にあるものを知っているようだ。
「君は……何者だ?」
 今まで散々思ってきた疑問だ。
 この子供は誰だ? 何の為にロイの側にいる?
 エドワードの瞳は人の死を知っていた。
 エドワードは「さてね……」と濁した。
「オレが何者なのかは……オレの方が聞きたい事だ。真実が何も見えないのにオレは生き続けている。絶望だけで人は死ねるのにオレはまだ死ぬ事を許されない。オレが何の為に生きているのか、それを知りたいのはオレの方だ」
 まるで人生を積み重ねてきた中年男のような言いぐさだが、不思議と違和感がなかった。
 エドワードはロイと同じ性質なのだ。顔に出ている表情と中味が違う。
 エドワードは子供らしい幼い顔とふてぶてしい傲慢さを見せていたが、言葉と中味は思いがけない運命に翻弄されもみくちゃにされ自分を見失いかけている迷子の大人を現わしていた。隠し切れない内面をどう処理しようか悩んでいる大人の顔の片鱗にロイは戸惑い、なんだこいつはと腹が立った。
 そんな顔をするのは十年は早いというのに、ましてやエドワードは戦争を知らないのに。
 人を殺した事のないいっぱしの大人ぶっている子供のくせにと思ったが、一言で捨てきれない何かがエドワードにはある。心の中に今も闇を抱えるロイにはそれが判ってしまった。
「人生が判る者などそうはいない。……判ったつもりでも実は全然判っていないという事もある。君がそれを言うのは十年早い」
「十年後に悩むより、十年先を見越して今から考えた方がいいと思うけど。十年経っても答えが出なければ絶望する理由になる」
「絶望したら自殺でもするのか?」
「まさか。……ただ諦める理由にはなる」
「何を諦めるんだ?」
「……真実を知る事だ」
「鋼のの真実とは何だ?」
「オレの………生きる理由と再会する事」
「生きる理由? 再会というとそれは人なのか? 誰だ?」
「誰でもないただ一人の人間だ。代わりはいない。アイツはオレの世界を構築する柱だ。だがもう会えない。それでももう一人のアイツがここにいる限り、オレの世界は崩壊しない。しかし世界が拡がる事もない。閉ざされた、壊れもしない世界で、生きる意味を探している。その合間にできる事をしている。オレの世界は灰色だ。でも家族がいて守るべきものがある。それが生きる理由になる。自分のせいだとはいえ……驟雨の世界は重い。だから生きる意味が知りたい」
 エドワードの言葉に重さはなかった。だが軽さもない。声は誰かに聞かせる為のものではなく、ただの記号のようだった。エドワードの世界には雨が降っていて、そこから出る事が適わないような湿り気があった。
 湿気が苦手なロイはエドワードを忌避の目で見た。
 違う、忌避したいのはエドワードの瞳だった。
 こういう目を戦争後よく見た。……鏡の中で。
 だからロイは嗤った。
「鋼のは……言う事が難しいな。哲学を語るのもいいが、頭脳より肉体派の人間が多い軍ではあまりそういう事を言うなよ。引かれるから。……なあ、ハボック」
「アンタ、そういう時だけいちいち人を引き合いに出さないで下さい。オレが頭の悪い単なる力持ちに聞こえるじゃないですか」
「事実だろう」
 ハボックも他の事が言いたかったが上官の意図を察して笑って冗談にする。
 冗談にしなければエドワードを見ていられなかった。エドワードには正気の人間が焦点を合わせられないような狂気があった。
 狂っている。