モラトリアム
第ニ幕


第二章

#10



「……アイ・サー」
 東方司令部付近で立ち話をするロイ・マスタングとハボックと他一名の子供はやや目立っていた。
 見守る門番や通りがかりに手を振る女性達に、ロイは手を振りかえす。
「というわけだ。アルフォンス。立ち話などして少々遅くなったが、これから車で出よう」
「それはいいのですが」とアルフォンスはロイを伺うように見た。
「大佐は本当にこのまま外出してもいいんですか? お仕事が溜まっているとハボック少尉が言ってましたけど」
「気にする事はない。仕事は最後に帳じりが合えばそれでいいのだ。私は期日を遅らせた事はないよ。ハボックが細かすぎるのだ。多忙なのだから、逆にたまに息抜きをしなければ息が詰まってしまう」
「でも仕事は早めに終らせるのにこした事はないと思います」
 真面目な子供の言い分に、ロイはフッとわざとらしく笑った。
「アルフォンスは知らんだろうが、私の仕事はエンドレスなんだ。早めに仕事を終らせても、すぐに次の仕事が入って終りがない。だったら仕事は期日に終るような適度なスピードで進めるのが一番労力の消費が少ない。私は効率悪い事と無駄が嫌いなんだ」
 無駄の定義が間違っているんじゃないだろうかとアルフォンスは思った。
 聞いてみるとまるで試験前にこつこつ勉強をするのではなく、一夜漬けで充分だと言われているような気がしてならない。兄の屁理屈を聞いているような気がして、アルフォンスはいい年した大人なのに子供のエドワードと似ているロイに呆れ果てる。
『アル。人間、牛乳なんて一生飲まなくても誰も死にはしない。牛乳飲まずに死んだ人間は古今東西ゼロだ。六つも胃袋があって「草を食べて胃から戻し、ハンスーハンスー休まずーにこーなせー」……するような奇怪な動物の生チチを飲むなんて考えただけで気持ちが悪いと思わないか? そりゃあステーキは大好きだしチーズやバターもうまい。しかし栄養が必要なら他から同じ成分が摂取できるんだから、何もそこまで牛乳信仰する事はないと思う。栄養面にだけ目を向けてステーキ材料の体液をありがたがる必要はない。人間がおっぱいを吸うのは子供の時だけで沢山だ。牛の母乳に固執するなんて乳ばなれしていない証拠だぞ』……と、エドワードの牛乳回避弁論は毎回こんな感じだ。アルフォンスの兄は頭が良いのに時折おバカさんになる。
 どうしてかロイ・マスタングとエドワードに共通点を感じ、アルフォンスは親しみと呆れを覚えて、東方司令部の軍人って軍人らしくないなあと思った。
 エドワードも軍属になって三年以上が経つが、ちっとも軍人らしくない。
 そう言うと、軍属にはなったが軍人になったわけじゃないと、エドワードは否定する。しかし素人目にその違いはよく判らない。
 アルフォンスは故郷にいるエドワードしか知らないので、兄が外でどんな顔をして過ごしているのか知らない。こうして兄の事を他人の口から聞くと新鮮だしちょっとだけ安心できた。
 ふと視線を動かすと、ロイの背後から同じ青い軍服が見えた。門から出てくるあの人は……。
「あのー、ちょっとマスタング大佐にお聞きしたいんですが」
「なんだね、アルフォンス?」
「大佐の副官さんのホークアイ中尉って、もしかして金髪の綺麗な女性の方でしょうか?」
「そうだが。……アルフォンスはホークアイ中尉を知っているのかね?」
「会った事はありませんが……たぶん………金髪碧眼。髪は長め……なのかな? 細めの体型で姿勢が良いです。腕には銃。名前の通り、鷹の目のような鋭さで大佐を見てます」
「へ?」
 ロイが恐る恐る振り向くと、あちらからキビキビと向かってきている軍服の女性がいた。
「ホークアイ中尉!」
 ロイは思わず逃げようとしたが、アルフォンスを置いていくわけにも行かず、足が動かなくなってしまった。走って逃げるなど格好悪くてロイの矜持が許さないが、はっきりいって恐い。
 ホークアイ中尉の視線は剣呑だった。鷹の目とは名で体を現わしすぎだ。
「……ど、どうしよう」
「やっぱりあの人が中尉さんですか。かっこいい人ですね」
 アルフォンスの賛辞をロイは聞いておらず、ただ恐怖の瞬間を待つしかないのかと右往左往する。
 何故中尉は銃を握っているのだと、ロイは青くなる。
「大佐ー。車借りてしまいしたよ。乗って下さい」
 ハボックがロイ達の横に車を横付けしてきた。
「ハボック! すぐに出せ。今すぐにだ!」
 ロイは車のドアを開けるとアルフォンスを片手で放り込み、自身の身体も中に滑らせた。
「ハボック、ゴー!」
「ど、どうしたんスか、大佐。声が恐いっス。それにいきなり乱暴ですよ。アルフォンスがひっくり返ってます。アル、怪我してないか?」
「それどころではない。中尉に見つかってしまった。今すぐ出さないと私は破滅だ」
「え……げっ! 中尉! どうすんですか?」
 ミラー越しに背後を見て、ハボックも顔色を変える。
「いいからさっさと出せ。車の方が早い。中尉には捕まらん」
「嫌ですよ。ここで車を出したらオレまで大佐の共犯者みたいじゃないスか。中尉に殺されるのは大佐だけにして下さい。真面目で哀れな部下を自分の怠慢につき合わせないで下さい」
「ハボックは私の部下だろう。だったらさっさと上官の言う事を聞け」
「中尉もオレの上官スけど」
「どっちにしても中尉には叱られるんだ。どうせならサボってから叱られたい。まだエスケープしてないのに怒られるなんて叱られ損だ」
 理屈は無茶苦茶だが、上官の必死の声にハボックは諦める。
「うう…判りましたよ。……どうでもいいけど、オレは今日は残業はやりませんよ。大佐のサボリは大佐のせいっスから、仕事は大佐一人で片付けて下さい」
 キキーーッとタイヤをスリップさせながら出た車の背後でホークアイがチッと顔を顰めたのが判って(何故か舌打ちの音まで聞こえた)ロイは一気に気が重くなった。帰ればホークアイの制裁が待ってる。彼女の事だから残った仕事を山にして手ぐすねひいているだろう。きっとサボりのアレコレを白状させられた挙句、残業どころか泊り込み徹夜勤務確実だ。
 ロイは乱れた頭髪を手で撫でて、ハッハッハッと胡散臭い爽やかな笑顔でアルフォンスを見下ろした。
「いやあ、すまないね。ちょっとバタバタして見苦しい所を見せてしまったが、普段はこんなんではないのだよ。今日は特別だ」
「いつもはこっそり消えますからね」とハボックが茶々を入れる。
「うるさいぞ、ハボック。私は常に真面目だ。だがその真面目さがたたって仕事が次から次へと入って来る。皆して私を頼りおって。いくら私が若く優秀だからといって責任ある仕事をこうも任されたのでは心が休まる暇がない。適度な休息は次の仕事への必要活力保持だ。余裕をなくしては良い仕事ができん。……アルフォンス君もそう思うだろう?」
「……はい、まあ……」
 有無を言わせない笑顔を前にアルフォンスは頷くしかない。本心では『この人の屁理屈っぷりってますます兄さんにソックリ』などと思っていたが。
 悪い人達ではなさそうだが思っていた軍人像とはかなり違い、アルフォンスはどう接したものかと悩んだ。