モラトリアム
第ニ幕


第一章

#06



「兄ちゃん。……どうして家に帰ってこないの?」
 アルフォンスの誕生日に家に戻ると、その夜アルがオレのベッドに入ってきた。
 アルがオレに抱きついてくる。
 お日様の匂い。温もり。柔らかさ。同じくらいの目線。抱き締め返すと胸が痛い。ああ……。
 アルフォンスの姿を見るだけで胸が詰まる。愛しい弟。できるならずっと側にいたい。かつて焼いてしまった家で過ごす幸福は砂糖菓子の夢だった。
 母さんが生きていて、生身の弟とベッドにいる現実があるなんて。幸福も過ぎると怖れになる。
 アルフォンスの手を握る。
「研究が忙しくて。……ゴメンな。寂しい思いをさせて。お前一人に母さんを任せて……オレは兄ちゃん失格だな」
「ううん。いいんだ。兄ちゃんが大変なお仕事をしているのは知ってるから。兄ちゃんはお母さんの身体を治したんだよね。スゴイよ。みんなが言ってる。兄ちゃんは立派で偉いって。……大人に混じってお仕事をしてるんだよね。……忙しいのは判るけど、自分の誕生日くらい帰ってきてよ。母さんケーキを焼いて御馳走作って待ってたんだよ。ボクだってずっと待ってた」
 寂しいという本音と我慢しなければならないという葛藤を顔に浮かべた健気な弟に、オレは何も言ってやる事ができない。オレはこのアルフォンスから逃げている。だってオレの弟はこのアルフォンスじゃない。
「……本当にゴメンな」
 愛している。愛してるからこそ側にいられない。
 言い訳できずに謝るしかできない。
「ボク、兄ちゃんがいないと寂しいよ。研究ってこっちじゃできないの?」
 アルフォンスがオレの目を覗き込む。
「アル……ゴメン。我慢してくれ。今はまだ……駄目なんだ。オレがいない間、母さんを守ってくれ」
 アルは肩を丸めてしょげる。
「父さんみたいに兄ちゃんも帰ってこなくなるんじゃないかって心配なんだ。兄ちゃんはいなくならないよね?」
「あのクソったれオヤジと一緒にすんな。オレは何処にいても母さんとお前の事をいつも考えている。寂しいなら毎日でも手紙を書くよ」
「本当? 絶対だよ。毎日手紙を書いてね」
「が、頑張るよ。……なるべく(毎日だなんて言うんじゃなかった)」
「えへへ、指きりね」
 アルの嬉し気な顔を見ると心が痛む。
「兄ちゃんの研究が早く終りますように」
「……うん。なるべく早く終らせるよ」
 オレは嘘をついている。研究だけならどこでだってできる。けれどそんな理由でもでっちあげなければオレは独りになれない。
 愛は痛みだ。あっても無くても苦痛となってオレを苛む。でもそれなくしては、生きる意味もない。
 寂しい思いをさせているが、アルフォンスには母さんがいる。母さんの愛をオレの分まで受けて欲しい。そうして何も知らないまま大人になって欲しい。勝手な望みだが心からの願いだった。
 横に寝転んだアルフォンスがオレを斜めから見る。
「イズミ師匠も兄ちゃんに会いたがってたよ」
 師匠の名前を出されてギクリとなる。
 今生でもイズミ・カーティスはオレ達の師だった。
「セ、センセイが?」
「うん。兄ちゃんはいつ帰ってくるんだって笑顔が恐かった。……兄ちゃん、師匠と何かあったの?」
「う……何もないけど……」
 何と言っていいか判らず、オレはモゴモゴと言葉を濁した。師匠との関係には色々ある。だがそれはアルフォンスは知らない事だ。
「兄ちゃんと師匠って何かあったの? 師匠って兄ちゃんの事になるとおっかない顔になるんだよ。兄ちゃん何かしたの?」
「してないよ。そんな恐い事」
「だよねえ。師匠に何かしたらぶっとばされるのがオチだもん。いくら兄ちゃんが強くったって、師匠にかかれば秒殺だし」
「秒殺とかいうな、弟よ。せめて二十秒は持たせろ」
「えー、兄ちゃん師匠と戦って二十秒持つの?」
「…が、頑張れば何とかなる…………かも……たぶん………十五秒くらいは…………いや、十三秒くらいは……」
「無理だと思うけど。ボクだって一瞬で投げ飛ばされるし。ボールみたいんにポーンって」
「……そうだな」
「でも兄ちゃんは師匠と同じ両手でパンの錬金術が使えるんだよね。そっちの方がスゴイよ」
 キラキラとアルフォンスの瞳が輝く。かつてはオレも師匠の錬成方法に憧れた日があった。罪が何か知らなかった無知で無垢な愚かしい過去の日々。
「まあ……それは……な」
 何度も聞かれたが、答えられるわけがない。
「ボクどうやってもできないんだ。師匠も兄ちゃんもやり方を教えてくれないし。ボクもできたらいいのに。……ねえ、どうして教えてくれないの? ボクにはまだ早いって事なのかな?」
「どうしてと言われても。教えてできるものじゃないからな」
 誤魔化すオレにアルフォンスは口元を曲げて拗ねる。
「理論だけでも教えてよ」
「だから教えられない理論だから教えようがないんだよ。これは……本当はやってはいけない錬金術なんだから」
「やってはいけないって?」
「本に記されているわけじゃないし、殆どの錬金術師も知らない事だけど……やってはいけない錬金術の代償としてできる事なんだ。だから……知りたいなんて思わないでくれ。外で言うのも駄目だ。師匠だって……言いたがらなかっただろ? 知ってはいけない事だからなんだ。アルは賢いから人の隠したがっている事を暴こうとはしないよな?」
「じゃあどうして兄ちゃんは知ってるの? やっちゃいけない事をしたの?」
「うん。……だから師匠はオレを許さないし、オレは……綺麗ではなくなった」
「綺麗って?」
「心の中の事だ。オレは醜く汚く、だからアルと母さんの側にはいられない。だからアルもオレの側にいたいなんて思っちゃいけない。母さんはお前にやるから、お前は母さんと自分の幸せだけを考えてくれ。それがオレの望みだ。お前の幸せの為なら何だってしてやるから、お前はただ母さんと自分の事だけ考えていろ。オレの事は何も心配しなくていい」
 オレは心からそう言ったのに、アルフォンスは口を曲げて不機嫌になってしまった。
「兄ちゃんは? 兄ちゃんはお母さんがいらないの? ボクの事は? いらないから帰ってこないの?」
「いらないわけないだろ。命より大事だよ。だからこそ守りたいんだ」
「じゃあ側にいてよ。兄ちゃんだって母さんの側にいたいんだろ? どうして訳判んない事言って家に帰ってこないの?」
「訳判らない……か。アルにしてみればそうかもしれないな。けど……理由のつけられない理由もあるんだ。人にはどうしても言えない事がある。アルもそういう事を判る年だろ?」
「判らないよ。兄ちゃんがボクの側にいられない理由なんて判りたくない。兄ちゃんには判るの? 一つしか違わないくせに。どうしてそんなに大人ぶるんだよ」
 アルフォンスが口を尖らせる。
 口を突き出すな。チューしたくなるじゃないか。
「判るんだよ。一つしか違わなくても、オレはお前の兄ちゃんなんだから。お前よりモノを知っていても当然なんだ」
「そんなのズルイ……」
「オレに追い付きたかったら師匠の元でもっと勉強しろ。けど絶対に国家錬金術師になろうなんて思うなよ。軍の狗はオレだけで沢山だ。欲しい資料や資金が必要ならいつでもオレが用意してやるから、軍にだけは関わろうとするな」
「兄ちゃんは国家錬金術師のままでいいの?」
 アルフォンスが心配げに聞く。子供でも国家錬金術師が錬金術師として微妙な立場にいるのが判るのだ。ましてやオレはまだ自分の責任もとれない子供だ。
「いいんだ。国家錬金術師は軍の狗だが、オレは望んでそうなったんだ。アルが心配する事は何もない」
「でも兄ちゃんは母さんの病気を治す為に国家錬金術師になったんでしょ。兄ちゃんばっかり悪く言われるなんておかしいよ。ボクだって兄ちゃんを手伝いたい」
「母さんを一人きりにして?」
 アルフォンスが困った顔になる。
「オヤジが帰ってこなくて母さんは泣いている。オレの代わりに慰めてやってくれ」
「判ってるけど……。じゃあ兄ちゃんは? 一人で寂しくないの?」
「寂しいよ。でもオレの望みはアルと母さんがのびのび幸せに暮らす事だ。だからお前は何も心配せずに自由でいて欲しい。好きな研究をして友達をもっと作って、いっぱい遊んで、いつかは恋をしてガールフレンドなんか作って、いっぱしの生意気な青年に成長して欲しい。その為ならオレは何だってする」
「自分ばっかり頑張ろうとしないでよ。ボクだって兄ちゃんが心配なんだ。一人で暮らしなんて寂しいんでしょ。戻ってきてよ。一緒に暮らそうよ」
「……そのうちな。今はまだ……戻れない」
 縋るアルフォンスを見ているのが辛くてオレは視線を下に向ける。
「兄ちゃんてさ……何を考えているの? ボク兄ちゃんが何を考えているのかさっぱり判らない」
「何って……アルと母さんの事だけだよ」
「だって……今の兄ちゃんて……兄ちゃんぽくない。なんだか急に大人になったみたい。昔は兄ちゃんが何を考えているのかちゃんと分かったのに、今は曇りガラスの向こうにいるみたいだ。いるのは判るのに、どんな顔をしているのか全然見えない。兄ちゃんの考えている事が判らない。判らないのは寂しいよ」
 つたない心を打つ声にオレの背中は増々丸まった。
 帰らない事でオレはこちらの弟まで苦しめている。
「アルフォンス……。ゴメンな。訳判らない兄ちゃんで。寂しい思いをさせている愚かな兄で。……でも愛しているのは本当なんだ。側にいたいって思っているのも。胸が苦しいくらい愛している」
「じゃあ何で帰ってこないんだよ。せめて一ヶ月に一度くらいは帰ってきてよ」
「……ゴメンな」
 謝る事しかできないオレは誤魔化す為にアルフォンスをギュッと抱き締めた。
 今生でもアルフォンスを苦しめている。嫌っていたオヤジのように母に寂しい思いをさせている。それが辛かった。だがそれでも譲れない事があるのだ。
 故郷で母と弟の側で安穏と暮らし、過ごしてきた未来を過去の記憶と封じ込めるくらいなら、胸を掻きむしって心臓を取り出した方がマシだった。
 オレを恨んでいないと言った鎧のアルフォンス。
 いっそ恨んで殴り殺してくれても甘んじて受けたのに。
 オレの命。オレの愛。オレの罪の証。
 心の全てで愛しているのに、生身の母と弟が心の中に住着いた。
 天秤になんか掛けられない。どっちも家族なのだ。
 忘れる事は罪だった。忘れるくらいなら死んだ方がマシだった。アイツに寂しい思いをさせないように後を追って死ねたら良かった。
 母さんとアルフォンスがいなければそうしていただろう。
 しかし母と弟を見捨てて楽になれるはずがなかった。彼らを守れるのはオレしかいない。今まで犯した罪を少しでも償おうとするなら、母と弟を平凡で幸せな環境に置き続け守る事しかできないと思った。
 死ぬ理由はあったが生きる理由もまた有り、安易な死という選択より、より困難な生を選ぶ方が償いになると思ったのだ。
 小さなアルフォンスを抱き締めながら、オレは幸福感に打ちのめされていた。