第参章
予定通り、夕方前から激しい雨が降った。
エドワードは窓の外を見ながら騒ぐ胸の前で手を握る。
これからサテラが産気づく。そして橋が落ち、医者は来られなくなるのだ。意を決したウィンリィが産婆代わりになり、子供は無事生まれる。
歴史が分っていても緊張する。
ウィンリィは素人だ。前回、たまたまサテラが安産だったからウィンリィでも事なきを得たが、今回もそうだとどうして保証できるのだろう。初めから医者を引張ってくれば良かったのだが、まだ会ってもいないサテラの為に医者をこんな所まで連れてくる事はできない。
最善の策が分っていながら動けない自分が腹立たしい。
エドワードが爪を噛んで外を見ていると。
「兄さん、そんなに外を睨んでも雨は止まないよ。今日帰るのはもう無理だから、明日ゆっくり帰ろう。リドルさんも泊まっていっていいって言ってくれたし、不機嫌な顔してないでこっちにきて話そうよ」
「アルフォンス。オレは不機嫌なわけじゃねえよ。ただ……」
「ただ、何?」
「いや……産み月近い妊婦さんに気を遣わせちゃいけないと思ってな。安定期とはいえ、あまり騒がしいのは良くないと思って静かにしてたのさ」
「そうだねえ。そう言われてみればそうかも。ボクは騒がしいと楽しいけど、他の人もそうだとは限らないもんね。サテラさんの前では騒がないように気をつけるね。でも兄さんがそんな気遣いをするなんて。……兄さんてやっぱり大人だよね」
「……気遣いっていうか……母さんだって入院してた時は大変だったから、身体の弱っている女の人は大事にしなくちゃいけないと刷り込まれたのかもしれないな。…………はは…サテラさんは健康体だし、考えすぎか」
「兄さんてフェミニストだねえ。ボクも真似しなきゃ」
「アルはそのままでいいぜ。人間自然体が一番だ。嘘がなくていい」
「兄さんに嘘があるの? 自然体じゃないの?」
「うっ(鋭い突っ込みすんなっ)……いやまあ、言葉のアヤだ。オレはいつでも素直だぜ」
エドワードは誤魔化すようにアルフォンスの頭髪に手を入れてかき回した。
「ほれアル。甘えたいんなら今甘やかしてやる。今なら甘え放題だぞ。本日期間限定だ」
「もう、髪がグチャグチャになっちゃったじゃないか。期間が今日だけって短くない? 今日ってあと数時間しかないじゃないか」
「短いからありがたみがあるんだろ。短く太くがオレの信条さ」
「兄さんて太く長くのタイプの人だと思ったんだけど。諦め悪いし一点集中型だし。全然短くないよ」
「……そうかもな」
エドワードは弟の柔らかさに手に違和感を感じながら言った。今までだってアルフォンスに触れてきたのに、鎧のアルフォンスが現れてから硬い感触に慣れてしまった。人の柔らかさより馴染まない鉄の触感を愛しく思う。
エドワードの肌を傷付けないように慎重に触れる仕種や距離感、冷たさに耐えながら互いの温度差を感じ取ったり。注意深い触れ合いに心は充足した。
弟と恋人を比較しているのかもしれない。それはいけない事だ。
上空で雷鳴が響く。
「……雷が落ちそうだな」
「山の上だから音が大きく聞こえるね。雨もやまないし」
「パニーニャは大変だな」
「なんで?」
「天気が悪いと機械鎧装着者は接合部が痛むのさ」
「そうなんだ。兄さん良く知ってるね」
「門前の小僧ってやつさ。ばっちゃんが話してるのを聞いただけだ。……機械鎧がどんなに便利でも……金属と生身の接合は無理があんのさ。普段は見えないその無理が、湿気や寒さで表に出てくる」
「詳しいね。ボクちっとも知らなかったよ。機械鎧の事なんかなんにも知らないや」
「着ける人間が側にいないと分からないもんさ」
「兄さんの側にいるの?」
「いない」
「だったら普通、自分で着けてみないと分からないもんさ、とか言わない?」
「自分で着けるのは大変だぞ。痛いし辛いし、はっきり言って死んだ方がマシって苦痛だ」
「それもばっちゃんに聞いたの?」
「機械鎧の人間は軍にも多いからな。そのくらいの事は知ってる」
「兄さんて博識だよね。あんまりそれをひけらかさないのはどうして? 謙虚な兄さんなんて、兄さんぽくないよ」
「どうしてって……だってそんな事したらイヤなガキっつうか、子供っぽいだろ。必要な事は言うが、必要のない事は言わない。能ある鷹は爪を隠すのさ」
「その辺が兄さんらしくないと思うんだけど。兄さんは謙虚って文字も勉強不足って言葉も当て嵌まらない人だし。控えめな兄さんは何か兄さんらしくないっていうか……」
「人間いつまでガキじゃいられないって事だ。オマエもいつか分かるぜ」
「もう、すぐそうやって人をガキ扱いするんだからっ。ボクだってそれなりに努力してるのに。……いいさ、そのうち大人っぽくなって兄さんをビックリさせてやるんだから。……そうそう、背もきっと伸びると思うし、兄さんのつむじを見る日がもうすぐくるよね。ボクまだ成長過程だし。ふふ……」
「身長の事を言うな! オレの背が伸びないのは……」
「伸びないのは? 牛乳飲まないせいじゃないの?」
「違う!」
恐らく。精神に引き摺られているからだろう。
以前のエドワードは機械鎧のせいで肉体に負荷が掛かり、成長が滞っていた。
今は以前に比べ、成長している。だが『本当はこういう姿だった』という思い込みが肉体に影響を及ぼし、健やかな成長を阻害している。
エドワードはホーエンハイムに似ているから、普通に成長すれば高い身長と堂々とした体躯を得る事ができる筈だ。
しかしエドワードは実際にそうなった自分を想像できない。
以前は小さな身体にコンプレックスを抱き、重い機械鎧を抱えながらそうとは分からせないように身軽に動いていた。精神が過去に縛られ、何の重荷もない自分というのがよく分からない。六年も軽い身体で過ごしてきたにも係わらず、魂に刻まれているのは鋼の手足の記憶だ。
「心が成長しなきゃ、身体も成長しないのさ。オレもまだまだガキだって事だな。……アルも背ばっかじゃなく、中身を伸ばせよ。もっと大きな人間になって母さんを支えてやってくれ」
「兄さんが成長途中だっていうなら、ボクなんかどうなるのさ。アメストリス中の十五歳を集めたって兄さん以上の人間なんかいるもんか」
「世界は広い。オレ以上の人間だっている。下を見たらきりがない。だから常に上を見てろ」
「兄さんてたまにうんと年上の人みたいに説教じみた言い方するよね。なんか達観してるというか…ジジくさい」
「なにおう。アルがガキっぽいだけだろ。まったくお子様のくせに」
「だからいつまでボクを子供扱いしないでって言ってるでしょ。そりゃあ兄さんに比べたらボクなんか半人前だろうけど、それでも頑張ってるつもりだよ。比べる人が大きすぎるからそんなに成長してるように見えないかもしれないけど。……兄さんが偉大すぎるんだ」
「オレは偉大なんかじゃねえよ。ただの半端者さ」
「何処が? 兄さんが半端だったら、ボクなんかまだ殻付きのヒヨコだ」
「アルはそのまま成長してけばいいさ。そのまっすぐさがオマエの良い所だ。このまま曲がらない大人になれ。間違ってもオレや親父のようにはなるなよ。親父は身勝手だし、オレも……オレもそうだ。自分の我侭ばかり通して、結果周りの人間を不幸にする。そして失敗から何も学ばない。オレは成長しない人間だ。間違ってもオレを手本にするなよ。するなら反面教師にしろ」
「やだなあ。兄さんが自分を卑下するなんて珍しいね。何かヤな事でもあった?」
アルフォンスはエドワードの言葉を冗談と受け止めた。
「……何もないさ。ただ……親父と会って、つくづくホーエンハイムの血筋は身勝手だと思い知らされただけだ。あの男の血は愛する者を不幸にする。アルは親父に似なくて良かったと思うよ」
「兄さん……。ボクはできるなら兄さんに似たかった。天才で格好良くて孤高で強くて……ボクの自慢だよ」
「オマエの目にそう見えるとしたら、オレがそういう風に行動しているだけだ。中身までそうとは限らない」
「行動って人の全てだと思うけど。どんなに崇高な思想を持っていても、動かなければただの空想でしかない。人の価値観は成してきた事実で決まると思う。兄さんのしてきた事は充分尊敬に値する。兄さんはどうしてそんなに自分を低く評価するの? 謙遜してるつもり?」
「それは……疲れてるのかもな。色々ストレス溜めてるからな」
「兄さんは働きすぎだよ。少し休まなきゃ」
アルフォンスの心配げな眼差しにエドワードは「そうだな」と笑顔を作った。
くっつきたがるアルフォンスをエドワードは優しく撫でる。
可愛い弟。感じるのは愛情と罪悪感。
思えばエドワードはいつも弟に罪の意識を感じてきた。
「厄介になるんだから、夕飯の手伝いくらいはしないとな。……サテラさんのとこに行こうぜ」
「そうだね。妊婦さんばかり働かせるのはよくないよね」
雷鳴と雨の音が窓ガラスと鼓膜を叩く。
今日は夕飯は抜きだろうな。…という本音を隠してエドワードは振り返って窓の外の暗い景色を眺めた。さきほどの落雷。きっとあれで吊り橋が落ちた。
懐かしい活劇映画を見るように、エドワードはリアルな現実を他人事のように受け止めた。
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