モラトリアム 第伍幕

完結
(上)


第参章

#18



「うおぉ、遠い、暑い!」
「ねえ、まだなのパニーニャ」
「兄さん、水飲みすぎ」
「あはは、もうちょっとだから頑張って」
 パニーニャに引率されて、三人は機械鎧技師に会いに、ひたすら延々と山道を歩いていた。……というよりエドワードとアルフォンスはウィンリィに無理矢理つき合わされている。
「ボクらは別行動した方が良かったんじゃないの?」
 暑さにうんざりしているアルフォンスがこっそりと言う。
 アルフォンスは機械鎧に殆ど興味がないから、会いに行く意味がない。その辺りが未来のアルフォンスと異なっていた。
「しょうがないだろ。ウィンリィを一人で行かせられるか。何かあったら困るだろ」
「ウィンリィだって子供じゃないのに」
 アルフォンスは膨れる。
 エドワードはウィンリィに甘い。兄に甘やかされたい弟は幼馴染みの少女にヤキモチを妬く。
 弟の甘えをエドワードを見抜き、可愛いと思う。
「女の我侭に付き合うのも男の甲斐性だ。頑張れ」
「兄さん、いつからそんな物わかりの良い男になったのさ。全然らしくないよ」
「ふっ…ここで機嫌をとっておかないと後でまたうるさいだろ。一日付き合うだけでいいんだから我慢しろよ」
「ウィンリィだけじゃなくボクの機嫌もとって欲しいんだけど」
「男の我侭にまで付き合ってられっか。オレの方が我侭聞いて欲しいくらいだ。社会人は辛いんだぞ。休日まで家族サービスしてたら休む暇もねえ」
「ウィンリィばっかりズルイ……」
「親父が帰ってきたんだから、親父に我侭言え。オレはあの男が嫌いだが、アルは嫌いじゃないんだろ? まだガキなんだから素直に親に甘えとけ」
「兄さんだって子供じゃないか。ボクと一つしか違わないのに」
「子供か大人かの差は生きた月日じゃねえ。経験した時間だ。……オマエはまだ子供だ。オレとは違う」
「どう違うっていうのさ」
「……その答えは親父が知ってる。あの男に聞けよ」
「誤魔化さないでよ」
「誤魔化してねえ」
 エドワードは素っ気無く話題を逸らす。アルフォンスの甘えを受け止めてやりたいが、縛られるのは困る。愛していても、エドワードが弟の為に割ける時間はない。
 エドワードは額の汗を拭う。暑さにへたばりそうだった。機械鎧の負担がないとはいえ慣れない山道の傾斜はキツイ。険しさよりも直射日光が堪えた。
 そういえばこんな風に天気が良かったのだと思い出す。辺鄙な山道を延々歩かされた。こんなに良い天気なのに夜には嵐になり、サテラは出産が早まるし、大変な思いをしたのだ。
 鎧の弟の方も連れてきたかった。一緒に思い出を反芻するのも悪くない。
 だがここに生身のアルフォンスがいる以上、同じ魂の者が側にいるのは良くない。ほんの短い間だが、生身の弟は確実に鎧のアルフォンスを怪しみ違和感を感じていた。同じ人間だからこそ同調と反発を明確に感じるのだろう。いつまで側においておけば危険は増す。早々に離れたのは正解だ。
 鎧のアルフォンスは別れた後ダブリスに向っている。目的はグリードに会う為だ。
 もう少し後の方がいいと思うのだが、アルフォンスは時間を有効に使い、話を通しておきたいと言ったのだ。デビルズネストの面々に思い入れのあるアルフォンスの好きにさせようと、そちらの件はアルフォンスに一任してある。
 なんでそんなにあの連中に会いたいのか。彼らは悪党なのに。
 グリードはホーエンハイムと並ぶ計画の大事なキーパーソンだ。グリードなくしてはエドワードの立てた計画は成り立たない。今回の事にはグリードの協力が不可欠なのだ。
 だがあの強欲な男が素直に協力するかどうか。
 それにエドワードはグリードが嫌いだ。イズミに怪我をさせアルフォンスを攫った。
 攫われたアルフォンスがグリード達に協力的なのも面白くない。どうしてアイツはああも人が良いのか。そりゃあ確かにグリードは他のホムンクルス達と違って、仲間は大事にしているようだが。どちらにしろ悪党じゃねえか。
 エドワードは足元の小石を蹴飛ばした。
 できる事なら計画を知る者は少ない方がいい。何処から話が漏れるか分からないからだ。
 万が一ホムンクルス達の耳に入ったら計画は台無しになる。
 ウィンリィとアルフォンスを見ながら、エドワードの胸は痛む。
 すぐ側にある幸福。エドワードはそれを全て捨てようとしている。
 ただ一人の弟といる為に。自身の正義の為に。この国の未来の為に。
 罪悪感がないわけではない。
 生身の弟は当然可愛い。本当に大切だ。
 だが鎧のアルフォンスは別格だ。あの弟がエドワードにとっての本物だ。エドワードの愚かさの道連れにされたあのアルフォンスこそがエドワードの弱点であり、心の傷であり、そして最愛の人間だ。
 エドワードはこれから目的の為にアルフォンス以外の全ての物を捨てる。例えそれが家族であっても。
 エドワードの選択が正しいのか分からない。動くなら一人で動くべきだ。鎧のアルフォンス……元いた世界のアルフォンスまで巻き込む事はない。弟は今まで兄に引きずられ茨の道を歩んできた。正しい選択をするなら、なんとかして生身の身体に戻してやってエドワードから離すのが最善だろう。
 だが……それを双方が望まない。今更離れられない。
 エドワードはアルフォンスが欲しい。あの自分だけの弟と生涯を生きたい。
 エドワードだけの我侭なら我慢するが、アルフォンス自身もそう願っている。
 エドワードは貪欲で我慢がきかない。初めから手に入らないものなら諦められたが、未来から来たアルフォンスは『エドワードだけが所有する事を許された』人間なのだ。母にもウィンリィにもとられない、エドワードだけしか知らない大事な人。もう完全に自分のモノだ。誰にも渡したくない。
 間違っていると理解しながらエドワードは選択した。エドワードにとってのより良い未来を。
 自分はどこまで罪深いのだと嘲笑う。
 愛は綺麗なモノではない。どんなに美辞麗句をつくしても水面下にあるのはただの感情なのだ。そして人の感情は様々な欲を引き起こす。独占欲、嫉妬心、希望、願望、誤解、執心……あげればきりがない。
 正義や義務を題目に掲げていても、底にあるのは個人のいやらしい欲望だ。愛と名付けられた独占欲に操られ、エドワードは戦い続ける。善人の顔をしてさも正しい事をしているように自分の我侭を通す。
 エドワードは流れる汗を不快だと思った。