第弐章
パコーン。
ホーエンハイムの頭の横でいい音がした。
正確にはホーエンハイムの頭部にエドワードの振った雑誌がヒットしたのでいい音が鳴った。……というべきか。
ホーエンハイムは頭を抱えた。
「突然びっくりするじゃないか。乱暴な子だな」
「親父。今なんか不愉快な事を考えなかったか?」
「…………エドワードは人の心が読めるのか?」
「んな訳あるかぁっ! やっぱり何か考えてやがったか。こンのまだらボケの中年親父がぁっ!」
「まだらボケとは酷い。オレはまだそんな年じゃないぞ」
「ピナコばっちゃんより年上のくせして若作りしてんじゃねえよっ。年寄りは年寄りらしく皺だらけになりやがれってんだ」
父親がピナコよりずっと年上だという事を突っ込み入れたかったエドワードだ。人外の者だから気味が悪い…というのではなく、それほど長く生きているのにちっとも人間的に成長していないのはどういう事だと、言及したかったのだ。無駄に長生きしやがって…とエドワードは手厳しく思った。
「不細工になったらトリシャに嫌われてしまうじゃないか。いやトリシャはオレの外見が変わったからといって嫌うような心の狭い女じゃない。聖母のように優しい女だからな」
本来の性質なのかそれとも長い時間に晒されて達観したのか、ホーエンハイムはマイペースだった。
「アンタの口から母さんの名前が出てくるのは不愉快だから言うな。オレの前で惚気禁止。言ったら尻に花火を突っ込んで人間ホタルにするぞ」
「妬くなエドワード。俺はトリシャだけじゃなくお前達の事もちゃんと愛しているから」
「誰がそんな事言えと言ったーーっ! ふざけろっ! オマエに妬くくらいならばっちゃんに愛を語った方がマシだ!」
「……エドワードは近親相姦な上に年上趣味なのか。……ピナコはイイ奴だが、恋愛の相手としては年が離れすぎていないか?」
「誰が本気でばっちゃんを口説くっつったーーっ! こンのアホンダラーーっ!」
死ねこの糞親父と罵詈雑言激しい兄と抜けた表情の父親を観察して、アルフォンスは『兄さんと父さんて基本的によく似てるな』と思った。
覚えていないのだからアルフォンスが父親に会うのは初めてといってもいい。写真や、母と兄の話から父親像をなんとなく想像していたが、ここまで自分のペースを崩さない人間だとは思わなかった。
他人の言う事を聞かない所は兄に似ているが、過ごした年月がエドワードとは比較にならないほど面と精神の皮を厚くしていた。
エドワードも成長すればホーエンハイムのようになるのだろうかと想像して、ちょっとイヤだなあと思った。
エドワードはエドワードだからこそいいのだ。
短気で無鉄砲で弟の忠告もてんで無視でハラハラさせられるけれど、真直ぐで曲がらなくてしなやかで健全だ。ホーエンハイムのような停滞したカビ臭さは身に付けて欲しくない。
勝手な言いぐさだが、アルフォンスが愛しているのは不完全なエドワードだ。天才で美しいのに未熟なエドワード。尊敬すべき面をベースにして、成長途中の不安定さを愛している。
兄についていくのは大変だが、全ては愛の為だ。
エドワードはホーエンハイムによく似ている。(兄に言ったら全否定するだろうが)
そしてアルフォンスは母トリシャ似だ。父と子が同じ轍を踏むとは思わないが、ホーエンハイムはトリシャを愛しながらも顧みず捨てた。同じ事をエドワードがしないとは言い切れない。
アルフォンスを愛している事は本当だが、それがアルフォンスの為だという大義名分があればいつでもアルフォンスを捨てる。そういう人だと知っている。
だからアルフォンスはエドワードに置いていかれないようにしがみついて離れない。愛が欲しいなら自分の手で掴んで離さなければいい。
エドワードに捨てられてたまるものか。慈愛がアルフォンスからエドワードを引き離すならば、そんなものはいらない。アルフォンスが欲しいのはエドワードだけなのだ。
そんな簡単な事にも気付かない兄が腹立たしい。そして同時に愛しい。
人の機微に疎いエドワードは、傷付きやすくいつまでも純粋なままだ。子供が段々なくしていく脆弱さをいつまでも手放そうとしない。狡い大人になる事を否定してここまできてしまった。本当ならもう二十歳を越えた大人なのに。外見に引き摺られ、エドワードの精神は未だ十五歳のままだ。
アルフォンスは……どうなのだろう。自分ではよく分からない。
アルフォンスの精神だって本来ならばもう大人だ。だがアルフォンスは肉体を持たない。この状態で大人になったかと聞かれれば戸惑うしかない。
自分は大人になれたのだろうか。それともエドワードと同じく十四歳のままで止まっているのか、疑問に思う。
別に無理をして大人になりたいわけではないが、いつまで未熟な子供でいるわけにもいかない。全てにおいて完璧であればいいが、そんな完璧さは追い求めても手に入らない。
完璧な『人』などいはしない。そんな人間がいたとしたら、それはたぶん『人』ではないだろう。
たとえば……そう、ホムンクルスのような。
惰弱さ脆弱さ脆さ隙を持たない彼らこそ、神の目指した究極の人型なのかもしれない。だとしたらできそこないでいる事こそ、正しい『人』の在り方かもしれない。完璧であるという事はそれだけで人の道を外れるのだから。
父ホーエンハイムの正体は未だ謎だ。永遠の命、変わらない姿。この国の本当の顔を知っている人。
だが何故かその理由を尋ねてはいけないような気がして、未だ聞けない。
エドワードもアルフォンスも自分達の父親が何者であるか聞きたかった。ホーエンハイムが素直に答えてくれるとは思わないから聞かないだけで、今も疑問が喉につかえている。
ホーエンハイムは兄弟の知らない沢山の情報を握っているだろう。そしてそれを決して息子達には話さない。それが分っているから二人は聞かないのだ。返らない答えの空しさを知っているから。
「兄さん、時間がないからそろそろ具体的な話をしよう」と言うと、エドワードは渋々ホーエンハイムとの口論(一方的)を止めた。
「……ちっ、この辺にしといてやらあ。ガキに説教されたくなきゃ、実家では真面目なマイホームパパを演じろよ。今まで寂しい思いをさせてきた母さんにちゃんと詫びて、向こうにいるアルにも優しくしてやれ」
「……エドワードはなんだか小姑みたいだな」
「久しぶりに会った息子に言う台詞か、それが!」
「はいはい、気持ちは分かるけど兄さん止めてね。父さんもわざとボケて兄さんを刺激しないで」
話が進まなくなるのでアルフォンスが調停に入る。
「ボケてないぞ。本当の事を言ってるだけなんだが」
「父さん、年寄りの常識が若者に通じるとは思わない方がいいよ。兄さんが父さんの価値観についてけなくて苛々してるから。同じくボクも父さんの常識にはついてけないし」
「さりげなくキツイなアルフォンス。顔は分からないが俺似じゃないって事は、トリシャに似たんだろう。エドワードはさぞお前に頭が上がらないだろうな」
「そういうところが兄さんの不興を買うんだよね。父さんてある種正直だけど、肝心な事は何も言わないくせにそうだから本気で相手をするほどムカつくんだと思う。ボクは兄さんほど父さんに対する思い入れがないから客観的でいられるけど、兄さんはなまじ親子の実感があるから許せないんだと思う。不義理してたのは父さんなんだからちょっとは自覚して」
「お前は俺に関心がないのか?」
「関心を持てるほど情報がないんだよ。別れたのは赤ん坊の頃だから記憶はないし、いない人の事を想い慕うほど愛に飢えていたわけでもない。むしろ母親と兄にたっぷり愛されて父親の不在が気にならないくらい幸せだった。父さんを許す許せないっていうなら、答えはどちらでもないと言うしかないよ。途中一回くらい帰ってきてたらもうちょっと父さんを気に留めていたと思うけど、会わない人を思うのは難しいよ。写真だけじゃ父親って言われても実感するのは無理だ」
ドライというか正直なアルフォンスの返答にホーエンハイムは苦笑した。
「アルフォンスはエドワードとは違った意味で正直だなあ。それもエルリック家の血かな。……俺に似たらもっと冷めた性格になっていただろうからな」
「誰に似ようと、エルリック家の次男に生まれたら性格は歪まないと思うよ。一番下っていうのはとにかく愛されるものだからね。幼年期は満たされて幸福だった。性格が歪むはずがない。……父さんだってそういう風に母さんに愛されたから、子供を二人も作ったんでしょ? 父さんがどうして母さんに惹かれたのか、ボクにはよく分かる」
「分かるか?」
「これで分からなきゃねえ。ボクそれほど鈍くないよ」
「エドワードよりはるかに鋭いな」
「兄さんはその鈍いところが可愛いんじゃないか。父さんは分ってないな」
「アルフォンスの弱点はエドワードの弟という点だけだな」
「兄さんはボクの自慢だよ」
「まさか兄弟間の惚気を聞くハメになるとは思わなかった。最近の子供は理解しがたい。これがジェネレーションギャップというやつか」
「問題は年代の差じゃないと思うよ。父さん、自分が普通じゃないって自覚あるんでしょ? 普通じゃない親から生まれた子が凡庸だったら、そっちの方がおかしいよ」
アルフォンスの冷静な指摘にホーエンハイムはそれもそうかと頷いた。失礼な事を言われたというより納得したのだ。事実が失礼なのだから指摘されて怒る方が変だ。
「アル、自分で言っておいて話がズレてるぞ」
エドワードの指摘にアルフォンスは『分ってる』と頷いて話を戻す。
「……じゃあ父さんは明日リゼンブールに戻るって事で」
「お前達はどうするんだ?」
「オレは親父とリゼンブールに行くつもりだ」
「どうして兄さん? 兄さんまで戻る必要はないと思うけど。戻らないって言ってたじゃないか」
エドワードの発言にアルフォンスは理由を求める。
「うーん。……これからウィンリィを呼び出す予定だったろ? 呼び出して来なかったら困るし、親父が途中でトンズラこかないように見張らなきゃ。きっちりリゼンブールまで送り届けたら、その足でウィンリィを引張ってラッシュバレーに向う事にする」
「何故ラッシュバレーに行くんだ?」
ホーエンハイムが聞く。
「ちょこっと用事があってな。……前にいた世界でウィンリィとラッシュバレーに行ったんだよ。その時に起こった事を再現したい。あんまり歴史とか人間関係を変えたくないからな」
「そうか」
ホーエンハイムは詳しく聞かなかったがエドワードの言いたい事は分った。エドワード達は未来で過ごしてきた歴史を再現しようとしているのだ。それが必要かそうでないかはとっくに考えているだろうし、ホーエンハイムもそれ以上聞こうとは思わなかった。
「じゃあボクはまた独りか……」
アルフォンスが寂しそうに言う。
「いや、今回はアルも一緒に行こうぜ」
「え、いいの?」
「アルだってパニーニャやドミニクの親父さんには会いたいだろ。ウィンリィにだって次いつ会えるか分からないし」
「パニーニャには会いたいけど、ウィンリィは……会ったら怪しまれるんじゃないのかな? あっちにいるアルフォンスと同じ声だし、ウィンリィは好奇心強いから鎧の中を見たがると思うんだよね」
「それはなんとか言い包める事にしよう。アルの身体は目立つからいつもの要領で荷物扱いで送ろうか。それとも輸送されるのは窮屈だから嫌か? 気を付けて汽車に乗るか? それともこっちに残るか?」
「勿論行く。ボクだって外に出たいよ。ドミニクさんやこれから生まれてくる赤ちゃんを見たいし。一緒にラッシュバレーに行くよ」
「じゃあ決まりだな」
エドワードとアルフォンスはコツッと拳を空で合わせた。
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