モラトリアム 第伍幕

完結
(上)


第弐章

#10



 本気でボケる父親相手に兄弟は必死になって事情を説明した。
 まずは自分達がこの次元の人間ではない事。
 母親の死。
 人体錬成。
 アチラ……真理の扉の向こう側に身体を持っていかれたアルフォンス…………そして魂の錬成。
 機械鎧。
 国家錬金術師。
 三年の旅。
 ……そして。おとずれた二人の死。
 エドワードの起こした時間移動。




 長い時間掛かって二人は父親に全て話し終えた。
 二人の話を聞いてホーエンハイムは顎ヒゲを撫でて、じっと考え込んだ。
「……オレ達の事情はこういう訳だ。今この世界にはアルフォンスが二人いる。この世界に元々いたアルフォンスと、未来の世界から来た精神体のアルフォンス。どちらもアンタの子供だ。次元が違うからって差別すんなよ。こっちのアルもアルである事には変わりないんだから」
 アルフォンスを傷付けたら許さないとエドワードは臭わせる。
「エド」
「なんだオヤジ」
「アルは二人いるのは分ったが……じゃあエドワードは? なぜお前は一人しかいないんだ?」
「それは説明しただろ。未来から来たオレがこの身体に入りこんだって。元いた九歳のオレは十五歳のオレの精神に上書きされた。そして六年間そのままだ」
「じゃあ未来から来たお前は、この世界のエドワードの身体を乗っ取ったのか」
「……何が言いたいんだ?」
「いくら魂同じくした本人とはいえ、お前は人ひとりの人生を奪っていいと思ったのか?」
 ホーエンハイムは怒っていなかったが、追求は厳しかった。
「それは……」
 痛いところを突かれたとエドワードは歯を噛み締める。
「父さん、兄さんは……」
 兄を思ってアルフォンスが口を挟もうとするのを、エドワードは手で止めた。
「……確かにオレのした事は許される事じゃない。そんなのテメエに言われなくても全部分ってる。……実際オレは過去に飛ばされた事を自覚した時に、この精神を眠らせようと思った。オレの知ってるアルもいなく……生きている意味を見出せなかったし、この世界の『エドワード』の人生を奪ってまで生きようとは思わなかった」
「それで?」
「だが……唐突に気付いちまった。オレはこれから何が起こるか知ってるって。アンタはずっと帰ってこなかった。そしてオレ達はまだガキだった。母親を支えるにはとても力が足りなかった。何もできず何も知らないまま……母さんは死ぬ。それが正しい未来だ。そしてオレ達はまた同じ過ちを繰り返す。何度でも……。母さんの死と、人体錬成。この二つだけは何としてでも阻止しなければならないと思った。オレは未来を知っている。だから未来を変えようと思えば変えられる。未来を曲げない事が歴史にとって正しくても……その正しさは受入れられない。未来のアルフォンスは救えなかったが、この世界のアルフォンスと母さんは救える。オレにはその力がある。例えこの肉体の正統な精神を犠牲にしても…助けようと思った」
「お前の選択は正しいと思うか? 過去を曲げる事は罪ではないのか?」
「世界中の人間が間違っていると言っても、神様が過ちだと告げようと、オレはオレの選択を過ちだとは思わない。大切なのは母さんとアルフォンス。それだけだ」
「そうか……」
 それだけは譲れないと顔を上げるエドワードに、ホーエンハイムはただそう言った。
「トリシャは死ぬ予定だったのか………………なんてことだ……」
 ブツブツと呟き自分の世界に入りこんだ父親を目の前に、エドワードの低い沸点があっという間に上昇する。
「大体っ! 元々の元凶はテメエじゃねえかっ! テメエが病気の母さんを放っておいたから、母さんは死んじまったんだぞ! 帰るどころか手紙の一通も寄越さないで十年以上もほっつき歩いてしたい事して、それでしゃあしゃあと父親ヅラすんじゃねえっ! この世界の母さんの病気を直したのはオレだ! 死ぬはずだった母さんを助けたのはオレであってアンタじゃねえっ! 本当ならアンタは母さんが死んで何年も経ってから、何にも知らずにのこのこリゼンブールに戻ってきた筈なんだぞ。感謝しろとは言わねえが、父親ヅラしてしたり顔で正論かましてんじゃねえよっ!」
 ホーエンハイムは息子の正しい指摘にぽりぽりと頭を掻いた。
「……ありがとう?」
「なんで疑問形なんだよっ!」
 激昂する兄の服の端をアルフォンスが引張る。
「兄さん落着いて。話はこれからだよ」
 アルフォンスのなだめるような声に、エドワードは自制心を働かせる。父親を罵倒したい気持ちは山程あるが、今しなければならない事はそれではない。
「それにしてもお前達が人体錬成か……。愚かな事をしたものだ」
 ホーエンハイムの呟きにエドワードはブッツリと精神の糸が切れる音を聞いた……が。

 ガチャンッ!

 机に叩き付けられたアルフォンスの頭部に、エドワードの身体はビクリと跳ねた。
「な、なに? どうしたアルフォンス?」
 弟の怒りのオーラにエドワードは自身の怒りを忘れる。
「父さん。ボク達のした事は許される事じゃない。そんなの分ってる。けど、何もしなかった父さんにボクらを責める資格はない。人体錬成をしたばかりの頃ならともかく、それから十年以上が経ってるんだ。今のボク達は庇護を必要とする子供じゃない。苦難の人生をボクらだけで築きあげてきて、ボクらはもう父さんの付属品じゃなくなった。兄さんの言う通りだ。この世界の母さんを助けたのは父さんじゃなく兄さんだ。もし兄さんが人体錬成をしてボクの身体がこんな姿にならなかったら、過去に戻る時空錬成は起こらなかったし、この世界の母さんは死んでもうこの世にはいない。全ては仮定だけど、事実だ。した事を正当化するつもりはない。だけど、何もしなかった父さんが兄さんを非難するのは間違っている」
 普段大人しい分、怒った時のアルフォンスのキレ方は半端ではない。
 部屋の温度が急激に下がったように、兄と父はゾッと背中が冷たくなった。
 エドワードは庇われた事よりも弟の怒りが恐くて小さくなり、ホーエンハイムは兄より恐い弟の迫力に呑まれるように「……そうだな」と頷いた。
 アルフォンスの魂は母親に似ていて、ホーエンハイムも逆らい難い。
「……だからエドワードは国家錬金術師になったのか。いくらなんでも九歳で国家錬金術師になれるわけないと思ったんだが……そういうカラクリか。じゃあお前達は精神的にはもう成人してるのか」
「肉体より精神の方が六歳年長だからな。オレは二十一歳、アルは二十歳だ」
「トリシャが助かったのなら国家錬金術師を続ける必要はないだろう。なんで続けてるんだ? 高額な研究費用につられたのか? だが国家錬金術師は軍の狗だぞ」
「んなの分ってるよ。だからそれをこれから話すんだよ。今まで話したのは序章というか前振りだ。本題はこれからだ」
「本題? まだ何かあるのか?」
「何かなきゃわざわざテメエを掴まえになんかこねえよ。顔も見たくないっていうのに」
 エドワードは酷い言葉…本音をさらりと言ってフンとそっぽを向いた。
 エドワードは複雑な心境を隠しもしない。
 大嫌いな父親。時代が違うとはいえ同一人物だ。
 会いたくなどない。話をするのも不快だ。けれどどうしても会って話をする必要があった。
 今はとりあえず私情を捨てて行動しなければならない。未来の為に。
「じゃあなんで俺に会いに来たんだ?」
「アンタに協力して欲しい事がある」
 エドワードは低い声で言った。
「協力? 何を? 俺はそんな暇ないんだが……」
「テメエに拒否権があると思うのか? これ以上母さんを放っておくつもりか? いい加減家に帰って父親らしい事をしろ。リゼンブールで待ってる二人に誠意を示せ」
 トリシャの病気の事を聞いてなお自分の研究を優先させようとする父親の身勝手さに、エドワードは再びキレかける。
「しかし俺にも事情というものが……」
「父さん」
 アルフォンスの有無を言わせない声。
「父さんが外見より長く生きてる事をボク達は知ってる。……父さんがしている研究は父さんにとって大事なものなんだろうね。けど、母さんには寿命があるんだ。長い生の中の何十年かを母さんの為に使ってもバチは当たらないと思う。…っていうか伴侶を持ったのならその責任くらい果たしてよね。嫌だって言うなら力づくでリゼンブールまで引張っていくからね。口塞いで縛り上げて、梱包して郵送しちゃうから。そんな事しても父さんなら死なないんでしょ? ボク本気だよ」
 少年の可愛いソプラノ声でアルフォンスは父親を脅した。
 エドワードは我が弟ながら恐いと思った。今日のアルフォンスはエドワードに負けずイイ感じにキレている。
 ……っていうかマジで恐いんですけど。
 反抗期だろうか? それとも家から出られないストレスが溜まっているのか?
 怒られてるのが自分じゃなくて良かったと、エドワードはドキドキする。
「つーわけで言う事を聞け、父さん」
「……分った」
 ホーエンハイムは迫力に押され、首振り人形のように頷いた。