第一章
次の日。エドワードはヒューズ家に来たがヒューズは仕事で遅くなり二人は会わずに終わった。
それから数日間、ヒューズはとにかく多忙で帰宅が遅れエドワードと会わずに済んでいて、心のどこかでホッとしていた。
エドワードを信じたい心と、消しても浮かび上がる猜疑心とが同時にあって、ヒューズはエドワードにどんな態度をとればいいか決めかねていた。
数日後。
仕事をほどほどで切り上げたヒューズは帰宅し、エドワードと会った。
「おかえりなさい、中佐」
エドワードの顔を見た時、ヒューズは分からなくなった。
笑顔は屈託なく、エリシアとグレイシアに向ける表情はころころと明るく変わり、とても肚に一物あるようには見えない。
ヒューズは戸惑いながらエドワードを観察した。やはり直接聞くしかないかと思った。
「……エド。単刀直入に聞きたいんだが」
「なに、中佐?」
「誘拐犯はお前か?」
二人きりになった部屋でエドワードは目を見開いた。
「ええと……今なんて言ったんだ? 悪ぃ、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれ」
「一連の誘拐事件の犯人はエドワードなのか?」
「……正気で言ってるのそれ?」
エドワードの、言っている意味が分かりませんという顔にヒューズは重ねて言う。
「ロイから聞いた。……エドはエリシアが誘拐される事を知っていたらしいな。本当なのか?」
「まさか。知るわけないよ」
「じゃあ全く知らなかったのか?」
「当然だろ」
「だがロイには私情で動きたくなるような事件が起こっても中央には来るなと言ったそうじゃないか。……ロイが私事で動きたくなるような事件に該当しそうなのは、一件だけだ」
今までエドワードには向けられた事のない鋭い声に、エドワードは「オレ今尋問されてるの、もしかして?」ととぼけた。
「尋問じゃなく質問だ。答えろ」
「……ったく大佐もお喋りだな。言うなって言っといたのに。そんなに一ヶ月後が待てなかったのかね。……ったくこっちだって色々大変だっていうのに」
エドワードはけろりとして言った。
「何が大変だって言うんだ? 知っている事を話せ」
エドワードはリラックスした様子でヒューズを見上げた。
「中佐、オレを疑ってるのか?」
「そうじゃないと思いたい。だがロイの口ぶりではエドが何か知ってると確信していた。エドが誘拐犯だとは思わない。だが犯人の情報を知ってるんじゃないのか?」
「ふうん。オレが誘拐犯の情報を知って隠してると思ってるんだ」
「エドワードは良い子だが……隠し事が多い。人に言えない色々な事をその胸の内に隠し持っているんだろ? オレに教えてくれないか?」
「中佐もせっかちだな。大佐から聞かなかった? 後で話すって」
「どうして今言えないんだ? ……いや待て。本当にエドは誘拐犯の情報を持っているのか? そうなのか? 何故今言ってはいけないんだ?」
エドワードは辺りを見回すと人指し指を唇の前で立てて「シー」と口を噤むように言った。
「中佐。……声をなるべく小さくして。この部屋に盗聴機がない事は知ってるけど、何処で誰が聞いてるか分からないから。慎重に話して」
エドワードの顔が真面目なのでヒューズの声も小さくなる。
「盗聴器なんて……あるわけないだろ」
「うーん。……毎日来て探してるから今はないけど、オレがこの家に来た時はあったよ」
「マジかよ?」
「マジ。全部撤去するのはマズイから電話のは残してある。そっちは盗聴されてるって知ってるんだろ?」
「ああ、知ってたが……まさか家の中までか? 今まで気付かなかったぞ!」
「上に行く人間は粗探しされるからなあ。大変だ」
エドワードはうんざりと言う。
「なんで言わなかったんだよ?」
「疑いを持たれない為には放っておくのが一番だ。……けど大佐が来るって聞いて全部撤去した。アイツ何喋るか分からないからな」
「軍部を警戒するって事はやっぱり何か知ってるのか?」
「オレが警戒するのは中佐の為だよ」
「俺の為? どういう事だ?」
エドワードはジッとヒューズを見た。その引き込まれるような金色の瞳の中にこちらの浮ついた心を引っぱたくような苛烈な色があって、ヒューズは思わず緊張する。
「エド……?」
「一つだけ言わせて。……オレは中佐が大好きだ」
「そりゃ……嬉しいな」
「グレイシアさんもエリシアも大好きだ」
「………………」
「だからオレは中佐の家族を悲しませるような事は絶対にしない」
「ああ、分っている」
「分ってない。……オレは真剣なんだ。小さな冗談も紛れないほど真面目なんだ。だから質問するならそっちも真面目にやってくれ。……オレを疑うって事はもう信じてないって事か? オレを信じられない?」
「信じてなかったらエドをエリシアには近付けさせないさ。そうだろ?」
「そうだな」
「だが……俺はロイの言葉も信じる。ロイは考えもなしに人をおとしめるような事は言わない。あいつはあいつなりに確証を持ってエドの事を話したんだ。だから俺の心は揺れている。エドを信じてるけど、ロイも信じてる。どっちも大事な人間だ」
「……チッ。大佐のおしゃべりめ」
エドワードは横を向いてボソリと吐き捨てた。
「お前の言い分を聞かせてくれ。違うというなら俺にはっきりそうと言ってくれ」
真摯な言葉にエドワードは試すように言った。
「もし……オレが何らかの情報を握ってるとしたら、中佐はどうする?」
「握ってるのか?」
「もし……だ。仮定の話だ」
「もしエドが情報を持ってるというなら……どんな事をしても話してもらう」
「どんな事って……拷問にでもかける?」
「そんな乱暴な事するかよ。……俺が駄目ならグレイシアに問い質してもらう」
「うげっ、そうくるか」
真綿で絞めるような力技にエドワードはやめてくれとうんざりした顔になる。
「グレイシアに聞かれたくなかったら知ってる事を話せ」
「どういう脅し方だよそれ。オレは何も知らないったら」
「シラを切るっていうんだな?」
「恐い顔すんなよ中佐。男前が台なしだぞ」
「エド……俺は本気なんだが」
「オレも本気だ。今言える事は何もない」
睨み合う二人はしばし視線を合わせた後、どちらからともなく顔を逸らせた。
ヒューズはまだ半信半疑だった。子供を疑う自分を恥じていたし、だが一方で疑わざるをえない状況を作り出した子供の弁明を聞きたかった。
エドワードの口から「あれは違う。まったく別の事を言ったのだ」と否定してもらえればそれで良かった。
だがエドワードは曖昧に言葉を濁し、判別がつかない。
「エドが何も言わないのはやはり誘拐犯だからなのか? エリシアを攫ったのには何か深い訳があるのか? 訳があるなら言ってくれ!」
エドワードは苛烈な瞳から沈んだ色になる。
エドワードはシイッと静かにするように合図して、低い声で言った。
「中佐。……仮定の話をしよう」
「仮定?」
「そう、もしもの話だ。仮定だから本当じゃなく、嘘の話だ。だが仮定だから、全部が嘘じゃないかもしれない。もしも、という可能性がある。荒唐無稽の作り話だとしても、嘘から真が出るかもしれない。それでも聞きたい?」
「何言ってるんだ?」
エドワードはゆっくりと言った。
「もし……誘拐自体が軍部による自作自演だったらどうする?」
「え?」
ヒューズは何を言われたか分からない。
「全ては上層部が画作した事だったら? 下は何も知らないが上は全部を知ってすっとぼけているだけだとしたら? ……中佐はどうする?」
「まさか……」
「軍が簡単にコケにされたのは上がそう指示したせいだとしたら? 筋書きを書いて実行したのが上層部だったら……中佐はどうするつもりだ? 告発する?……無理だろうね。握り潰される。もしくは罪を擦り付けられてうやむやのうちに処分される」
「……本当なのか?」
信じ難いという声にヒューズにエドワードは抑揚のない声で言った。
「仮定だって言っただろ。本気にするな。けど……可能性がないわけではないとも言った。……『もしも』の話をする。もし上層部が理由あって自作自演を企てたとして、それを知った者を全て処分するつもりだったら、中佐はどうする? 動く、それとも沈黙する? 真実を暴こうと動いたら確実に消されるよ? 保身の為我慢して気がつかないフリをする? なあどっちを選ぶ?」
いじわるな質問にヒューズは咄嗟に声が出ない。そんな荒唐無稽な事があるわけないと思いつつ、今の腐った軍上層部の一部の人間達ならやってもおかしくないと思ってしまう。
「エド……それは真実なのか?」
「人の話を聞いてないのかよ? 『もしも』の話しだって言ったぞ。……全ては仮定であり真実ではない。だが仮定を立ててシュミレーションしておく事は大事な事だ。何が起こっても的確に動けるように準備しておく。……聞いているのは俺だ。答えてくれ」
「答えろって言われても咄嗟には答えられねえよ」
「そんなありきたりな答えしか持ってないのに、どんな事をしてもエリシア誘拐犯を捕まえるって? どんな事があるって思ってたんだ? 中佐の想像もつかない裏があるとは考えなかった? 単純な誘拐事件じゃないと思ってたんだろ? 身内を疑ってたんだろ? それが個人じゃなく、軍そのものだとしたら中佐はどうするの? 仲間だと思っていたものに裏切られていたら」
追求の声は淡々として静かだったが、ヒューズは追い詰められた。
思わぬ事を言われて返事ができない。
エドワードは『仮定であり本当ではない』と言ったが。
芽生えた疑惑はヒューズの心に絡み付いた。
軍部の自作自演? 馬鹿な。
だがその可能性がないとどうして言い切れる? 肯定も否定も確定するだけの証拠がない。
迷うヒューズに、エドワードは痛みを堪えるような目をした。
「……ゴメン、冗談だ。……仮定にしても無茶な仮定だった。いいよ、そんな事考えなくいい」
「エド?」
軽い口調だが目は笑っていない。
「一つだけ覚えていて欲しい」
「なんだ?」
「中佐は優秀だけど……中途半端な優秀さと正義は自分の命を縮める。中佐にはエリシアとグレイシアさんがいる。二人は中佐のアキレス腱だ。弱味のある人は……強大な敵に立ち向かってはいけないんだ。必ず家族を人質にとられてしまうから。弱味のある人間は膝を屈するしかない」
「エド、何を言って……?」
「オレはエリシアもグレイシアさんも中佐も大好きだ。だから……危険に晒したくないんだ。今のまま……何も知らないままでいてくれ」
エドワードの声が深い霧の夜のように哀しそうで、ヒューズは何故? という言葉を返せないでいた。
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