第六章
朝一番の列車で北に向かわなければいけないアルフォンスを、エドワードは駅まで見送った。乞われてなんとなくそうした。
「西も中央と同じくらい寒いね。……でも北はもっと寒いんだろうな」
アルフォンスは朝霧深いホームでエドワードとコーヒーを飲んだ。
コーヒースタンドは早朝から開いている。二人して熟睡してしまったので、朝食をとる時間がなかった。パンとコーヒーだけの簡単な朝食だが、エドワードと一緒にいられる時間が贅沢に感じられる。
「オマエ結局オレを抱かなかったな」
ブッ!とアルフォンスはコーヒーを吹いた。
「……っなに、兄さん!」
「なぜ抱かなかった? オマエはそうしたかったんだろ?」
「……抱いてたよ。一晩中」
「そりゃ意味が違うだろ」
「同じだよ。兄さんがずっと腕の中にいて……幸せだった」
「アルフォンス……」
「兄さんとセックスしなかったのは……どうしてだろ。兄さんが欲しいって気持ちはあるのにね」
「オマエ……もうオレの事は忘れろ。愛してないけどオマエはいい弟だ。オレを忘れれば幸せになれる」
「兄さん抜きの幸せなんて考えられないよ。それにそんな事したら母さんに叱られちゃう」
「……兄弟でくっついても叱られるぜ」
エドワードは呆れ、アルフォンスは少し笑った。
アルフォンスは目の前にいる男は誰だと自身に問う。……自分が傷つけて壊してしまった、最愛の兄だ。
「あのね、兄さん。ボクが兄さんを抱かなかったのは、兄さんが『死んでる』からだ」
「死んでる?」
「今の兄さんは心がない。それって死んでるのと同じだ」
「随分失礼な言いぐさだな。オマエを愛してないからって死人扱いするな。それとも自分の思い通りにならない兄は死人扱いでもいいのか?」
「兄さんがボクの思い通りになった事なんてなかったじゃないか。そうじゃなくて……ボクを愛してないから言うんじゃないよ」
「じゃあ何だ? 心のない人間は死人同然だって言いたいのか?」
「うん、そう」
「おい……」
「ボク思うんだけど……生きるって事は命を育むって事だと思う。……で命って何かって言うと、生命活動の事だけじゃないと思うんだ。命には別に名前があるんだ」
「名前?」
「……『心』って名前が。心は命の別名なんだよ。だから心のない兄さんは半分死んじゃってるんだ」
「おかしな理屈だな。……命の別名は……心か。ロマンチストのアルらしい解釈だな」
「兄さんに心を取り戻してあげたい。……でもコレってボクの自己満足なんだよね。だって兄さんは全然そんな事を望んでないんだから」
「ああ」
「ボクは兄さんの『心』を取り戻す事を諦めた。……だって兄さんに心が戻れば、きっと人殺しの自分に苦しむ。今の自分の姿に耐えられない」
「………………」
「ねえ、兄さん。兄さんは聞きたくないだろうけどボクは言う。……愛してるよ。この世で一番。この先どうなろうとその気持ちだけは変わらない。魂が兄さんを求めて叫ぶんだ。だってボクの魂は兄さんが錬成したものだ。扉の向こうから手を伸ばしてボクを引き戻した。その時の事を覚えている。だから愛さずにはいられない。等価交換だよ、兄さん。兄さんは愛でボクを引き戻し錬成した。ボク自身が兄さんの愛の結晶なんだ。だから兄さんを愛さなくなるっていうのは死ぬって事なんだ。命の別名は心って言ったでしょ? ボクの命は兄さんの愛でできている。兄さんが無くした物がボクの中で生きている。それって凄い事だよ。兄さんは心を無くしたけど、それがボクの中に残っている。ボクの魂が兄さんの心なんだ。だからボクが魂を差し出せば兄さんの心は再び戻るけど、そんな事をしたら兄さんがおかしくなっちゃうからそれはできない。だからボクは……」
「……だから?」
「……何でもない」
アルフォンスは言い掛けた言葉を飲み込んだ。
言いたい事を言ったら少しすっきりした。そうだ。アルフォンスの魂はエドワードの愛でできている。エドワードの心はしっかり自分の中にある。だからもう思い悩まなくていい。
アルフォンスは立ち上がると兄を見下ろして言った。
「お願いがあるんだ、兄さん」
「何だ?」
「賢者の石を……ボクに貸して」
「……何故?」
「ボクはこれから北に行く。多分戦争になる。石があれば治療とか……戦闘とか……役に立つ」
「だが賢者の石の事は秘密だ。人前でおいそれとは使えない。存在がバレれば大問題だ」
「ギリギリまで使わないよ。持っているだけでいい。お守り代わりにしたいんだ。……お願い」
「判った。……もっていけ」
エドワードは首飾りにしていた赤い石を外してアルフォンスに手渡した。
「ありがとう」
アルフォンスは兄に覆い被さって抱き締めた。
エドワードは成すがままだ。抵抗するのが面倒なのか最後の餞別だと思っているのか何を考えているのか判らないが、兄から拒絶の意志は感じなかった。
アルフォンスの唇がエドワードのに触れて離れた。
「じゃあ……行くよ」
アルフォンスは振り向かず列車に乗り込んだ。
エドワードは見えなくなるまでアルフォンスの乗った列車を見送った。
何となく永遠の別離を言い渡された気がした。
アルフォンスはエドワードを諦めた。愛を乞うのを止めた。そして決別した。
包容はその決意だ。
エドワードは唇に触った。
命の名前は『心』だと。ロマンチストで夢見がちなアルフォンスらしい。
確かにアルフォンスの魂を錬成したのはエドワードだ。エドワードの心とアルフォンスの魂がリンクしているというなら間違いではない。
でも愛してないのだ。やはり何も感じない。アルフォンスを前にしてもエドワードの胸に響くものは何もない。
だからアルフォンスが兄を諦めた事は正解なのだ。
エドワードはやっとしがらみから解放されたのだ。
これで兄弟は自由だ。
なのに……。
どうして自分は泣いているのだろう?
心がない。悲しくない。何も感じない。
それなのに涙が出る。
ああこれは。
『魂』が泣いている。
アルフォンスを愛する『魂』が最愛の者との別離に哀しみを訴えている。
まただ。精神と魂が不具合を起こしている。
だからアルフォンスに会うのはイヤなのだ。エドワードの内面が分裂する。
『愛してる、愛してる、愛してる』魂が叫ぶ。
『愛してない、愛してない、愛って何?』精神が問う。
駄目だ。身体の中で魂と精神が分離する。
『心』を取り戻してはいけない。
賢者の石が壊れてしまう。
アルフォンスが死んでしまう。
エドワードは表情一つ変えず……。
ただ黙って。
頬を濡らしていた。
ずっと。
立ち尽くしたまま。
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