第六章
「……兄さん」
写真の中のエドワードは喧嘩の後なのか汚れている。国家錬金術師になったばかりの頃の写真だ。表情は明るくその姿には苦笑を誘う。
こんな顔もできたのだと今のエドワードと比べて、アルフォンスはアルバムを抱いてベッドに転がった。
アルバムの中のエドワードは表情豊かだ。笑い、怒り、拗ね、驚き、元気で子供らしい。
こんな兄を自分が奪ってしまったのだと、アルフォンスは毎日後悔している。この三年ずっとだ。心の休まる日はない。
目を閉じて眠ればいつでも『あの時』に還る。
『アルフォンス……愛しているんだ』
全身で訴えていた兄を今なら受け入れられる。
こんなにも愛されていたのだと感動するのに、それは全て夢だった。
現実のエドワードはアルフォンスの存在を疎んじている。無理もない。今は欠片も愛していない弟に愛を乞われて辟易しているのだ。
アルフォンスは自分がなくしてしまったモノがどんなに価値あるものだったのか、無くしてようやくその傲慢さに気がついた。
側にあった時には判らなかった。兄が自分を愛するのは当然だと思い込んでいた。
どうしてそんな事を思えたのか。
命掛けるほど愛されて、右手を差し出すのも厭わないほど大事にされて、よくも兄を間違っているなどと言えたものだ。
愛される事を疑問に思わないほど大事にされてきた。母が死んで寂しかったが自分を不幸だと思った事はなかった。半身のような兄が常に側にいた。
愛している、愛している、愛していると全身で愛を感じていた。その愛にどっぷりつかって自分は兄に甘え続けた。なのに自分は……。
アルフォンスはシーツに顔を臥せる。思うだけで胸が痛くなる。
(兄さん、兄さん。ゴメンなさい)
エドワードの壊れた瞳。あんなに必死だったのに、あんなに脆く壊れそうだったのに、あんなにギリギリで打ちのめされていたのに、自分は兄の必死の告白を冗談で一蹴してしまったのだ。
「兄さん……ゴメンなさい。……許して下さい……」
シーツが濡れる。過去を思い返せば今が辛くて、だがエドワードを思わずにはいられない。
あの明るい笑顔が見たい。もう一度愛されたい。名前を呼んで欲しい。
愛してます。ゴメンなさい。許して下さい。
何でもするからもう一度好きになって下さい。愛を下さい。
いくら謝っても過去はやり直せない。
アルフォンスは酬いを受けたのだ。
一番大事な人を安易に傷付けてしまった。残酷な言葉で切り刻んだ。
『変だよ、兄さん。それじゃあ変態じゃないか。おかしいよ。兄さん変態なの?
兄さんおかしいよ。……いきなり何を言い出すんだよ。ボク達兄弟じゃないか。兄さんはたった一人の家族なんだよ。
聞きたく無い! タチの悪いジョークだ。ボクそういうの嫌いだ』
……なんて酷い事を言ってしまったのだろう。自分が言われたらきっと耐えられない。
……兄さん、ゴメン。
謝って許される事ではないが、アルフォンスは許しを乞いたかった。
エドワードはアルフォンスに言う。
『身体が元に戻ったのだから、オマエは一人で生きろ』……と。
だがアルフォンスが元の身体に戻りたかったのは『元の生活』を取り戻したかったからだ。それには兄の存在が不可欠だった。
兄さんを抱き締めて眠って、兄さんと研究をして、兄さんと食事して、兄さんと喧嘩して、兄さんと……。
アルフォンスの中ではエドワードがいる事がごく当然だったのだ。エドワードがいなければ元の身体に戻る意味がない。
だが現実はこうだ。アルフォンスのものだったエドワードはもう何所にもいない。取り戻すことは実質不可能だ。
ロイも言う。エドワードの事は残念だが、エドワード抜きの幸福を探した方がいいのではないか? ……と。
確かにアルフォンスはもう大人だ。ヒューズのように家庭をもって幸福になるという選択肢もあるだろうが、アルフォンスは今のところ誰もエドワード以上には好きにはならないし、エドワード以上の愛情をくれる女性には出会わなかった。
比べる方が間違っているのだ。女性がアルフォンスに求めるのは恋だ。恋とは自分だけを見て欲しいというエゴだ。エドワードがアルフォンスに与えたような見返りを求めない純粋な愛情とは違う。
アルフォンスを愛する女性は多かったが、皆返される愛情を求めていた。愛の代償を欲しがった。
何人もの恋人を替えたアルフォンスは、誰も本気で愛せない自分に気がついた。
命も捧げるくらいに兄から愛されたアルフォンスは、兄以上の人間でなければ満足できなかった。そしてそんな人間は何所にもいない。
兄さんを取り戻す。それがアルフォンスの望みだった。
今ならエドワードの恋も受け入れられる。男とか兄弟とか、すでに禁忌はない。自分が何にこだわっていたのかも判らなくなっていた。
エドワードからの愛に餓え続けたアルフォンスは、どんな種類だろうとエドワードからの想いならなんでも欲しかった。
ずっと後悔していた。なぜあの時兄を受入れなかったのだろうかと。
エドワードは言っていた。
『覆水盆に還らずだ』…と。
だがアルフォンスは錬金術師だ。零した水だとて盆に還してみせよう。そう決心した。
兄はアルフォンスにとって生きる糧だった。人は愛なしには生きられない。
だがエドワードは三年前死んだのだ。今いるエドワードは抜け殻だ。人は魂だけでも肉体だけでもその人にはなりえない。心があって初めてその人になれるのだ。
『命』の名は心。心のない今のエドワードは死人だ。
絶対に兄を取り戻すとアルフォンスは決意し、様々な方向からエドワードの心を取り戻すアプローチをしていた。
そうして……いま、一つの仮説が立てられた。
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