命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第六章



#18



「おめでとう。キミも今日から軍の狗だ。……長かったな。キミはすぐにでも国家資格をとるものだと思っていたぞ」
「ありがとうございます、マスタング准将」
 アルフォンスは手渡された拝命書を受け取った。
 兄が同じ物を受け取ったのは六年前だ。
「二つ名は『鎧』だ。鎧の錬金術師アルフォンス・エルリックだ」
「それはまた……皮肉な二つ名ですね」
 アルフォンスが呆れる。実情からすれば皮肉以外の何物でもない。
「そうか? キミにはそれしかないと思うがね。それに二つ名をつけたのは大総統だ」
「……ボクが鎧の錬金術師ですか。生身に戻っても『鎧』はついてまわるんですね」
「キミは同時に軍人になるんだったな」
「はい。よろしくお願いします」
「別に国家錬金術師資格だけでも充分だったのではないか? わざわざ軍人にならなくても……」
「いいえ。兄さんに追い付く為に軍籍が欲しかったんです」
「鋼のか……。折角の弟の合格なのに、鋼のは仕事で中央にいない。残念だったな」
「いつもの事ですから」
「いつもの事……か」
 エルリック兄弟の三年前から続く確執に、ロイは少しだけ気持ちが重い。
 エドワードはあれから弟を一度もまともに見ない。
「鋼のは今、西のクアラルにいて、クレタ軍との停戦の調停に出向いている。……いつ破られるか判らない停戦だが、一応西の戦火は下火になった。鋼のの功績だな」
「それって……皮肉以外の何モノでもないんですけど」
 アルフォンスは顔色が冴えない。エドワードの話題だとこうなる。西のクレタと停戦した理由を知っているだけに、そう考えるのも致し方ない。
 長期に渡り国境でクレタ軍と交戦していきたアメストリス軍だが、この春ようやく停戦条約が結ばれた。平和的和解ではなく、双方の政治的判断からだった。
 冬に大規模の交戦があり、クレタ軍は大敗を帰してアメストリスからの停戦に応じたのだ。そしてその指揮をとりクレタ軍に大打撃を与えたのが、エルリック中佐だった。勝者の側から停戦とは腑に落ちないが、それには裏の事情があった。
 鋼の錬金術師の名はこの三年で飛躍的に広まった。味方からは畏怖と憧憬とをもって、敵からは憎悪と恐怖の名で知れ渡っている。
 三年で戦闘回数は二百回を越え、その間エドワードは数万の人間を殺し、数百の勝利を自軍にもたらした。
 刃物のような頭脳と鉈のような決断力。戦場においても恐れの欠片も見せず常に冷静沈着、利用できるものはなんでも利用する合理主義者。見た目はまだ少年の域を脱していないが、伶俐な頬に浮かぶのは無関心。いかなる戦況においても鉄面皮で誰にも心を読ませない錬金術師。
 そう見られているエドワード・エルリックは現在十九歳。階級は中佐。年齢に対して階級が不相応に高いが、功績に対しては低いと言われている実力派。
 身長は軍の規定に届いていないが、国家錬金術師という建前で特例を許されている。
 エドワードを外見で侮る人間はもういない。エドワード・エルリックの名前には恐怖がついてまわっている。戦場においては絶対の破壊神であり、ひとたびエドワードが大地に立つと地図が変わると言われている。地形を変えるほどの大錬成を平気で行う国家錬金術師。錬金術の腕は軍、いやアメストリス一と囁かれている。
 エドワードは敵に対しても容赦ないが、味方のミスに対しても厳しい。とくにエドワードを侮る人間に対しての処置は残酷だ。
 だがエドワードが功績を上げ続けている限り、多少の事は不問に伏される。
 エドワードは冷酷な上司ではあったが有能で差別のない人間だったので、部下からは概ね好意的だった。素っ気無い態度も禁欲的と解釈され、恐れながらも敬意を払う部下は多い。若い将校が戦場で叩き上げの部下に敬意を払われるのは容易な事ではないが、エドワードは力づくで尊敬を勝ち取った。……恐怖も同時に。
 出世欲なさそうなところがまた格好良いと、若い下士官達からは憧憬の瞳で見られているが、エドワードはそれすらどうでもいいという態度だ。他人の評価を必要としていないのだ。
 他人に対して無関心でクールな人間だと思われているが、その本質が空洞だとは流石に誰も知らない。知っているのはアルフォンスを含む数人だけだ。
 エドワードは三年前からずっと心が欠けたまま、軍人を続けていた。
 エドワードが人間らしい心、つまりは人を愛する心を失ってから、アルフォンスは何とか兄を元に戻そうと努力したが、叶わなかった。
 エドワードの作った賢者の石はこの事に関しては使用不可能だった。何故なら賢者の石は数多の命とエドワードの精神を代価にしてできたものだから、エドワードの精神を取り戻すというのは石自体に矛盾が生じる。
 まるで生き物のように賢者の石は思考をもち、自分とエドワードを守った。
 アルフォンスには精神の錬成はできない。研究を重ね努力したが、いかに天才錬金術師とはいえ、心を錬成するのは無謀だった。代価が何か判らない。構築式が計算できない。とっかかりさえなかった。それこそ無から有を生む賢者の石なしには成せない事だが、石自体に拒まれてはどうしようもない。
 三年前作られた賢者の石の存在は三人だけの秘密で、石は結局エドワードが所有していた。
 石は制作者、つまりはエドワードに執着していて、自分を生み出した母だと認識しているらしい。石はエドワードに所有される事を望み、ロイは石をエドワードに返した。エドワード以外には扱えないと判断したからだ。込められた力が大きすぎて制御が難しい。
 エドワードは心がなくなったが、それ以外の問題はないのであっさり軍人になり、好んで戦場に赴いて西に南に大活躍だ。
 縋るような瞳の弟を鬱陶しいと、中央にはよりつかない。
 今のエドワードはないものを求めるアルフォンスを嫌っていたが、さりとて憎いわけではないので殺すわけにもいかず、しつこい身内は始末が悪いと苦い顔だ。同じく会えば泣くウィンリィも苦手で、リゼンブールにも帰らない。
 機械鎧の修理は自分でやっている。賢者の石があるのでなんでもござれのエドワードだった。
 エドワードが気楽に戦争屋をやっている頃、アルフォンスは絶望と努力の日々だった。
 ある日突然独りになった。
 心の欠けた兄はもう他人同然だった。
 エドワードのアルフォンスを見る瞳には温度がない。まるで無機物を眺めるような目にアルフォンスは絶望した。
 兄の心が消え、独りの寂しさにアルフォンスは決意する。兄の心を取り戻そうと。
 だが研究は遅々として進まず、アルフォンスは情報や資料を求めて全国を旅してまわった。それは賢者の石の手掛かりを探すより困難だった。誰も『心』だけを錬成しようとした錬金術師はいないのだから、資料が残っていなくて当然だ。文献など何所にもない。
 そうして『心』の錬成を諦めざるを得なかった。『心』を作れないなら何か別の方法で兄を取り戻せないかと思案したが、どれも可能性は低い。
 アルフォンスは心がなくても、自分を他人のように見詰めてもいいから兄の側にいたいと、国家錬金術師になる事を決意した。軍にいれば兄と繋がっていられる。
 受験はすんなり済んだ。三年前でも合格できていた実力だ。結果は当然だった。
 誰もがアルフォンスを歓迎したが、一人エドワードだけは苦い顔だ。苦手な弟が側に来るのだから、最近は顔から渋面がとれない。エドワードは事情を知る者の前では露骨に本心を隠さない。
「国家錬金術師になるのはヤメロ! 田舎に帰れ」というエドワードの要請をアルフォンスは「絶対にイヤ。兄さんの側にいる」と却下し、兄弟の仲は険悪だった。
 元の仲睦まじい兄弟を知っている元東方指令部の人間達は、そのギスギスした空気を案じていた。
 皆アルフォンスの気持ちが痛いほど判る。あれだけ愛しあい信頼しあっていた兄弟なのに、間に流れる空気は他人のように温度がない。エドワードの非人間ぶりに皆心が寒い。
 誰もがアルフォンスの味方だったが、今のエドワードは心の憂いがなく飄々とし外見的には酷く魅力的で、当人のみを見れば何の問題もなさそうに見えるので、このままでもよいのではないかと考える空気も一部であった。
 事実、心を取り戻せばエドワードは兵器としての自分の現在と向き合わなければならない。わざわざエドワードを苦しめる事はないのではないかと心優しい大人達は思った。
 だがアルフォンスは不屈の人だった。エドワードを諦める気持ちは寸部もなかった。兄を切望する気持ちは自分の身体を取り戻したかった時以上だった。
 頑固な精神は年を追うごとに強固になり、らしからぬ老成を見せ、外見は兄よりずっと大人びた。
 兄の不在がアルフォンスを自立させたのは皮肉な事だった。