第五章
ロイはエドワードから手を離す。何も反論できなかった。
「だけどボクはそんな事をして欲しくなかった!」
アルフォンスの叫びにエドワードは「ふうん」と鼻先で流す。
「オマエはそう言うが『オレ』はアルに身体を与えてやらなければならなかったんだ」
「ならなかったって、そんな義務みたいに言わないでよ」
「義務だよ」
「え?」
「『エドワード』が弟の身体を元に戻すのは義務だったんだ。自分の我侭とミスから身体を失った可哀想な弟に『オレ』は償わなければならなかった。でないと弟から離れられないから」
「償う? ボクから離れる? どういう事?」
エドワードの言葉にショックを受けているアルフォンス。
自分の身体が人の命を犠牲にして出来ていると知ってショックなのか、兄の態度と言葉がショックなのか、もうよく判らない。人の身体に戻れて嬉しいが突然すぎて実感が湧かず、全てにおいて混乱していた。
「軍が第五研究所で賢者の石を人工的に作っていただろ。……大佐も薄々は知っているよな。加担してなかったとはいえ、アンタもイシュヴァールにいたんだ。赤い石を見た事がある筈だ。ソレが何か判らないほど愚かじゃないよな。それとも実際に使用したのか? ……製造方法は判らなくても、それがどんなものか想像はついたよな? アンタも優秀な錬金術師だ。……軍はどうしてその製造法を思い付いたと思う?」
「さあ? ……判らない」
ロイは頷く事もできずに応える。
「簡単だ。本物を模倣したんだ」
「本物を? それ、どういう事?」と、アル。
「何もない所から研究を始めるのは難しい。大抵の錬金術は何かの基礎を学び、そこから研究を発展させていく。無から基礎を見つけだすのは困難だ。天才と言われるオレだって、大量の知識を本から学んできた。完全なオリジナルっていうものは本当に少ないんだ」
「だから?」
「軍も賢者の石の研究をしているうちに、太古の資料から賢者の石の製造法を学んだんだ。完璧な資料はなくても、ヒントさえあれば発展はできる。……四百年以上前、東方にクセルクセスという国家があった。今のアメストリス以上に大きな国だったのかもしれない。だが滅んだ。……賢者の石を作ろうとして。……いや、作れたのか? 今ある賢者の石の伝説はそこから来ている」
「えええっ? そんなの聞いた事がないよ」
「当然だ。そんな錬成法が表に出せるものか。事故だったのか故意だったのか、それは判らない。だが四百年前確かにそれはおこった。だが賢者の石を作った者はその錬成を成功例として発表できなかった。賢者の石が作れたとしても、状況とリバウンドから精神状態がおかしくなっただろうし、危険すぎて錬成方法も残せない。真似されては困るからだ」
「……憶測じゃないのかそれは?……」
「賢者の石を作ったヤツは……きっと自責の念に耐えられなかったんだ。もしくは悪魔と排斥されるのが恐かったのか。どちらにせよ賢者の石を作ったはいいが、表には出さなかった。そして隠した。だが……錬金術師は研究者だ。どんな悪魔の所業とて、研究法を残さないでいられるわけがない。それが研究者の業だ。残してはならないと知りつつ誘惑からは逃れられない。……歴史書、宗教、詩、色々な比喩を用いて禁断の錬金術書は書かれ、誰にも判らないようにあちこちに流れていった。四百年もたってしまえば一般の人間には解読できない。……そしてそれを軍が見つけた」
「そして軍は賢者の石の製造を始めた…という訳か」
エドワードに聞いてロイはやっと判った。秘密が多すぎて判らなかった事が、少しづつ見えてきた。
「そして鋼のもその本物の研究書を見つけたんだな」
ロイは確信を持って聞く。
「あ、もしかしてこの間行ったアンコールの町の古い歴史書と宗教史? 兄さん熱心に読んでたけど」
アルフォンスの言葉にエドワードは頷く。
「ああそうだ。解読して本物の賢者の石の製造法が判った。そして……絶望した」
「絶望?……どうして?」
「どうしてだと? そんな判りきった事を。オレ達は賢者の石を探していたが、それは誰も犠牲にせず人の身体に戻りたいからだ。オマエが誰かの命を犠牲にできる訳がない。そんな事を許せるのなら一年前マルコーの資料を手に入れた時に、軍の作れなかった賢者の石を成功させている。……理性と常識がそれを許さないから、その可能性を捨てたんだ。本物が何処かにあると信じたから、作れると判っている賢者の石を諦めた」
「兄さん……」
「だがまさか本物まで人の命を代償にしたものだとは思わなかった。なら『作れる』賢者の石を諦めたのは何の為だ? 『オレ』は調べた結果に絶望して……どうしていいか判らずにいた。弟を人でないモノにした罪。母親の命を弄んだ罪。愛してはいけない人を愛した禁忌の罪。色々な過ちが『オレ』を縛り苦しめてきた。『オレ』はずっと苦しかった。言ってしまいたかった。助けてくれって」
「兄さん。そんなに……苦しんでたの?」
アルフォンスは兄の告白に動揺する。
「苦しまない筈がないだろ。弟を人でないモノにした罪ははかり知れない。そしてそんな弟を愛した事が辛くてたまらなかった。現実の重さと知ったばかりの絶望が合わさり、『オレ』は理性を崩した。一人では耐えていけなくなった。弟のオマエに助けて欲しかったんだ」
「でも……ボクは……」
「ああそうだ。アルは『オレ』を拒絶し、そして『オレ』はもうアルの側にはいられない、いたくないと別離を決意した。だが鎧姿の弟を独りにはできない。アルフォンスから離れるには、どうしてもアルを元の姿に戻してやらないといけない。『オレ』は賢者の石を作る事を決心した。だが罪のない人を殺す事はできない。賢者の石の材料にするなら、軍がやっていたように死刑囚か、もしくは殺しても誰も咎めない人間達が必要だった」
「だから……戦場に行く事を承諾したの?」
「そうだ。もし……軍が人間兵器として自分を戦場に送ったら、そうしたら殺していい、殺さなければならない人間を材料にしようと決めていたんだ」
「兄さん、なんて事を……」
アルフォンスの全身が震える。
「『オレ』は人を初めて殺した時、賢者の石を作る事を一度諦めかけた。恐かった。人の命を犠牲にして弟の身体に戻していいのかと、震えながら何度も悩んだ。……だが戦場では当然のように人が殺されていく。銃で心臓を打ち抜くのは当然で、錬金術で地雷を動かし人を爆死させるのは良くて、錬金術で敵を生き埋めにするのは誉められて、なのにどうして錬金術で敵の命を石に変換させてはいけないんだ? ただ虫けらのように殺すのは賞賛されて、何故錬金術の道具にするのは間違っているんだ? 誰がそんな事を決めたんだ? 軍は捕虜を毒薬の実験体にしていたり、合成獣と融合したり、表には出せない実験を色々行っている。それは非道じゃないのか? 何故オレは殺すべき人間を使って賢者の石を作ってはならないんだ? ……オレは毎日そうして死を見続けるうちに、自己満足を捨てたんだ」
「自己満足……って何?」
「綺麗事を考える常識ってやつさ。人殺しに内容は関係ない。人を石に変えようと変えまいと、一度汚した手が綺麗になるわけじゃない。錬金術師を使わないからって、敵を助けてやれるわけじゃない。殺さなければこっちが殺されるんだ。軍人は命令に背くことはできない。……調べて判ったんだが、賢者の石を作るには大量の命が必要なんだ。数千以上の命が。そうして優秀な錬金術師が。あの門を見て帰ってこられるような錬金術師が」
「あの……門……」
「そうだ。……軍がどうして賢者の石を完成させられなかったと思う? 材料不足と術者の力不足が原因だ」
「兄さん。もう止めて……」
アルフォンスが聞きたくないと耳を塞ぐ。
だがエドワードは弟の態度など気にしない。
「オレは敵を材料にして賢者の石の作成を考えた。そんな時、エアルゴ軍が大集結しているという情報が入った。オレは……将軍に大言を吐いた。オレだったら一人で敵を一掃できると。早く帰りたいから、さっさと殺しにいかせてくれと頼んだ。何日も人と銃を酷使して無駄な時間と人員をさくなんて馬鹿らしいと、天才らしく嘲笑った。ハクロ将軍は生意気なオレに怒って……でも最後には承諾した。失敗して当然、成功したら味方の損害なしに敵の大部隊を一掃できる。最悪責任をオレに被せてしまえば困らないから、その提案を呑んだ。そうしてオレは一万の命を石に変えた」
アルフォンスはボロボロと涙を零し、兄に縋った。
「兄さん……無茶をして。そんな事しないで欲しかった。ボクは兄さんといられれば鎧姿でも良かったんだ」
「だが『オレ』の気持ちは無視した」
エドワードは伸ばされた弟の手を払った。
「それは……」
エドワードの視線はアルフォンスの涙を汚い物でも見るかのように蔑んでいた。
「『オレ』はもう耐えられなかった。『エドワード』はアルフォンスを愛し過ぎた。越えてはいけない一線を越えて愛し、心は踏みつぶされてボロボロだ。現実が辛すぎて内面は疲弊してすり減りスカスカだった。自分てものがよく判らなくなり支え切れなくて、全てに決着をつけて逃げる事を選んだ。アルフォンスが元に戻れば憂いの一つは消える。エドワードはアルフォンスの側にいなくてもよくなる。『オレ』は早く弟を人に戻したかった」
撥ね除けられたのは手だけではない。エドワードは視線でもアルフォンスを弾いていた。邪魔だと言わんばかりに。
アルフォンスはその無機物を見るような視線に耐え切れず、エドワードにそれ以上近付く事もできない。
「ボクの……せいなの?」
罪悪感にアルフォンスは打ちのめされる。
「いいや。どっちもどっちだ。弟を禁忌の想いで愛した『オレ』と兄の気持ちを残酷に踏み躙ったオマエ。……だが結果は上々だ。『オレ』は結論を一人で出して賢者の石を作り、オマエを人に戻した。これでオレはもう弟に煩わされずに済む。ようやっとオレはオマエから開放されたんだ。オマエももう自由だ。勉強でも恋でも好きな事をすればいい」
「ボクが煩わしかったの? そんなにボクが疎ましい? だからそんなに冷たい目で見るの?」
「そうだ。今のオレはオマエの事なんかどうだっていい。……つーか、側にいられると鬱陶しい。邪魔だ。どっか行って欲しいんだよ。兄弟ごっこはもう沢山だ」
これ以上ない明確な拒絶にアルフォンスは固まる。ショックが大きすぎて言葉が出ない。
自分の身体が何でできたのか知った事と、エドワードの拒絶で、アルフォンスの心は引き裂かれた。
心臓の音が早い。
(……なにコレ?)
(兄さん、兄さん。ボクの兄さん。もうボクを愛してないの? それが本心なの? ボクが兄さんを拒絶したから? だから兄さんはボクが嫌いになっちゃったの?)
兄の目はもうアルフォンスを見ない。愛は消滅していた。瞳にそう描かれていた。
二度とあの優しい兄が戻らないと知り、アルフォンスは絶望した。
健康でしがらみの消えたエドワード。堂々と自信に満ちて何の憂いもない、アルフォンスの望んだ姿がそこにはあったが、同時にそんなエドワードは見たくなかったと、後悔で真っ暗になる。
こんな兄さんは……兄さんじゃない。
人に戻れた喜びはそこにはなかった。
|