命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第四章



#10



 自分のテントに帰ってきたエドワードは、人目がなくなった途端にドサッと音を立てて座り込んだ。そのまま倒れこんで天井を見る。眼を閉じた。
 途端に突き上げて来る激情。衝撃が内側に満ちて溢れそうだった。
 咽を押さえる。我慢できない。叫び足したいのを腕を噛んで耐える。身体の震えが止まらない。
 眼を閉じても世界は紅い。それは血の色だ。
 口の中に砂の味が残っている。
「……っくしょう!」
 悪態を吐いたが、それが自分に対するものか軍に対するものか判らなかった。身体を縮めて震えを耐える。
 呪詛と祈りが交互に脳裏をよぎったが、言葉にはならずエドワードはのた打った。
「アル……アル、助けてくれ」
 微かな声で弟を呼ぶが、勿論アルフォンスには届かない。
 口から手を離す。訳の判らない事を叫びだしそうだったが、耐える。
 恐ろしい。恐怖に震える。
 自分がこんなに弱いとは思わなかった。
 覚悟していた筈だったのに。そんなもの何の役にもたたなかった。
「……オレは……とうとう……人を殺してしまった」
 自分の言葉に打ちのめされて、エドワードは涙を堪える。自分の身体から血の臭いが漂うようで、必死に気のせいだと言い聞かせた。
 本日(日付けが変わったので本当は昨日だが)の作戦で予想通りの銃撃戦となり、エドワードは初めて人を殺した。生き残った喜びはなかった。
 作戦開始PM00:00。
 助けに行った味方は孤立していた。双眼鏡で確認した。小隊の半数がいなかった。多分死んだか重傷をおって動けないか。無事でいる者の方が少なかった。それでも行かねばならなかった。
 前方からは弾の雨が降り、助けに行った側が死体になりそうな状況だった。エドワードの部下は十一人。敵の数に対してはあまりに貧弱な戦力だった。銃に慣れないエドワードも応戦したが、なかなか味方まで辿り着けない。ガンガンと途絶える事のない銃声。怒号、悲鳴、爆発音。ジリジリと距離を縮めながら前進したが、ダダダダと岩を弾く銃弾がすぐ側を通れば、恐怖は頂点に達した。
 身体が竦んで動けなかった。
 それでもエドワードの階級は一番上で、部下を引率して行かねばならないのだ。
 ほふく前進で何とか進んでいたが、激しい攻撃の前にエドワードは絶望的になる。例え味方の元に辿り着いても、怪我をしてろくに動けない仲間を助けながら後退して脱出する事が不可能に思えてきた。
 それにしても敵の数が多い。激戦区というのは想像していたが、こちらに対して敵の数が多すぎる。基地が近いので守りが堅い。
 岩場が多いので弾に当たらずに済んでいるが、地雷が所々に埋まっているので移動にも事欠く始末である。
 語彙の限りの悪態を心の中に浮かべて、エドワードはどうしようかと焦った。岩場は硬く大きな楯を錬成すれば弾は当たらないだろうが、それだけでは前に進めない。
「どうしますかっ! エドワード少佐!」
 同行した部下に叫ぶように聞かれて、エドワードは思わず「命令あるまでその場で待機!」と答えてしまった。これ以上進んでも敵の標的になるだけだ。敵は高台の岩場にいて、こちらをねらい撃ちしている。助けに行った側が全滅させられそうで、迂闊には動けない。
 これか戦場か……。エドワードは恐怖で震えながら冷静になろうと頭の中をクリアにする。
 エドワードの命令には部下の命が掛かっている。
 出会ったばかりの他人だが、死なせるわけにはいかなかった。
「エルリック少佐、待機とは……」
 前進を止めた事に文句を言おうと振り返ったボナード中尉は、エドワードの顔を見て視線を敵に戻した。エドワード同様顔が強ばる。
「……っ!」
 八十メートル先。
 エドワードはこちらを向いた対戦車用榴弾砲の銃口に焦った。あの強力な破壊力は岩さえ粉砕する。射程距離は八十メートル。エドワード達は射程距離に入ってしまったのだ。岩場を吹き飛ばされれば敵から丸裸になる。そして下手に横に避けようものなら、地雷地帯に踏みこんでドカンだ。エドワード達の前進が困難なのは、方々に埋まった地雷を避けての移動だからだ。
 榴弾砲の口から弾が発射された。
「うわっ!」
 エドワードは転がって、被弾した衝撃に備える。すぐ側の岩場が砕けて衝撃と細かい石がエドワードに降ってきたが、直撃は免れた。縮こまって破片から身を守る。
 被害は少なかったが、近くで爆発したので耳がおかしい。うるさい筈の銃声がよく聞こえない。
 咄嗟に転がったが地雷は踏まなかったようだ。エドワードは周りの地雷原にぞっとした。
 この辺りは地雷が点々としている。入り込んでしまった地雷地帯。迂闊には動けない。だが榴弾砲の銃口はこちらを向いている。すぐに二弾、三弾がくるだろう。早くここから離れなければ。だが周りは地雷原。簡単には動けない。下手に動いて地雷を踏めばどうなるか。
 エドワードの脳裏に、地雷を踏んで手足の吹き飛んだ兵士が病院に運ばれてきた時の惨状が浮かぶ。粉砕された肉と骨。抉り取られた太股。止まらない痙攣。痛いよ、痛いよ、助けて、母さん、神様、助けて助けて……叫ぶ声。イヤだ、死にたくない。
 考えている暇は無かった。
 恐怖がエドワードからためらいを奪った。
「……っだらあっ!」
 エドワードは考える暇もなく、両手を合わせて地面に手を付いた。バチバチと錬成の光が前方を雷のように走り、地面を盛り上げてそのまま進んで行く。土が津波のように高く上がり前進する。
「うわっ!」
「何だ!」
 突然背後から走る光に、取り残された味方からも驚きの声が挙がる。
 エドワードは初めてイズミ師匠に出会った頃の事を思い出していた。こんな余裕のない場面で、回想はやけに鮮明だった。
 故郷の川が雨で増水して氾濫しそうになったのを、通りかかった師匠が地面を大きく盛り上げて土手を作り防いだ。大質量の錬成。並の錬金術師ではできない。
 エドワードのやったのはその応用だ。師匠は土を抉って上に盛り上げたが、エドワードははるか先の土を掘りながら盛り上げて、津波のように地面を前方に押しやったのだ。つまりは敵のすぐ側に。
 土だけなら被害も少なかっただろうが、それには複数の地雷が含まれていた。表に出た地雷は土の津波に揉まれて岩にぶつかり爆発し、後はその衝撃で爆発の連鎖反応が起きた。爆破ごと身体に土の波を被った敵は予想外の攻撃に逃げる事もできず、悲鳴を挙げながら飲み込まれていった。悲鳴と爆発音。敵は一瞬の惨劇に対応できず、味方は何が起こったのか状況を判断できずに動きが止まった。
「今のは何だ?」
「見ろ、敵が!」
 状況の異常さに、味方が現状を把握しようと目をこらす。
 爆風に眼を閉じたエドワードは砲撃が止んだのに気が付いた。ソロソロと顔を挙げれば土埃と火薬が俟って視界が悪い。火薬と土の臭い。目と口元を押さえる。
 それでもジッと眼をこらして見ると、敵がいた筈の小高い丘が低くなっている。
 エドワードは考えるより早く叫んだ。
「今だ! 行けっ。前進!」
 仲間の兵士が敵が沈黙したと判断して走って行く。エドワードも地雷のないのを確かめて走り出す。十数秒の移動の時間がやたら長く感じた。
「大丈夫か? 助けにきた!」
 味方の元に辿り着くと動けない者を担架に乗せて運び出してゆく。動ける人間はなんとか味方の肩を借りて、後退する。エドワードは銃を構え、味方が逃走する時間を稼ごうと備えたが、不思議と前方からの銃撃はなかった。試しに適当にマシンガンを連発したが、応戦してこない。気は抜かないが、不思議だった。
 何故だ? 何故反撃してこない。敵は何をやっているんだ? 相当の数がいた筈だ。
 アメストリス軍は無反応の敵を訝しんで、どうしようかとエドワードの顔を見る。
 頷いてエドワードは前に走った。エドワードが岩場を削ってしまったので、エドワード達の姿は敵から丸見えだ。なのに攻撃がない。確かめるしかない。
 丘を駆け上がって、エドワードの足が止まった。
「……っ!」
 敵はいた。だが立ち上がっている人間はいなかった。人間が半分生き埋めにされていた。
「何だ、これ……」
 エドワードに続いた部下が、眼前に広がる惨状に驚愕する。
 視界の中の敵は倒れており、中には半分身体が土に埋まっている者もいた。一目で全員重体だと判った。生きていたならの話だが。
 エドワードは自分の起こした惨劇に棒立ちになる。
 生者は踏みつぶされたヒキガエルのように呻き、意識のハッキリした者は座り込んで吹き飛んだ自分の足を抱えて肺から悲鳴を絞り出していた。すぐ側を見ると敵兵が横たわっている。ピクリとも動かない所をみると気絶しているのかと思ったが、顔が見えない。肩より上が埋まってしまったのかと思ったが、よく見ると首から上がないのだ。恐らく地雷の爆発を顔面で受けたのだろう。大地が赤黒くまだらに染まっていた。