第三章
エドワードはボナード中尉からB21区域の地図を貰い説明を受けた。
小高い丘の上にあるアポス基地は裏は崖で、背後からの潜入は事実上不可能。
正面は岩と砂の台地だが、身を隠しやすい起伏にとんだ土地には地雷が埋まり、近付くのは困難だ。
「この赤い印は?」
エドワードは地図上に記されたバツを指して聞く。
「それは我が軍が埋めた地雷です、青で記されているのが敵が埋めた地雷の一部ですが、全てではありません」
ボナード中尉が答える。
「まだ撤去されていないのか?」
「ええ恐らく。エアルゴ軍が埋めた地雷もあって、潜入し易い道など要所に罠が仕掛けてあります」
エドワードは舌打ちした。
「自軍と敵のW地雷の罠か。トラップのオンパレードだな。しかしこれでは敵も安易に動けないだろう。こっちが埋めた地雷の場所は把握してないんだろ?」
「はい。ですからエアルゴ軍は地雷のない道だけを使用していますし、更にエアルゴ軍は地雷を埋めてこちらからの侵入を防いでいます」
「まるでいたちごっこだな。互いに地雷を埋めて身動きとれないなんて、無駄な事を」
「そんな事を言われますが、敵の仕掛けた爆弾の為に、我が軍は容易に基地には近付けません。ですからあちらからもこちらに来れないように罠を張る必要がありました」
「結果どちらも身動きとれずに硬直状態。我が軍は捕られた基地を捕り返せずに、指を銜えてジリジリしているという訳だ」
「ですから特殊部隊の人間が潜入して、中から基地を制圧しようとしています」
「地雷覚悟でか?」
「長く戦闘を続けていると情報は入ってきます。敵の爆弾の大体の位置は掴めています」
「つまりはこっちの情報もあっちに流れているって事か。厄介だな」
ボナード中尉が小馬鹿にしたような眼になる。エドワードを子供と侮っているのだ。
「エルリック少佐。随分悲観的になっておいでですが、緊張なさらなくても今回のエルリック少佐の任務は同胞の救出です。B21ポイントに残された兵士を救い、基地に連れ帰る事だけです」
言外にそんな事が恐いのかと言っている。
「本当にそれだけか? 戦わなくていいのか?」
エドワードはわざとその挑発に乗ってみた。
「それは勿論です」
「将軍はそうはお考えではないようだが」
探るような眼を向ける。
「将軍はエルリック少佐のお力を信じておいでなのです」
「信じるか。……いい言葉だな」
見え透いた嘘に皮肉を言うのもバカらしくなってくる。
エドワードの呆れたような表情に怯えも緊張も見えないので、ボナード中尉はアテが外れたように訝しむ。
「エルリック少佐は何を案じておられるのですか?」
「案じるも何も……敵のど真ん中に入って行って、仲間をちょっと連れ出したいんですが……で通してくれるほど現実が甘くはない事を知っているだけさ。戦場だから心配しているんじゃない。何所までやってもいいか考えているんだ」
「どこまで、とは?」
ボナードの探るような瞳にエドワードは面倒臭そうに説明した。
「例えば……こちらが楽に動く為には多数のトラップの存在が障害になる。どちらの軍も撤去できなかったようだが、オレなら可能だ」
「エルリック少佐なら?」
オマエにそんな事ができるのかという眼差しにエドワードはわざと退屈そうにペンをクルクルと弄んだ。
「力のある錬金術師にならそんなに難しい話じゃない。地雷なんて土地ごとひっくり返して爆発させてしまえばいいんだからな。簡単だろ?」
笑顔のエドワードにボナードが返答に困る。
「簡単……なのですか?」
「ああ。……だがその後が問題だ」
「問題とは?」
エドワードは地図上に書かれた地雷の印を両手をパンと合わせて消し去った。
綺麗になった地図にボナードは何をするんだという顔になる。
「何を……」
「ほら、こうなったらどうなる?」
エドワードは試すようにボナードを見た。
「敵味方の仕掛けた爆弾を全て爆発させたらどうなる?」
「それは……」
「基地は裸とは言わないが、限り無く薄着になった。だがそれは敵からも同じだ。基地を出て自由に動き回れるし、こっちの罠がないから再びトラップは仕掛け放題。二股かけた男みたいに戦況は泥沼になる事は間違いないな」
「エルリック少佐、不適切な例えです」
「ああ、すまない。口がすべった。……そんな訳で将軍の許可が下りているとはいえ、オレが力任せに行動した事で、後々問題にされるんじゃないか……とか心配しているんだ。トラップがなくなればこっちが自由に動ける分、敵も自由なる。B21ポイントの戦闘はさらに激化する。戦闘の規模が拡大して味方の被害が甚大になり、後からオマエのせいだと聴聞委員会にかけられたのでは割に合わないからな。……という訳でボナード中尉はどこまでやっていいと思う?」
「それは……わたくしには判りません」
エドワードは笑みを消して高圧的に言う。
「判らないでは困る。中尉の方がずっと戦闘経験が長いんだ。言葉尻を捕らえるわけではないが、何をしてもよいと言われ実行して、後に軍事裁判にでも掛けられたら困る。将軍は詳しい事は中尉に聞けとおっしゃった。中尉はオレに正確な情報を提示しなければならない」
「……はっ。ですが階級はエルリック少佐の方が上ですので、わたくしごときの意見を鵜呑みにされるのはどうかと思いますが」
苦し紛れにボナードが言う。
「ほう? ……ごとき、と自ら言う人間を将軍はオレの下に配備し、参考にせよとおっしゃったとでも言うのか? キミは将軍の命令をそんな風に捉えていたのか?」
「め、滅相もありません」
「ならば信用に足るだけの意見と情報を全て出せ。オレはまだ死にたくないから敵に出会ったらあらん限りの力で抵抗するぞ。それでやり過ぎたと非難されたのでは割に合わないからな。将軍と中尉がこう言ったと一字一句違う事なく報告書に記載する。記憶力には自信がある。大総統もオレの報告を信じるだろう」
「了解しました」
子供だと侮り観察するつもりで接していたのに、いつのまにか立場が逆転している事に気がつきボナードは焦ったが、エドワードの瞳は苛烈で反論の声をいつのまにか失っていた。戦闘を舐めているとしか思えない頭でっかちの子供に気押されるはずもないのだが、どうしてかエドワードの瞳を直視できなかった。
ボナードは本能的に察知していたのだ。エドワードの瞳は捕食者の眼だ。目の前の人間を自分の獲物だと認識する肉食獣。何故そんな眼で見られるのか判らなかったが、聞く事はできなかった。エドワードが恐かったのだ。
ボナードは低頭しながら、この幼い錬金術師が得体のしれないバケモノに見えて仕方がなかった。
エドワードはボナードに作戦の説明を詳しく受けながら平気な顔をしていたが、実は内心に吹き荒れる風は強かった。怖じけ付いた心をひたすら叱咤し、尻込みする気持ちを弟の顔を思い出す事で辛うじて耐えた。
軍の犬になると決めた時からこうなる事は判っていた。いずれ戦争に行って人殺しになると判っていたではないか。それがいざそうなってみると手足が竦む自分がいる。
アルフォンスの為だ。自分はその為なら地獄にだって落ちる覚悟があるのだろう? ……と自問自答しても心は正直で未だ怯え続けている。
明日の作戦でエドワードは何人、何十人かの命を奪う。だがそれは始まりでしかない。エドワードが『使える』と判れば軍は本格的にエドワードを兵器として起用しようとするだろう。エドワードの狙いと恐れはそれにある。
エドワードが殺す人間の数は何十では済まない。これから何百何千と恨みもない命を葬るのだ。
それこそがエドワードの望みでもある。軍の狙いとエドワードの謀は一致している。
自分は悪魔になるのだ。
神の光の届かない自分が望みを叶えたいのなら、悪魔に堕ちるしかない。
アルフォンス……。
エドワードは記憶にあるアルフォンスの顔に語りかける。アルフォンスは今十五歳なのに、記憶にある顔は十歳でしかない。丸い顔には好奇心に満ちた笑顔がある。エドワードが奪った無垢な笑みだ。
……もうすぐ。もうすぐだ。
エドワードは胸の前で拳を握る。頭を垂れたその姿は知らない者が見たら祈りの姿に見えただろう。
だがエドワードはもう祈らない。エドワードは自分以外の誰にももう縋らない。自分の力だけで弟を救うのだ。それが可哀想な弟からたった一人の『兄』さえ奪ったエドワードの贖罪だ。
弟を、たった一人の家族を愛し穢した罪は己の命で支払う。
賢者の石。
世の法則すら曲げて術者の望みを叶える奇蹟の石。
どんな願いも叶う。エドワードの望みも。
それは血の海から生まれるのだ。
エドワードは方法を第五研究所と古い書物から知った。軍が作った人口の賢者の石は、本物の製造法を真似たモノだった。伝説にある本物の賢者の石も数多の人の命を犠牲にして作られたのだと、エドワードは四百年前の宗教史から知ったのだ。つまり賢者の石を求めるなら、命の犠牲は必然だ。
事実を知り、エドワードは絶望した。
駄目だ、賢者の石は使えない。
一旦は可能性を無視した。あの弟が人の命を犠牲にして生きられる訳はないのだから。エドワードとてそんな悪魔になるのはイヤだった。
だが結局はその方法しか残されていないと分かった時、エドワードの心のタガが弛んだ。張り詰めたモノがプッツリと切れたのだ。
そんな事はできないと思ったのに……。
他の道はないと知った時に、エドワードは弱くなった心から弟に告白してしまった。懺悔のような告白だった。決別を覚悟していたのかもしれない。
それをアルフォンスは拒絶した。
そうしてエドワードは賢者の石を造る事に決めたのだ。
他の方法がないのなら、自分が悪魔になろう。そう決めた。
もう側にはいられない。だが可哀想な弟の側から離れる事もできない。アルフォンスと道を分かつには、アルフォンスが独り立ちできる身体が必要なのだ。
どうしても賢者の石が必要だった。
嗚呼。自分はその作り方を知っている。
賢者の石は、何千何万という命が尽きる瞬間の絶望、怒り、悲哀、苦痛が折り重なって混ざり合い、一つに凝縮されて堅く硬く固く、赤くなり、力に変換されて生まれる、いわば命の結晶。
造り出す人間はまさに悪魔だ。
だが心を捨てれば悪魔になれる。簡単だ。材料は目の前に豊富にある。戦争という人殺しの免罪符まで用意されている。
エドワードは戦場に呼ばれる事を待っていた。
噛み締めすぎたエドワードの歯が、ギリリと鳴った。
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