命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第二章



#06



「鋼のには無理だ」
 ロイは繰り返した。エドワードは強い人間だが戦場において大事なのは強さ弱さではなく、他人を殺してでも生き延びるという意志と無神経さだった。
「無理でもやるさ」
「躊躇えば殺される。……銃弾の一発でも当たれば人は動けなくなるんだ」
「判っている」
「判っていない。鋼のは何も判っていない」
 あの地獄を。狩らなければ狩られるのだ。どちらも人なのに。
「……判ってるさ」
「何を判っていると言うんだ?」
「自分が何も判っていないことを……判っている」
 エドワードは昏い目をしてロイから視線を外した。まるでその瞳の中にあるモノを知られたくないとばかりに。
「エドワード?」
「……オレはアンタが危惧しているようにみっともなく足掻くだろう。人を殺せなくて泣きながら逃げ出すかもしれない。だけどそうしない事も知っている。……何故ならコレは……待っていた事でもあるんだから」
「……待っていた? 何を?」
「戦争に駆り出される事。……人を殺す機会を」
「どういう事だ?」
 エドワードの言葉にギョッとしてロイは鋭い視線を向けたが、エドワードの心は此処にはなかった。

 何を考えている?
 小さな身体の内にうずまくものは何だ?

 エドワードはロイに真剣な瞳を向けた。
「アンタに一つ頼みがある」
「何だ?」
「アルの事だ」
「ああ。……弟にはこの事を知らせるなと言うんだろ」
「それもある」
「…も、とは?」
「もし……アルフォンスの人体錬成が成功したら……『肉体がなかった』という事実を隠蔽して欲しい。折角アルフォンスの身体が元に戻っても、軍に拘束されたんじゃ意味がないからな」
「アルフォンスの身体が元に戻るアテがあるのか? 賢者の石が見付かったというのか?」
「いいや、見付かっていない。けど……」
「けど?」
「賢者の石以外の……別のアプローチを考えている」
「別? ……どんな? そんなものがあるのか?」
「今はまだ構想の段階なんで詳しくは言えないが、可能性はある」
「本当か?」
 信じられなかった。人体錬成は夢のような奇跡だ。不可能だからこそ、同じく奇跡と呼ばれる賢者の石を探し求め続けているのではないか。
 だがエドワードに虚勢も虚偽も見られなかった。あるのは諦めと押さえても沸き上がるような激情の色。
 ロイは初めて見るエドワードの複雑な表情に不安を覚えた。エドワードは何かしようとしている。
 エドワードは強く拳を握る。
「確実じゃないが、可能性はゼロじゃない。……今回の戦争から無事に戻れたら研究を進める。……もう旅には出ない」
「賢者の石を諦めると言うのか?」
「……諦めるんじゃなくて、保留ってとこ。賢者の石以外の可能性にもかけてみたい」
「方法は聞いても教えてはくれないんだろうな」
「まだ……ね」
「危険な方法じゃないだろうな?」
「戦争に行く以上に危険な事ってあるのか?」
「……ない」
「帰ってきたらアルフォンスを人に戻す。協力宜しく」
「……生きて帰ってこい。これは命令だ」
「了解。……帰ってくるさ。アルにはオレしかいないんだ」
「キミは弟の為ならどんな手段を使っても帰って来るんだろうな」
「ああ、それがオレの生き甲斐だからな」
「エドワード。……弟には何て言って行くつもりだ」
「アルは師匠の所に残してある。何も言わずにこのまま行くさ」
「それではアルフォンスがキミを追い掛けるかもしれんぞ?」
「だからもしアルが本当の事を知ったら……アイツを止めて欲しい。牢に放り込んでもいいから、足留めしてくれ。いざとなったら師匠に頼んでくれ。軍の言う事なんか聞かない人だけど、オレからの頼みだと言えばアルを止めてくれるだろう」
「できるのか? キミの師匠というくらいだから相当な錬金術師なんだろうな」
「錬金術も体術もアンタ以上だよ」
「ほう、それは凄い」
「凄すぎて頭が上がらない。師匠には言わないで行く。……でも帰ってきたら殺されると思う……」
 エドワードの青い顔色に本気で恐れているのを知る。
「鋼のがそんなに怯えるなんて、どんな人間だ?」
「一言で言うなら……『人間凶器』かな」
「ははあ。それは凄いな。どんな凶暴な男だ」
「女だよ」
「女?」
 ロイがギョッとなる。
「あーあ……、戦争で生き延びても師匠に殺されたんじゃあな。不肖の弟子が今度は人殺しの道具にまで成り下がるんだ。……今度こそ本気で殺されるかも」
 エドワードは笑う。無理をしているのが判る笑みだった。
「鋼の」
「じゃあまあ……。アルのこと頼むわ。さっさと行ってさっさと帰って来るから」
「弟の為に無事帰って来い」
「ああ。……判っている」
 エドワードは命令書を片手に出て行った。
 ロイ・マスタングはその背を不安と共に見送った。
 エドワードが戦争に行く。人を殺した事の無い錬金術師が人殺しの道具として、命を掛けて心を潰しに行くのだ。帰ってきた時にエドワードはもう元のエドワードではないだろう。人を殺すとはそういう事だ。
 アルフォンスに何と言おうか。本当の事は決して言えない。アルフォンスは民間人だ。戦場には連れていけないし、それに身体の秘密が露見する恐れもある。
 ロイはホークアイと顔を見合わせて溜息を吐く。
『鋼の錬金術師』
 上層部はその力の真価を知りたがっている。同行するハクロ将軍はエドワードを最前線に立たせるだろう。
 エドワードは戦場においてはただの道具だ。その非人道ぶりをエドワードは耐えられるだろうか?
 かつてのキンブリーのように狂ってはしまわないだろうか?
「鋼のが……無事に帰ってくればいいが」
「信じるしかありませんね」
 ホークアイの瞳はロイと同じく陰っている。
「信じる……か。信じていないのにそれは難しいな」
「私達にはどうしようもできませんから……」
「ああ。ならせめて弟だけでも守ってやろう」
「……それがよろしいかと」
 ロイは背後を振り返って外を見た。よく晴れている。
 中央は寒いが南は暖かいだろう。エドワードの身体は機械鎧を装着しているので暖かい方が楽だ。
 ロイは溜まった書類の山にうんざりして、エドワードの事を思考から外す。たった一人の子供の為にとれる時間はそうない。ロイは高みに駆け上がる。エドワードはその為の駒でなければならない。
 生きていれば帰って来る。例え心を壊し打ちのめされようとも打たれ強い子供の事だ。きっとその傷さえ乗り越えるだろう。一度絶望を味わった子供はそう簡単には壊れない。一人なら折れる心も、弟という支えがある限りギリギリ耐えてみせるだろう。
 ロイは死んだ眼をしたエドワードに焔がついた瞬間を知っている。エドワードは強い。どんなに苦しくても狂いはしない。狂えるだけの弱さを持たない。
 エドワードの本質は鋼なのだから。
 ロイは知らなかった。エドワードが何故賢者の石探索を保留したのか。あれほど人を殺すという行為に抵抗を見せていた頑な子供が、何故ああもあっさり命令を受諾したのか。何故エドワードの中に覚悟が生まれていたのか。
 ロイは戦場行きという大事の前に、エドワードの真意を見逃した事にまだ気付いていなかった。
 ロイは戦争に行って人を殺してもエドワードの本質は変わる事はないと信じていた。弟を想い、命も心も犠牲にできるのだから、弟がいれば必ず無事に帰ってくるのだと信じていた。エドワードの本質、その強く純粋で優しい心が変わる事は無いと、心の何処かで思い込んでいたのだ。エドワードは打ちのめされても、きっとその傷ごと抱えて立ち直ると信じていたのだ。
 だが。
 運命は過酷だった。転がり出した運命は岩に当たり砕けるまで、どこまでも加速する。
 エドワードは変わる。人を殺して子供ではなくなる。
 待っている弟がいればエドワードは大丈夫だろう。
 そう考えていた事がいかに甘い見極めだったのか、ロイは後から知る事になる。
 ロイはエルリック兄弟に生まれたズレと確執を知らなかった。例え知っていてもどうしようもできなかっただろうが。
 エドワードがエドワードたらしめている本質……弟への愛情と贖罪が変わる事は無いと思っていたのはどうしてなのか、大人達は後に後悔する事になる。
 南の空が紅く染まっていた。