命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第二章



#05



《国家錬金術師エドワード・エルリックに南部戦線の視察を命ずる》
 命令が出たのは年が明けた真冬の最中だった。
 セントラルに査定に訪れたエドワードは、ロイ・マスタング大佐からその命令書を受け取り、無言で命令書とロイを見比べた。少しの間沈黙が流れる。
「……何も言わないんだな、鋼の」
 ロイは自分をジッと見詰めるエドワードにかける言葉を選びながら言った。
「何を言えって? ……とうとう来るべきものが来たっていうだけじゃないか。それともここでできないとゴネれば、大佐が上に掛け合ってなんとかしてくれるとでも言うのかよ」
 皮肉に彩られた声をロイも側に控えるホークアイも咎めない。
「……鋼のは覚悟の上で国家錬金術師になった筈だ」
「判っている」
 動揺のないエドワードに大人の方が落ち着かない。
「……上層部には鋼のは十六歳だし、まだ早いと進言したのだが……」
「却下されたわけだ」
「すまないな。力不足で……」
「いいさ。アンタのせいじゃない。むしろ大佐は今までオレ達を野放しにしてくれてたわけだから、逆に感謝しなきゃいけないんだろうな」
「鋼の……?」
 エドワードのらしくない言葉にロイは驚く。
 殊勝なエドワードなどエドワードではない。
 エドワードはロイ・マスタングに礼を言った事も感謝した事も無い。そしてロイはそれを何とも思わなかった。自分がそうしたくて鎖につないだ野良犬だ。懐かない事は始めから判っていたし、期待もしていなかった。従順な愛玩犬が欲しくて手元に置いたわけではない。むしろ決して心から服従しない野生のオオカミの仔を飼っている気分だった。
 だからエドワードがロイに殊勝な言葉を吐いたのを逆に不審に感じた。
 命令書を受け取り、エドワードは諦めたように言う。
「いずれは来ると覚悟していた事だ。四年も保留期間があったんだ。……肚を括るには充分だ。くるべき時が来ただけだ」
「エドワード……。だが、キミは……」
 エドワードはロイの言葉を途中で遮る。
「ああ。まだ人を殺した事は無い。だが……殺さなければこっちが死ぬんだろ。ならそうするしかない。だってオレは今死ぬ訳にはいかないんだ」
 静かな声だったが力があった。
 ロイは何となく得心した。エドワードは今覚悟を決めた訳では無くて、ずっと心の中にその諦めと牙を隠していただけなのだ。だから戦場へ行けと命令されても動じなかった。いや、動揺を隠せるのだ。
 エドワードはらしからぬ動揺を見せる大人達を見て、いつもとは逆だな、と静かに思った。普段は自分を子供扱いする尊大な大人達が、表情を隠せないでいる。
 エドワードの心は波立っていたが嵐はなかった。
 ……寧ろ待っていた。人を殺してこいと命令されるのを。
「軍の命令書には『視察』とあるが、戦場を視察なんて聞いた事が無い。銃弾飛び交う中にのこのこと戦況を見学に行くバカが何所にいる。……要は行って戦って来いって事なんだろ。敵を殲滅して来いって直接言われた方が分かりやすくていいのに、体裁ばかりつくろいやがって」
 エドワードは吐き捨てた。
「鋼のはまだ未成年だし、表面だけでも取り繕う必要があるのだよ。南部最南端を視察に赴いた国家錬金術師が『たまたま』戦闘に巻き込まれ、『仕方なく』反撃したという名目がな」
「阿呆か。戦場に放り込んでおいてたまたまも仕方なくもないだろうに。ぶっちゃけ錬金術で敵をなぎ払って来いって言えよ」
 ロイは割合冷静なエドワードに不安を感じずにはいられない。
 まだ人を殺した事の無い子供。命令とはいえ簡単に従えるのだろうか?
 生意気だが内面はまっとうな青少年だ。どんなに割り切ろうと、人殺しを容認できまいに。
「上層部は鋼のの力に興味を示していた。最年少国家錬金術師。大総統も認めたその力が戦場においてどう奮われるのか、知りたがる連中は多い」
「そうして大佐はその連中を押さえておけなくなった」
「すまんな」
「いいさ。アンタの子飼いになって四年だ。今まで防波堤になってくれたんだ。そろそろオレも矢面に立たなきゃな」
「鋼の……本気か?」
「その覚悟がなきゃ、国家錬金術師にはならなかった。……アルフォンスの為だ。オレの意志なんて何の意味がある?」
「鋼の……。だがキミに人は殺せまい」
「殺せるよ」
「鋼の?」
 エドワード即答をロイは信じられない。
「まだ……殺した事は無いけれど」
「鋼の。……人を殺すとは生半可な事では無い。覚悟があってもそんなものは戦場では何の役にも立たない。戦争とは……目の前にある地獄だ。……人は簡単に悪魔になれてしまうんだ。キミには耐えられんよ」
「耐えられないからって、逃げられるってわけじゃないだろ。なら、前に進むしかないじゃないか。戦わなきゃオレは殺されるんだ」
「そうだが……。私が戦争で戦ったからこそ言えるが…。錬金術での人殺しは……地獄だ。鋼のには、耐えられん」
 断言されてもエドワードは怒りも反発もしなかった。当たり前のように自分に降り掛かる凶事を受け止めている。
 それは殉教者の諦めでも昇華でもなく、ただ運命という名の大河に流されて飲み込まれる小舟のようで、ロイはそんなエドワードに不審を抱いた。
 運命に立ち向かうのがエドワード・エルリックという少年だった筈だ。諦めない不屈の精神が常にエドワードの中にある。
 なのに、何故運命に抵抗せず、こうも諾々としてる?
「……耐えてみせるさ。覚悟はできている」
「確かに命令は撤回できない。……だが命令はあくまで『視察』だ。そこにどんな思惑が含まれようが命令の大筋から外れなければそれで構わない。戦場では何が起こるか判らない。危険だと判断したら自身を守る事も仕事の一つだ」
 ロイは言外に戦闘になったら逃げろと示唆した。
 命令はあくまで視察。戦場の様子を観察してレポートに纏め、上に提出すれば命令には反しない。エドワードは子供だ。銃弾飛び交う場所に恐怖して逃げ帰っても、最低限の命令をこなしていれば「憶病者」と誹られようとも、それ以上咎められることはないだろう。
 国家錬金術師は命令があればいつでも戦場に赴き、敵を排除する人間兵器として働かなければならない。だが兵器としてではなく研究者として働き、戦場には立たない非戦闘員の国家錬金術師も大勢いる。セントラルの研究所に篭り軍の為に研究をする事も、選択肢の一つなのだ。
 エドワードが望めばロイはそう上に進言するつもりだった。甘やかしているという自覚はあったが、エドワードを死なせたくは無かったので、そのくらいはしてやろうと思っていた。
 ロイでさえ戦争という名の地獄から生還した時には、心が半分麻痺して死んでいた。あそこで『人』でいたら早々に気が狂っていただろう。『兵器』に徹したから狂わずに生還できたのだ。生きて帰ってきても心は半分死んでいるようなものだった。虫けらのように殺した人間の多さに打ちのめされて、内面はボロボロだった。死んでいく同胞達。それ以上に殺した敵の数。
 敵が、兵士だけだったら耐えられたかもしれない。
 だがロイが殺した中には民間人も沢山いた。赤ん坊、年寄り、妊婦。一息に殺し苦しませない事しかできなかった。自分の指が火花を生む度に、百人単位の人間が焼け死んでいった。空気に混ざる脂肪の臭いにムカついて、食べ物が飲み込めなかった。
 何故赤ん坊まで殺さなければならないのだろう?
 何故無抵抗の市民を皆殺しにする必要があるのか。
 何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故……。
 繰り返す問いは砂漠の砂に混じって何処かへ消えた。
 ロイの肌には空気に散布した人の脂肪がこびり着いた。風呂もない戦場では肌を洗い流す事もできない。唇にもそれが張り付き、ロイは食事をとれなくなった。与えられた食事を飲み込めなくて吐き出すロイに、すぐ上の上官は言った。
「無様だな。後悔するくらなら軍人など辞めてしまえ。そのみっともない顔を部下に見せるな。人など所詮脂肪と水分の塊だ。燃焼させようが銃で殺そうが死は死だ。オマエが後悔しようがしまいが、そんなものは自己満足にしか過ぎん。イシュヴァール人は皆殺しにせよと命令されている。誰が殺そうと結果は変わらん。それにオマエがそんなていたらくでは、殺された方も成仏しきれまい。自分の所業に後悔して泣くようなガキに殺されたと知ったら、死んだ者が哀れだ。……そうは思わんか? せめて悪魔と呼ばれる事に慣れ、憎まれてやれ」
 ロイは結局その非情な上官の言葉に命を拾ったようなものだった。上官は女で中佐だった。ロイと同じく気体錬成を得意とした国家錬金術師。冷酷だが頼れる上官だった。ロイはこんな風にはなりたくないと思っていたが、内心ではその非情さが羨ましかった。
 ロイはいつしか兵器としての自分に肚を括り、そうして生還した。
 帰ってからも悪夢は続いた。人の焼ける臭いはロイに取り付いて苦しめ続けた。
 だが時間は人の心を鈍らせる。日常をこなしていくうちに、心の麻痺は段々和らいでいった。元の何も知らない弱い自分に戻ることはなかったが、絶望も虚無も抱えたまま何とか普通に振る舞う事を覚えて、生きる事は忍耐だと自分の中に諦めを作り、自身を納得させた。
 ロイはエドワードには耐えられまいと思った。経験が言うのだ。
 エドワードは歪んでいるがその精神の健全さは明確だ。バロックパールのように歪みすら希有な形となってエドワードを輝かせている。
 癪に触るくらい傲慢で純粋な子供のエドワードが、意味のない人殺しをできる筈が無い。
 戦場で
殺しに理由はいらない。命令だから、という意志とは関係ない場所からの通達で人を殺す。時には民間人も。時には母と子供を殺す。人は数であり個人ではない。