命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第一章



#04



 アルフォンスはずっと後になって、今日の事を悔やむ事になる。
 後悔に苛まれ、己のおかした過ちの代償を支払う事になる。
『あの時ああしていれば』……と何度も今日の事を考えるだろう。
 アルフォンスはまだその事を知らない。
 エドワードはさっき、たった一つの拠り所をなくしたのだ。
 信じていた弟は手酷いやり方で兄を拒絶した。エドワードの弱い心を、アルフォンスは受け入れなかった。苦しんでいるエドワードを突き放した。
「判った」とただひとこと言えば済んだ事だった。
 エドワードは自分の気持ちがあってはならない事だと知っていたのだから、アルフォンスはただ言葉を聞けば良かったのだ。受入れなくても拒絶しなければ良かった。
 だがアルフォンスは自分の心を守る為に、エドワードの弱さを冗談と嘘にしてしまった。
 その時、エドワードの心は壊れた。
 亀裂は静かに入った。見えないヒビ。聞こえない破砕音。
 だけれど固い心に入った一本の傷は、確実に破滅への道に繋がっていた。
 アルフォンスは確かにその音を聞いたのだ。だが幻聴だと無視した。
 アルフォンスはただ自分の心を、当たり前にある世界を守りたくて防御を固めただけだった。そうしてエドワードも自分の崩れかけた意志を守りたくて、弟に縋っただけだ。互いが自らを守ろうとした結果、兄弟の絆にたわみが生じた。固く結ばれた筈の絆の結び目は解けはしなかったが、伸びて弛んでしまった。
 もしも。
 もしも、あの時……。
 そうアルフォンスが過去を悔やむのは年が明けてからだ。
 アルフォンスは知らなかったが、南のエアルゴとの戦争が激化して火種が拡がってきていた。戦況は悪化する一方で軍でも不安の声が拡がってきていた。だが反面大丈夫だろうと呑気に構える人間も多かった。
 十年前に東の内乱で国家錬金術師が登用されたのは未だ記憶に新しい。そうして今回の戦争に『まだ』国家錬金術師は徴集されていないのだ。……それは時間の問題だと囁かれていた。
 アメストリス国は武力では他国に負けない。何故ならその為に軍は力を付けているのだ。武器、つぎ込まれる人材、新しい作戦、死んでもすぐに補充される兵士と司令官。……そして国家錬金術師。負ける筈が無かった。
 エドワード達はいま南にいて、そうして優秀な彼を使おうと考える人間がいた事を、兄弟は知らなかった。
 その時エドワードが何を考えていたのかを知っていれば止めたのにと後悔しても、それは後の祭りだ。
 過去はやり直せないと何度悔やめば気が済むのか。
 アルフォンスは後にそう絶叫する。


 アルフォンスのいない静かな部屋で。
 エドワードはパリンパリンと音を立てて壊れていった。
 弟は帰って来ない。
 暗い部屋でエドワードの弱い心は砕けてしまった。その欠片は南の砂に混じり、風に乗って南方の地の一部になった。エドワードの大事な部分は砂に変わって、そうして残りカスだけがエドワードを支え、人としての形を保っていた。
 誰にも知られずに、エドワードはエドワードでなくなった。
 砂はエドワードの養分を吸って苗床になる。
 間もなく南の地に、血の雨が降る。
 エドワードという兵器が起こす破滅のシンフォニーが生者の耳に届き、地獄へと誘うのだ。
 そうしてその血は石を生み出す子宮となる。沢山の命が栄養となって一つの石を育む。
 赤きティンクトゥラ、第五実体。
 天上の石。大エリクシル。
 苦難に歓喜を、戦いに勝利を、暗黒に光を、死者に生を約束する紅い石が生まれる。
 人はそれを『賢者の石』と呼ぶ。


 エドワードは虚空を見つめて呟く。
「アルフォンス。……オマエを人の身体に戻すよ」
 エドワードの声はガラスが砕けるような音だった。何かを断ち切り、諦める声だった。
 じっと下弦の月を見る。
 瞳は月の光りを吸い金を孕んでエドワードを蝕んだ。エドワードの中で決意が形になる。
 ああ……初めからそうしていたら……。
「もうすぐオマエは戻れる。そうしたら……」
 そうしたら……どうする?
 ハラリとエドワードの涙が砂の上に落ちた。それがエドワードをエドワードたらしめていた最後の一欠片だった。そうしてエドワードは自分を捨てた。


 石が……未来の誕生を知り、産声を挙げた。
 孕んだのはエドワードの狂気という子宮だった。