命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第一章



#03



 エドワードは今日も一日中本に齧りついていた。
 その様子を案じるアルフォンスは「ちょっとは休みなよ」と言った。
 午後の日が傾き始めていた。
 突然エドワードが本を閉じ、立ち上がった。
 アルフォンスは兄を見た。
 エドワードはアルフォンスに何か言った。言い続けた。
 アルフォンスはその言葉を一字一句聞き漏らさず聞いた。
 だが、意味が理解できなかった。言葉が血印を通して頭の中に響く……が、それは意味をなさなかった。
 エドワードが言う筈のない言葉だった。アルフォンスは理解する事を初めからしなかった。
 アルフォンスの拒絶にエドワードの全身がブレた。
 エドワードの体は窓から入る赤い夕日に染まり、逆光で表情は見えなかった。
 兄の口が何かを言った。言い続けた。
 アルフォンスは意味が判らないと繰り返した。
 そうしてエドワードの言葉は部屋の隅に転がり、アルフォンスに踏み潰されてなくなった。
 エドワードの言葉尻は段々小さくなり、そしてとうとうエドワードは何も言わなくなった。
 何も言わないエドワードにアルフォンスはホッとした。心から安堵した。
 アルフォンスの理解できない言葉を綴るエドワードが恐かった。
 だから言葉を言わないエドワードに安堵したのだ。
 そうして訳の判らない事を言ったエドワードは「疲れているから休んで」というアルフォンスの言葉に頷き、一人で部屋で休んでいる。明日になればきっと元のエドワードに戻るだろう。あの我侭で粗暴で純粋な兄に戻ってくれる。
『牛乳なんて絶対に飲むもんか』……とか『誰がミニマムドチビか!』……とか怒らなくいいところで怒って、いらないトラブルを引き起こすのだろう。
 全く兄さんはいくつになったらもっと思慮深く大人しくなるのだろうか? いい加減外面というものを作っても良い年頃なのに。
 ウィンリィだって兄さんの帰って来るのを待っている。ウィンリィは兄さんが好きなんだ。姉みたいな偉ぶった顔をしているけど、ずっと兄さんの事が好きだったっていうのをボクは知っている。
 兄さんはウィンリィの気持ちに気付いているんだろうか? 兄さんって奥手みたいだし、恋愛には疎いというか興味ないみたいだ。

 アルフォンスはいつのまにか視界が暗くなっているのに気が付いた。聴覚だけではなく視覚まで異常が出たのだろうかと焦って周りを見る。
 違った。いつのまにか日が暮れていたのだ。外灯は遠く、ベンチの周りは暗い。
 ああそうだ、図書館が閉まっちゃった。本、今日返そうと思ったのに。また本を持って帰ったら、兄さんに何してたって怒られるだろうな。
 でも兄さんに怒られる筋合いはないと思うんだけど。だって兄さんが変な事を言わなければ、ボクだってこんな風に座って考えたりしなかったし……。
 兄さんが変な事を……。

 兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。兄さんが変な事を……。

 鎧の中でエドワードの声が何度も木霊する。

 兄さんが変な事を言ったんだ。
 おかしな幻聴だった。

『アルフォンス。ずっと……ずっと……心の中にあって言いたかった事がある。……間違いじゃない。思い込みでもない。ただ其処にあるんだ。ずっとあるんだ。あって動かないんだ。楔みたいに刺さっているんだ。船の錨みたいなんだ。底に沈んで心がそれ以上何所にも行けないんだ。……苦しいんだ。……助けてくれ。………………ゴメン。……でも、好きなんだ。弟なのに、兄弟なのに。……間違ってるって判ってるのに……。オマエを誰にも渡したくないんだ。兄だからオマエの幸福を願わなければならないのに、オマエがオレ以外の誰かを愛して離れていく事が我慢ならないんだ。ずっと側にいて欲しいんだ。……愛している。ずっとずっと愛している。全部やるから。オレの心も身体も命もこれからの人生も全部やるから……だから……だからだからだから……』

 兄さんの声が壊れたラジオの音みたいだった。
ザーザーってうるさい音が聞こえた。すごく耳障りで、ボクは
「聞きたく無い。冗談は止めてよ。変だよ」そう言った。
 そうしたらその音はピタッと止んで、兄さんの顔が見えた。逆光なのに、ハッキリ見えたんだ。
 兄さんの顔はとても綺麗だった。人形みたいだった。とても精巧で瞳は宝石みたいに透明で、肌は陶器みたいに冷たくて、叩いたら壊れそうだった。脆くてピキピキとヒビ割れる音がしそうで、ボクはちょっと恐かった。兄さんが綺麗な顔をしているのは知っているけど、その時の兄さんときたらなんだか絵本の中の人魚みたいで、綺麗だけどこの世のモノじゃないみたいだったんだもの。
 兄さんは繰り返し謝っていた。
 冗談だと笑っていた。ふざけたのだと口元が笑いに歪んでいたのだ。
 普段兄さんはそんな冗談を言わないのに、その時そんな冗談を言ったのは疲れが溜まっていたからだと思う。だってこの町に来る前もその前もずっと旅をしてきたんだから。
 いくら不屈の精神をもつ兄さんだって疲れるよね。
 兄さんは疲れているんだ。疲れているからあんな変な事を言ったんだ。
 帰らなきゃ、兄さんが待っている。

 アルフォンスは立ち上がった。辺りはすっかり暗くなってしまったから兄は心配しているかもしれない。いや、疲れが溜まっているからもう眠っているだろうか?
 荷物を持って部屋に引き返す。足が重い。

『兄さん。兄さん。兄さん』

 兄の言葉を冗談にしてしまったのは当然の事なので、面白くも無い冗談をいつまでも気にしているのは変だと判っているのに、アルフォンスの頭に中はエドワードの言葉が繰り返し廻っている。壊れたレコードみたいだ。
 ザーザーと壊れたラジオ。中から聞こえる兄さんの声。

『アルフォンス、ゴメン。アルフォンス、好きなんだ。
アルフォンス、愛しているんだ。アルフォンス、ゴメン。アルフォンス、好きなんだ。アルフォンス、愛しているんだ。アルフォンス、ゴメン。アルフォンス、好きなんだ。アルフォンス、愛して……』

 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさいったら!……。
 頭を振っても幻聴は止まない。ああ本当に、血印がどうにかしてしまったのではないだろうか。
 聞きたくない音が繰り返し聞こえて、アルフォンスの空洞の鎧の中に木霊する。
 大好きな兄の声なのに、あんまりしつこいのでイヤになってきた。
 ……兄さんいい加減にしてよ。ボクはそういう冗談は嫌いなんだよ。だって異常じゃないか。ボクらは兄弟なんだよ。血を分けているんだ。同じ母親の体内で育まれて生まれてきたんだ。同じ遺伝子を持っているんだ。だからそんな事言うの止めてよ。そんなの変だよ。

『ねえ兄さん、母さんの前でそんな事言えるの?』

 ピタリと腹の中の音が止む。
 もう何の音もしない。
 アルフォンスは安心して歩き出した。
 明日になれば兄は元に戻ってくれるだろう。そうして今日の事をなかった事にするのだ。もしかしたらバツが悪くてとぼけるかもしれない。ボクは優しい弟だから兄の失敗を許して聞かなかった事にするだろう。そうしてこの町を出て、また賢者の石の手がかりを探して旅をするのだ。賢者の石が見付かって互いの身体が元に戻るまではずっとそうするだろう。
 自分達はずっと側にいる。だって兄弟だし、アルフォンスにはエドワードが必要で、エドワードにはアルフォンスが必要なのだから。ずっとずっと一緒なのだ。