命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第一章



#02



 エドワードは疲れていた。
 この町に中央図書館にもない古い錬金術の資料があると噂で聞いた。それは口伝えで流れた細い糸のような噂だったが、僅かでも可能性があるならと、兄弟はやってきた。
 南と東の境にある町は寂れていた。昔は大きな街だったらしく広々としていたが、人口は少なく閑散として寂しさが目立った。
 停滞したよう街だった。街の第一印象からまたもやスカと思った兄弟だが、中心にある図書館は不似合いに大きくその中の資料は雑多で、予想外の当たりだった。兄弟はこの場所に長期滞在した。
 資料の殆どは古い物だった。価値のありそうな本は盗まれたり破損していたが、地下にある資料は手付かずで、兄弟はその資料を連日貪るように読みふけった。
 資料の多くは歴史を綴ったものだったが、錬金術の本もいくらかあり、二人だけでも何とか全部読破する事ができた。それでも全部読み終わるまで一ヶ月ほどかかった。
 エドワードはこの所苛立っていた。ずっとずっと旅を続けても大した成果がないのだから、気持ちがヘコむのも当然だ。
 アルフォンスとて次々と希望が打ち砕かれる度に心は沈んだが、それでも諦めるという事は考えなかった。何よりエドワードがそれを許さなかった。
 兄は不屈の人だった。いくら叩かれようが希望を砕かれ精神がすり減らされようが、その苛烈さは何年たっても鋭さを失わなかった。
 だからアルフォンスも安心していられたのだ。手のかかる兄だが、アルフォンスにとっては心の支えだった。
 エドワードにとっても同じだろう。兄弟はずっと支えあってきたのだ。
 あの兄が側にいるから、人で無いモノにされて感覚がなくても正気を保っていられるのだ。
 エドワードはアルフォンスを人として扱い、その鎧の姿の中に弟の魂を感じて安堵していた。
 エドワードは一人では生きられない子供で、弟に依存する事で自己を保ち、アルフォンスはエドワードの支えであることを存在理由にしていた。互いが互いを縛り、支え、その絆を信じていた。
 だからアルフォンスはさっきエドワードの言葉を冗談として流したのだ。

 アルフォンスは足を止めた。
 感じるはずのない感覚だがヤケに荷物が重く感じられた。
 この本を図書館に返して、日が沈まないうちに宿に戻る。疲れている兄の為に甘いものでも買って帰ろうか。それとも花でもつんで枕元に飾ってやろうか。アルには匂いは判らなかったがエドワードはラベンダーやユリのような強い匂いを好んだ。
 風は砂を含んでいるので空気が全体に誇りっぽい。窓を閉めて花の匂いで部屋を満たしてやろうか。
 考えたがアルフォンスの足はちっとも動こうとしない。近くにあるベンチに腰を掛けて足元を見た。
 自分は宿に戻りたくないのだろうか? 兄に会いたくないのだろうか?
 判っていた。
 ……そうだ、自分は今兄に会いたくないのだ。
 エドワードは今ごろ宿でどうしているだろう?
 本は全部持ってきてしまっているから、本に夢中になって神経を擦り減らしていることはない。
 シャワーを浴びて食事をとってベッドで休んでいるのだろう。そうすると言っていたではないか。
 だがアルフォンスはエドワードがそんなふうにくつろいでいるとは思わなかった。
 エドワードはこの所変だった。様子がおかしかった。
 どうしてなのだろう? ここに来るまではあんなに元気だったのに。カビの生えそうな本の山に、やる気満々の態度を見せていたのに。
 この町にあった古い資料はだいたい四百年くらい前のモノだった。内容を理解する以前に今は無い文字で書かれていて、その解読に手間取った。錬金術としては得難い知識もあったが、残念な事に人体錬成に関しての資料も賢者の石の情報も、中にはなかった。
 また無駄足だと苦笑する兄の様子がおかしくなったのは、何時からだったか。
 折角こんないい資料があるんだから錬金術以外のモノも読破しようと、兄は昼夜関係なく書物に齧りついて飲み込むように知識を吸引していた。その根を詰めた様子にアルフォンスは兄の健康を案じたが、エドワードはいつものごとく弟の忠告など右から左だった。
 兄を本から引き剥がす事は容易ではないと判っていたのでギリギリの所まで我慢していたが、エドワードはアルフォンスが怒っても取り憑かれたように資料に齧りついていた。明らかにいつもとは様子が違っていた。
 エドワードの顔色は日に日に青くなり、アルフォンスは気が気ではなかった。本を取り上げようとするアルフォンスとエドワードが言い争いをしたのは一度や二度ではない。エドワードは頑固だったが二度に一度は折れるので、アルフォンスも二度に一度は妥協するしかなかった。
 何がそんなに兄の興味を引いたのだろうと疑問だった。
 不思議な事にエドワードが関心を示していたのは宗教だった。兄が錬金術以外に興味を示す事は今まではあまりなかった。そればかりでは知識が片寄るので関連的な勉強も必要なのは判っていたが、なかなかその機会がなかった。錬金術だけでも奥は深く、他にはとても手が廻らなかったのだ。だからエドワードが錬金術以外の事にのめり込んでいる姿を不思議に思った。
 エドワードが調べていたのは昔に滅んだというキリスト教だった。
 錬金術が発達する前にあったというキリスト教という宗教は、数百年も昔にたち消えていた。信者が減ったのかそれとも何らかの理由で廃れたのか、もう大昔の事なので詳細は判らない。
 錬金術師にとって世界は見たままの世界でしかない。
 一は全で全は一。世界は小さなものが寄り集まって一つになっている。
 絶対神が創ったというのは親から聞かされて信じていたが、神の遣い云々というのは何だ? とよく判らなかった。神のつかいだとしても、人の腹から出たのなら、ただの人間だ。
 アルフォンス達にはキリスト教が理解できなかった。
 人間も動物も大地も世界を構成する全てのモノが一人の神という存在によって創られ、だからその存在を崇めなさいというのは感覚的に判るが、それを広めた人間を神聖視するというのは、また別次元の話だ。
 エドワードには言わなかったが、アルフォンスは神を信じている一方で疑っていた。宗教でいう『神』という存在が全能なら、何故世界から戦争や醜い犯罪が無くならないのだろうか?
 だが無茶な行動をする一方で、常識や倫理に縛られているエドワードに、そんな疑問をぶつけられるはずも無い。どうせエドワードにも答えられはしないのだから。
 アルフォンスは宗教に関心薄かったが、何故かエドワードの方が興味を示した。らしくなかった。
 そうしてエドワードは口数少なく本にのめり込み、アルフォンスは兄の身を心配しつつ自分も錬金術の資料に目を通して、一ヶ月を過ごしたのだ。
 エドワードはこの数日おかしかった。疲れているのだろうと思ったが、青い顔色の中で瞳の金色は不吉に輝き、力を感じた。眠れないようだった。眠っていても夜中に何度も飛び起きていた。夜は空気が冷えるのに、エドワードの額には汗が浮かんでいた。
 何がそんなにエドワードを追い詰めているのだろうかと思ったが、考えれば弟の事一つしかないので、アルフォンスはあんまり根を詰めないでとしか言えなかった。
 頑張らないでとは言えない。頑張ることがエドワードの生きる支えなのだ。エドワードは泳なければ死んでしまう魚と同じだ。行動する事で心を保っている。
 だからアルフォンスは兄が苦しんでいるのを知っても、止めろとは言えない。ただ兄がその心の張りを裂けさせないように見張るしかできない。
 そうしてエドワードは今日、地下の本をあらかた読み尽して、本を閉じて一人何かを考え込んでいた。
 アルフォンスは本を読んでいるフリをしながらも、ずっと兄を気に掛けていた。
 エドワードの中にアルフォンスの知らない何かがある。それが何なのかエドワードに聞けなかった。
 兄の中の何かが膨らんで削れて捩じれて撓んでいくのを、ただじっと見ていた。
 早く兄の中の何かが治まってくれればいいと願っていた。