命に つく
     名前 を 『心』と
            呼ぶ



第一章



#01



 弟に本当の気持ちを伝える事を考えていた。
 ずっとずっと考えていた。
 でもそれは夢だった。夢でしか言えない言葉だった。
 言ってはならないと知っていた。言えば己を形成する世界の一部が壊れると知っていた。
 エドワードは慎重だった。そして臆病だった。鋭利な頭脳で行動の結果を計算していた。
 その破損は修復不可能。それは自分の中の最も脆く儚く綺麗で歪な部分だったので壊れる事を極端に恐れ、結局何も言えずに本当の気持ちを心の奥底に隠した。
 エドワードの心の中は誰も知らなかった。知られてはならなかった。
 心の中に扉があった。そこには自らが封印したものが眠っていた。
 一番身近な兄弟も、親しい幼馴染みも、油断ならない上司も誰も、エドワードの心の歪みを知らない。
 過剰な愛情の裏にある思慕の正体は誰にも知られず、だからエドワードはずっとその秘密を大事にして温めてきた。そうして苦しみながらもその痛みは毒のような甘さを含み、エドワードの中に染み込んでいった。
 生じた毒はエドワードを歪めていったが、強靱な意志も一方で存在して、表面にそのひずみが出て来ることは少なかった。エドワードの歪みが外に漏れることもあったが、特異な立場と生い立ち故に誰もがそれがエドワードの本質だと気付くことはなかった。
 エドワードの笑顔も涙も仮面だった。本当のエドワードはとても禍々しく歪んでいて、欲しいモノを欲しいと泣き喚く子供と同じだった。
 だけれどそれをエドワード本人すら気付いていなかった。自ら作った檻の存在に目を瞑り、そこから無理矢理視線を外し、同時に現実を受け入れながらバケモノのような歪みを抱えておかしくなっていった。
 それは妄執に近いような思い込みだったの
かもしれない。だけれど執拗とも言える自分の感情がどんなに重くてみっともなくて禍々しいものだとしても自分の真実に他なら無かったので、どうする事もできないまま、水を含んだ小麦のように膨れ上がって重たくなって捨てる事もできないそれを自分の内側にどんどん溜めていき、やがて心は押し潰された。
 エドワードの中で人を好きになるという気持ちはごく自然に生まれた。なぜなら家族という愛の苗床で生まれたのがエドワードだからだ。
 自分はとても恵まれていたと、無くして初めて気がついた。父は無くとも優しい母の温もりと、決して離れる事のない弟がいた。
 エドワードは母が亡くなった時、現実を受入れられなかった。それはあってはいけない現実だと思った。喪失を否定し間違いを正そうと、現実を歪める事にしたのだ。自分にはその力があると信じていた。傲慢だった。
 そう反省したのは悲劇の後で、もし成功していたら傲慢だとも思わずに命の重みすら感じず、自分は神になりかわったような気持ちになっていただろう。
 だが神はそんな傲慢さを許す筈も無く、罪人の子供に大きな罰を与えた。そうして子供は自らの矮小さを知り、現実に潰されかけた。
 打ちのめされて狂う方が楽だったが、だけれど神はそれすら許さなかった。子供にはまだ力があった。その力を使い果たすまでは許されないとばかりに試練に立ち向かう事を強要された。それは子供の意志だったが同時に神の罰でもあった。
 そうしてエドワード・エルリックは鋼の錬金術師と呼ばれるようになって四年がたった。金色の髪と瞳の輝きは見る物を惹き付け、時に反発させた。余裕に見えるその態度が見せ掛けだけだと知っていたのは僅かだったが本人にはそんな事はどうでもよく、エドワードは可哀想な弟だけを想い、軍の犬と自らを恥じながらもまたもや傲慢に生き続け、そして十六歳になった。






「ちょっと待って。……もう一度言って。………いや、言わなくていい。……だって……何かの聞き間違いだよね。……ボク……ちょっと聴覚が変になっちゃったみたいだ。……兄さん、鎧の中の血印見てくれる? 湿気で血印が滲んじゃったのかなあ。だとしたら大変だ。水分には気をつけていたのに。中にサビが出来ちゃったのかな? ……この部屋、加湿器のせいで湿気が凄いからね。鎧は外は磨けても中は自分じゃ磨けないし、兄さん後でボクの中を磨いてくれない? ……こういう時不便だよね、鎧って。怪我とかはしないけど、手入れが面倒臭い。普通にお風呂に入れれば一番いいんだけど、ボクの身体は水が天敵だから……」
「アルフォンス! ……聞かないフリをしないでくれ」
 エドワードは血を吐くように声を絞り出した。
「……何の事? ……だって兄さん……」
 アルフォンスは声を切るのが恐いとでも言うように、言葉を続けようとした。
「今言ったのは……冗談でも嘘でも聞き間違いでもない。……オレの本当の気持ちだ。オマエにとっちゃ寝耳に水で迷惑な話だろうが、オレは……」
「イヤだよ、兄さん! そんな冗談……つまらない」
「アル……オレは……」
「聞きたく無い! タチの悪いジョークだ。ボクそういうの嫌いだ」
 アルフォンスはムキになったように声を大きくした。
「……すまない。でも……」
「変だよ、兄さん。それじゃあ変態じゃないか。おかしいよ。兄さん変態なの? …
……違うよね?」
 アルフォンスは自ら投げた刃の鋭さには気付かない。
 言われたエドワードの顔が歪む。
「……アルフォンス」
「聞きたくない、そんな変な事」
 アルフォンスは冗談だと会話を終わらせようとする。
 エドワードの中の意志が挫けていく。
「……変……かな。……そうだよな……」
「兄さんおかしいよ。……いきなり何を言い出すんだよ。ボク達兄弟じゃないか。兄さんはたった一人の家族なんだよ。そんなおかしな事言わないでよ。心配になるじゃないか。ねえ……勉強のしすぎで疲れてるんじゃない?」
「……ゴメン。……アル……」
 エドワードの瞳から光が消える。
「謝るくらいなら初めから言わないでよ。……兄さん疲れているんだよ。この所ずっと根を詰めていたじゃないか。だからそんな変な事言い出すんだよ」
「……そう? ……そうかな……」
「兄さんはボクのたった一人の兄さんなんだから、もうそんな変な事言わないで」
「……うん。ゴメン……アル」
 アルフォンスは重い空気をかき回すように明るく言った。
「謝らなくていいから。……ちょっと休んで。……そうしたら次の町へ行こう。この町にも賢者の石は無かったけど、無駄足なんて毎回の事じゃないか。いちいち落ち込んでたら気持ちがいくつあっても足りないよ。ボクらの旅はまだまだ続くんだ。ねえ、兄さん」
「うん。アル」
「だから今日はぐっすり眠ってちゃんと休んで。……ボクがずっと側にいるから」
「ああ。……今日はちゃんと寝るよ。……この所ずっと寝てなかったんだ。……もう限界だ」
 エドワードはフラフラと背後のベッドに腰掛けた。
「そうだよ。兄さん疲れているんだよ。兄さんは生身なんだから無理は程々にして。でないとまた倒れるよ?」
「……判ってるさ。……あんな無茶はもうしない」
「約束したよね。ちゃんと寝て食べて健康には気をつけるって。……今度倒れたら無理矢理にでもセントラルの病院に入院させるからね」
「判ってる。……もう無茶はしない」
「だから……もう、休んで」
 生気を無くしたような声にアルフォンスは沸き上がる不安な気持ちを気のせいだと思い込もうとした。
 エドワードは立ち上がり弟を見ないまま、バスルームに向かう。
「……判った。……シャワー浴びたら寝るわ。……資料、オマエが図書館に返しておいてくれ」
 背中越しの声に、アルフォンスは兄がどんな表情をつくっているのか気になった。
 エドワードが意図的に弟から視線を外しているのが判っていた。
 だがどうしても兄の肩を掴んでこちらを振り向かせる気持ちにはなれなかった。アルフォンスはこの張り詰めた空気を破裂させる事が恐かった。
 兄がおかしい。でも自分もおかしかった。
 エドワードの、兄の顔を見るのが恐いなんて!
「うん、いいよ。ボクがちゃんと返しておく。兄さんは休んでて」
 ガサガサと兄が散らかした本を揃える。ここにいたくない。
「……悪いな」
「そんな事気にしないで。ボクは疲れてないんだから」
「……うん。……じゃあ……先、休んどく。……鍵は掛けとくから……オマエ鍵を持って出ろよ」
「うん、判った」
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 アルフォンスは部屋の外に出た。
 ガチャ。
 冷たい金属音がすぐ後ろで響く。後ろ髪引くような(髪はなくてもそんな吸引力を感じた)気持ちで外に出る。長い逗留なのですっかり顔馴染みになった宿のおかみさんや常連客が、アルフォンスに何所へ行くの、ああ図書館、アンタらも物好きだねと声を掛けてくる。その声に背を押されるように宿を離れた。
 本当は宿からあの部屋から出たく無かった。兄を部屋に独り残しておきたくはなかった。だけれど部屋にいたくないという気持ちも本当で。
 今、何が起こったのだろう?