命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・肆
「おーい、アルー。着替えはー?」
張り詰めた空気を突然兄さんの呑気な声が裂く。
フッと緊張が弛む。
「あ、ゴメン。まだ用意してなかった。ちょっと待ってて。今出すから」
トランクから兄さんの着替えを出して手渡す。
長くお湯の中にいたのか、兄さんの顔が赤い。のぼせてないといいけど。
「ちゃんとドライヤー使って髪乾かすんだよ。お湯は抜いてね」
「分かったよ」
兄さんの脱いだ服を手にバスロームを出る。
「兄さんたら。ボタンが取れそうじゃないか」
両手を合わせ、兄の服の綻びを直す。
大佐がボクを縛るように強い視線で見ている。
ボクは大佐と同じくらい強く大佐を見て、言った。
「大佐。今ボクが言った事は忘れて下さい。覚えていてもいいことはありません。賢者の石で過去に戻れる事は知らない方がいいんです。人間は過去には戻れない、道は未来にしかない。その常識を覆してはいけない。過ちはボクだけで充分です」
「アルフォンス。忘れられるわけないだろう」
「いいえ、忘れてもらいます」
「アルフォンス?」
「記憶には鍵が掛けられると言ったでしょう?」
ボクは兄さんの服のポケットから、賢者の石を取り出した。大佐の前に翳す。
「まさか……止めろ!」
大佐が動く前に、ボクは石を発動させた。両手はさっき兄さんの服を直す時に二度合わせておいた。
深紅の光が一瞬だけ部屋を照らし、何事もなかったように静かになった。
ボクは腰掛けて、空になったコーヒーカップを玩ぶ。
大佐は自分が何故立っているのか判らないといった表情で、座り直した。
「あれ……私は今何と言った?……」
大佐が頭を振って、自分の言動を振り返る。
ボクは微笑む。
「……ボクが兄さんの為に童貞を捨てたと言ったら、大佐は『どうしてそこまで兄を想えるのか』と言いました。……ボクが経験者だというのがそんなにショックでしたか? それとも兄さんをそれ程愛している事が? それとも今頃酔いがまわってきましたか? かなり飲まれたみたいですね。危ないですから帰りは車を呼びましょう」
「いや……大事ない。……確かに少し飲み過ぎたようだな。…………そろそろ帰るか。もう惚気は沢山だ」
「お気を付けて。また後日、挨拶に窺います」
「鋼のの代わりになる錬金術師の推薦、早めにな」
「はい。今年中にはなんとかします」
「頼んだぞ」
部屋を出る大佐にボクは言った。
「大佐は……愛を乞うた事がありますか?」
大佐が振り返る。
「愛を乞う? 誰に?」
「自分を愛して欲しいと、ただそれだけを望んだ事が。何をしてくれなくてもいい、ただその人に心の中で大事にして欲しいと、一途に願った事がありますか?」
「いや……」
「ボクはあります。兄さんに乞いました」
「散々惚気られたんだ。これ以上聞きたくない。惚気はヒューズだけで沢山だ」
「ヒューズさんは皆に自慢できますが、ボクが言えるのは大佐だけなんです。……もう言いません。だから言わせて下さい。ボクは兄さんを愛してます。一生大事にします。ボクは幸せです。身体と……兄さんを取り戻せて幸せです。今まで、本当にありがとうございました」
「……キミたちの願いが叶って良かった。おめでとう」
「ありがとうございます。大佐には感謝してもしきれません。兄さんに焔を点し、ここまで導いてくれた。今のボク達があるのは大佐のお陰です」
「キミ達が起こした奇蹟はキミ達が努力し信念を貫いた結果だ。私はきっかけを与えたに過ぎん」
「……お休みなさい。明日ヒューズさんの家に御挨拶に行きたいと思います。ボクはまだしばらく鎧を装着したままですが……」
「お休み。ではまたな」
「……また」
ドアを閉めてボクが振り返ると兄さんがいた。ドキリとする。
「兄さん。……髪、乾かした?」
「大佐、今帰ったのか」
髪に触れると少しまだ湿っぽい。
タオルで兄さんの頭を拭く。
「うん。大佐も随分酔っぱらっていたみたい。明日も仕事なのに。大丈夫かな……」
「アイツはいい年した大人なんだから大丈夫さ。明日遅刻してホークアイ中尉に叱られたらイイ気味だ」
「兄さん。大佐は兄さんに付き合ってくれたんだよ。お礼も言わないで、そんな事言っちゃダメだよ」
「いいんだよ。相手は大佐なんだから」
「兄さんはもっと素直になる事を覚えようね。反発ばかりしていると損だよ。素直が一番」
「ふん。大佐に対してオレはいつも素直さ。アルの方がいつもイイコちゃんぶっているじゃないか」
「ボクはいつも素直なの。大佐にはお世話になってきたんだから、感謝するのは当たり前だろ」
「感謝か。……素直に感謝できないのはアイツの側に問題があるからだ」
「双方にだよ。兄さんの方から歩みよれば?」
「イヤだ。……それよりアルは大佐と何を話してたんだ? 何か話し込んでなかったか?」
「そうだ、兄さん。大佐にボクとの事、言ったでしょう?」
ボクがわざと睨むと、兄さんがしどろもどろになる。
「うっ! …………いや、だって……その……」
「別に怒ってないよ。ただ意外だっただけ。兄さんは隠したがっていると思ってたから」
「隠すのは、間違ってると説教されるのが面倒だからだ。それにアルがオレのせいで変な目で見られるのは嫌だ」
「ボクは平気だよ。どんな事を言われたって大丈夫。自分に恥じる事は何もしてないんだから。兄さんとの事はボクの信念と本心で決めた事だ。後悔はない」
「オレも……絶対に後悔しない」
「大佐はボクらの事、かなり動揺してたみたい」
「まあそりゃそうだろうな」
「大佐に兄さんを誰より愛しているから、絶対に離れないって言っておいたから」
「…………うん」
照れる兄さんが可愛い。
「……ねえ、キスしていい?」
「ウッ……」
お風呂上がりで赤い兄さんが更に真っ赤になって、頷く。
「……許可はとらなくていいと言っただろう……」
「はいはい」
照れて驚く兄さんの顔が見たいから許可をとるのだと、兄さんが気が付くのはいつだろう。
顔を近付けると兄さんが目を閉じる。最近ようやくキスにも慣れてきた。
子供の頃は平気で沢山したのに、兄さんはボクが顔を近付けると緊張する。
兄さんの唇はいつもより柔らかく温かい。お酒の臭いも薄くなった。
兄さんは舌を絡ませるのにまだ慣れない。唇を舐めて予告してからでないと舌を噛まれてしまう。
驚かせないようにゆっくりと唇を舐める。夢中で吸った。
兄さんの舌は他のどの人間より柔らかくて甘い。食べてしまいたい誘惑を感じる。兄さんを怯えさせる気はないので壊れ物みたいに丁寧にしか扱った事はないが、そろそろステップアップしてもいいかもしれない。
たまには兄さんからキスしてくれないかな。
「兄さん。……お風呂上がりだからあったかくて気持ちがいい」
腕の中の兄はホカホカしてカイロのようだ。やはり兄さんは小さい方が抱き締め易い。体格差、万歳。
「アルも入ってこいよ」
「うん。入る。……ねえ兄さん。お風呂から出たら兄さんを抱いていい?」
途端に腕の中が固くなる。突然すぎたか。
でも兄さんだっていつまでキスだけじゃ終わらないのは、判っていたはずだ。
「……だっ!……ア、アル…………それって…………」
動揺する兄さんにボクは静かに言った。
「兄さんの心が落ち着くまで待とうと思ってた。……勢いで始める関係じゃイヤだった。でも……兄さんはもう大丈夫だ。……だからボクは兄さんを抱く。兄さんを抱いてボクのモノにしてそれを楔にする。セックスなんて大した事ない、たかだか三十分や一時間の接触だ。挿入から射精までの時間だともっと短い。だけどその事はボクらにとってはとても意味のある事だ。関係を壊し、また続ける為の。ボクらが一緒にいる為に必要な事だ。……兄さんを抱いていい? 兄さんとつながりたい」
ボクの目を見て、兄さんが「うん。オレも……オマエと寝たい。……オマエのモノになりたい」と言った。
兄さんの瞳は爆ぜる火薬みたいな金色の光だ。ボクの目と心を灼いて余計な邪念を焦がしつくす。迷いのない強い瞳。ボクの前を歩く鋼の精神力。ボクだけの兄さん。
ズキン、と胸が刺した。
目の裏にこの人でない姿が写る。
『兄さん』だ。
判っている。この痛みは死ぬまで続く。
置いてきてしまった『未来』の兄さん。二度と会えない人。
アナタを生涯愛してる。この痛みが愛だ。
そして『今』の兄さん。ボクを幸福にしてくれる人。
二人の姿が重なってブレる。
罪悪感を誤魔化す為に兄さんを強く抱き締める。
兄さんは何も知らない。ボクはこれからも沢山の罪を犯す。そうして兄さんを守る。その代価に兄さんを得る。
二度目のキスは兄さんからだ。
互いの呼吸を感じて、離れた。
「お風呂に入ってくる。……すぐに出るから、寝ちゃダメだよ」
「バーカ。こんな時に眠れるかよ」
兄さんの胸は太鼓の音のように激しく打っていたが、ボクも心臓に手を当てると同じようにドッドッと早い血の流れを感じる。セックスは散々してきたのに、兄さんとすると思うと緊張する。本当に愛する人を抱くのは初めてなので、そういう意味では初体験といえるかもしれない。でも兄さんは全くの未経験なので、ボクよりもっと緊張するはずだ。
初めてなのだから互いに絶対に忘れられない記憶になるだろう。いい想い出にしてあげたい。
この身体にももう慣れた。もともと『未来』では五年近くも人の身体で生活してきたのだ。鎧でいる方が不自然だ。
男と寝るのは初めてだが何とかなるだろう。兄の身体は隅々まで見慣れている。見なくても脳が覚えている。あの身体を愛するのか。それはどんな感じなのか。
しかし兄を女性のと同じように扱っていいものだろうか。こんな事なら一度くらい男とヤッておくべきだった。
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