命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・肆



#15



 ボクが大佐に真剣な瞳を向けると、大佐もボクを同じ目で見た。
「実の兄と恋愛関係を結ぶのは失敗ではないのか?」
「ボクらの関係は人に知られれば誹られるのは理解しています。だからといって兄さんを諦めるのはイヤです。あの人はボクのものです。あの人の隣にいる時間、過去も今も未来も死ぬまでの時間がボクのものだ。誰にもその場所は渡さない。誰もあの人の隣には立たせない。兄さんの一生は兄さんの為にあります。兄さんはしたい事をすればいい。ボクはそれについて行くだけです。本人達が失敗だと思わなければそれは失敗ではありせん」
「大した執着だな。だがそれは幼い子供の独占欲だと思わないか? キミは鋼のに恋しているわけではないのだろう? キミは兄弟として兄を愛しているが鋼のは弟に恋している。今はまだ子供だがいずれ大人になれば肉体関係を含めての付き合いも始まる。そうすれば更に禁忌は増し負担は大きくなる。キミは実の兄と寝られるのか? 抱くのか抱かれるのか知らないが、恋愛と肉体関係は切っても切れない。恋愛は綺麗ごとではない。兄を愛していても身体は女性を欲しがるだろう」
「人を少年らしからぬ中身だと言ったのに、次には子供扱いですか? 大佐……ではお聞きしますが、人間はいつ大人になるのですか?」
「心理学か? それとも哲学か?」
「いえ、普通にいる大人の事です。人は成人しても常に悩み傷付き間違える。それは子供の時から大きくは変わらない。大人と子供の違いは背の分だけ少し、視野が広くなっただけだと思いませんか? それと長く他者と接した事で傷付き臆病になり、用心することを覚えただけだと。………殆どの人間は、子供の頃と中身は変わらない。人間は一生子供の自分を切り離せず生きている」
「私もそうだと?」
「大佐は立派な大人ですが……大佐の中にも子供の部分が隠れているはずです」
「他人に勝手に分析されるのは不愉快だな」
「すいません。分析というより自分も含めての事実だと思っていますので」
「そういうところが子供ではないというのだよ」
 大佐は苦い顔のままだ。
「ボクは兄さんの為に大人になったんです。……兄さんを守れるくらい大きくなりたかった」
「鋼のは守られることなんぞ望んではいないぞ」
「兄さんは一生兄さんですから。弟を守るという姿勢は一生あのままでしょう。そういう兄さんをボクは守りたい。早く大人になりたかった」
「その気持ちは判らないでもないが、成長の理由にはならん。それに鋼のの恋を受け入れる理由にも。アルフォンスには兄を抱く覚悟があるのか」
「あります」
「口では簡単に言えても現実は重い。女も抱いた事がない子供が何を言っても説得力がないぞ」
 ボクは少し笑う。
「……何だ?」
「実は……ボクは童貞ではありません」
「………それは本当か?」
「兄さんは知りませんが、本当です。複数の女性と肉体関係を持ちました」
「一体何時? 人体錬成は最近成功したのだろう? どうやって女性と知り合う機会があった? それに鋼のに知られずに誰かと会う事は不可能だ」
『未来』の世界の事だとは言えないので、もっともらしいウソをつく。
「兄さんが寝ている間ですよ。食事に少量の睡眠誘発剤を混ぜれば朝まで熟睡です。兄さんは気が張り詰めて疲れていましたから。女の人は繁華街にいけばいくらでも買えました」
「……何故そんなことを」
「兄さんの為です。大佐が懸念されたように恋愛と肉体関係は切り離せない。女性と寝て、それでも兄を選ぶのだと自分を納得させたかった。ボクが女性に惑わされる事はありません。セックスは心がなければただの排泄です。女性と寝てそれがハッキリ分かった。ボクは兄さんを抱けます」
 断言したら一瞬大佐が黙ってしまった。
 絶句しているのか呆れているのか、どっちだろう。
「キミは………恋もしていない実の兄に反応できるのか? 実際に試してみて抱けなければ鋼のが傷付くぞ」
「それは大丈夫です。兄さんでヌいた事ありますし。充分できます」
「………………そうか」
 大佐が沈痛な面持ちで横を向き、シワのよった眉間を揉む。
 沈黙が痛いなあ。ボクが童貞じゃなかった事よりも、兄さんをオカズにした事の方がショックだったのか。
「どうしてキミはそこまで……兄を想えるんだ?」
「愛している事に理由が必要ですか? 理由が必要なら後づけでいくらでも並べますよ」
 どう説明すれば判ってもらえるだろう。
 本当は判ってもらおうとは思わない。ボクが兄さんをどれだけ愛しているのか、自分のした事を悔やんで過ちをおかしたのか、誰にも判らせようとは思わない。
 だけれど大佐にだけは話してみたい気持ちもある。『未来』で全部を押し付けてしまった人だから、判って欲しいと思う。でも言ったら余計に混乱するだろうな。
 ボクは空になったコーヒーカップを玩びながら言った。
「大佐は……愛を乞うた事がありますか?」
「愛を乞う? 誰に?」
「自分を愛して欲しいと、ただそれだけを望んだ事が。何をしてくれなくてもいい、ただその人に心の中で大事にして欲しいと、一途に願った事がありますか?」
「いや……」
「ボクはあります」
「ほう……キミにそんな相手がいたのか? なら鋼のの事はどうなる?」
「ボクが愛を乞うたのは兄さんです」
 大佐が呆れる。
「キミが今更乞わずとも、鋼のはこれ以上ないくらいに弟を愛している。何せ命懸けで弟を助けたくらいだ。どうして更に兄の愛情を欲しがるんだ?」
「……どうしてだと思いますか?」
「私の方が聞いているのだが。キミらの密接すぎる関係なんか私が知るものか」
「ボクは……気がついたんです」
「何を?」
「誰を一番愛してるのかを」
「アルフォンスが鋼のをどれだけ大事に想っているかなんて、今更だろう。兄弟間の惚気なんて寒いから聞きたくない」
「ボクは……兄さんの愛がないと生きていけない。兄さんがボクを愛してくれるなら、一生二人きりで生活してもいい。他には誰もいらない」
「それは子供の思い込みか? それとも強い執着?」
「後者です。ボクは兄さんの愛が欲しい。……確かに兄さんがボクに恋をしたと知って、始めは動揺しました」
「それは当然だろう。鋼のはそれを弟に告げるべきではなかった」
「でも言ってしまった言葉は口には戻らない。ならば前に進むしかない。ボクが兄さんを拒絶するか受け入れるか。どちらにするか選択しなければならなかった」
「どうしてキミは鋼のを受入れた?」
「拒絶すれば兄さんが壊れるからです。そうしてボクは愛を失ってしまう。兄さんはボクから逃げ、ボクは兄さんに捨てられる。独りになった兄さんはいずれ誰かを隣において精神の安定を計るでしょうが、冗談じゃない。兄さんの愛も場所もボクだけのものです。誰にも渡したくない。大佐は家族愛はよくて恋はいけないと言いますが、何故ですか? それはそんなにいけない事ですか? 世の中で純粋に愛しあっている人間だどれだけいますか? 命掛けるくらい愛を注がれている人間がどれだけいますか? 間違っているという人は、そういう愛を知らない人です。自分が知らないから簡単に否定できる。命よりも重い愛情を与えられて生きてきた人間がその人に恋を乞われて、相手を否定できると思いますか? 恋だって愛情の一つです。家族愛が無くなったわけじゃない。それに一つ別の形が加わっただけです。相手に受け入れる気があるなら、それでいいじゃないですか。兄さんはボクに同じ形で愛されようとは望んではいません。ボクが兄さんに恋をしないからと言って、兄さんは傷付きません。ボクは兄さんを愛している。だから一生縛り付ける。兄さんが始めに望んだんです。兄さんはボクのする事を全部許すでしょう。そうしてボクらは死ぬまで一緒にいるんです」
 つい熱くなってしまった。誰かに判って欲しいとは思わないが、否定されれば反発したくなる。
 大佐が反応に困っている。
 愛の論議など真面目に交すものではない。
 愛は自分の中に生まれるものだ。その形は自分しか判らない。人は自分以外の愛を自分の記憶と比較して判断しているだけだ。それに正解はない。
「大佐。ボクらの事は放っておいて下さい。……兄さんの代わりは見つけだします。もし代わりが見つからなかったら、その時はボクがなんとかします」
「キミが?……どうやって?」
「賢者の石を使います」
「賢者の石を使って何をする?」
「兄さんの記憶を軍の人間から抹消します。関わった人達全てから鋼の錬金術師の記憶を抜き、最年少国家錬金術師が『いなかった』事にします」
「……そんな事、できる筈がない」
「いえ、できます。……賢者の石を使えば」
 ボクの断言に大佐は絶句した。
「バカな!」
「……ですがそれは本当に最終手段です。他人の記憶を消すなんてしてはいけない事です。記憶は自分だけの歴史です。それは第三者が手を加えてはいけない。でもボクは兄さんの為なら悪魔に魂を売っても構わない。方法は簡単です」
「……アルフォンス。……賢者の石は……そんな事までできるのか?……」
 大佐が狼狽えている。この人が動揺する姿は本当に珍しい。
「賢者の石は不可能を可能にします。もしボクが賢者の石を使えば、大佐を始め知り合い全員から、鋼の錬金術師の記憶を抜く事ができます。そうしないのは……そんな事をすれば兄さんが傷付くからです。ボクに非情な事をさせてしまったと、兄さんが悲しむ」
 大佐の目がボクを犯罪者に対するように厳しくなる。
「……アルフォンス。……キミは一体何者なんだ? 賢者の石を使うとはいえ、他人の記憶を弄るなんて不可能だ。一人や二人ならともかく、知り合い全部と軍人全てから記憶を抜くなど……できはしない」
「ではやってみせましょうか? ボクの得意の錬金術は鉱物関係の他に精神の錬成もです。だってボクは五年間魂だけの存在だった。人の精神がどういうものか、ボクより理解している人はいない。記憶を弄るのは難しくないんです」
「魂だけで生きていたキミだから……。だから精神の構造が判るのか……」
「まあ簡単に言えば記憶の一つに鍵をかけるだけなんですけど。人の記憶というのは死ぬまで絶対になくならないものなんです。産声を挙げた瞬間から脳細胞に記憶は全部刻み込まれる。だけどそれは次々頭の中の引き出しに仕舞いこまれ、取りだせなくなる。だから人は子供の頃の記憶を無くすんです。……エドワード・エルリックという単語の入った記憶の引き出しに鍵を掛けてしまえば、その人間に対して何も思い出せない。そうすれば兄さんの情報は出てこない。関わる人間全員の記憶に鍵を掛ける。記録も抹消すればエドワード・エルリックは国家錬金術師ではなくなる」
「そんな簡単なものなのか? ……記憶というものは」
「理論は簡単ですが実践するのは困難です。だけれど賢者の石があれば容易です」
「だが他人の記憶を弄るのは、タブーだ」
「記憶は自分だけの所有物ですから。だけれど覚えていないというのは案外楽なんです。辛い事、悲しい事、全部忘れてしまえば精神は解き放たれる。他人から見て非常識でも痛々しくても、記憶を弄られた当人は案外すっきりしています。忘れた事さえ忘れれば記憶を消された人間は傷付きません」
「……まさか、実践したことがあるのか?」
「……いいえ。………………いえ、はい」
「どっちなんだ? 正直に言え、アルフォンス!」
「正直に言うなら、『未来』でありました」
「……? どういう意味だ? キミがこれから実践するのか?」
「いいえ、してきたんです。……その折は面倒な事を押し付けてしまって申し訳ありませんでした」
「言っている意味が判らないのだが。……何を謝っているんだ?」
「大佐に『未来』でボクの後始末をつけさせてしまった件です」
「未来?」
「……賢者の石は本当に様々な事ができるんです。……ボクの知っている事を聞きたいですか?」
 ボクは大佐に何を言おうとしている?
 胸を刺す罪悪感がボクの口を開かせた。
「……聞こう」と大佐が言った。
 ボクは一度立ち上がり、兄さんがバスルームの中から出て来ないのを確かめてから、もう一度ソファーに座り話し始めた。