命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・肆



#13



「アル〜。我が愛する弟よ〜。オマエの兄がいま帰ったぞ〜」
「兄さん? 酔っぱらってるの?」
「酔ってない、酔ってない」
「わ、危ない。ほら、足元気を付けて」
 ボクが支えると兄さんは「酔ってない」と繰り返す。
 自分で酔ってないと言う時点で立派な酔っ払いだって。
 日付けが変わって帰ってきた兄は泥酔していた。すっかりワイン漬けになって大佐に抱えられている。ヘラヘラ笑って大層御機嫌だ。
「大佐、すいません」
 兄を受け取ってボクは大佐に頭を下げた。
 兄さんがボク以外の前で酔っぱらうなんて珍しい。自分をコントロールできなくなるのがイヤだから、兄さんはボクのいない時はアルコールを口にしないのに。
 ボクがいたらこんなには飲ませなかったのだけれど。
 まあ、たまにハメを外すのもいいかもしれない。
「どうですか、大佐。酔い覚ましにコーヒーでも」
「御馳走になろう」
 迷惑を掛けた大佐にもう一度すいませんと頭を下げる。
 何がおかしいのかケタケタ笑っている兄さんを、ベッドに転がす。
「兄さん。お酒くさいから、歯を磨きなよ」
「うー、歯磨き? 面倒臭え……」
「眠いなら寝ちゃってもかまわないけど、服は自分で脱ぐんだよ。ほら、靴脱いで」
「アルー。起こしてー。脱がしてー」
「甘えないでよ。……そんなに飲んで。足を上げて、ブーツを脱がすから。…………ほら、そっちの足も」
「アルー。眠ーい……」
「まだ寝ちゃダメだってば」
「アルフォンスは相変わらずかいがいしいな」
 大佐がボクらのやり取りを見て、やや疲れた様子で苦笑いする。
 大佐の様子にボクはおや? と思う。滅多に弱味を見せる人ではないので、大佐の本当に疲れている様子に、兄さんは何を迷惑かけたんだと案じる。
 ルームサービスでコーヒーを頼む。
 兄さんは気持ち良く酔っぱらっているだけのようで「酔ってない〜、愛してるぞ、アル〜。……水くれ〜」と、まさに酔っ払いの見本のようなクダを撒いてベッドの上でゴロゴロしている。
 一応上司の前なんだけど。
 ボクの人体錬成からこっちずっと気を張り詰めていた兄さんだから、大佐に会った事で気が弛んだのかもしれない。
 と、思ったら突然「シャワー浴びる」と立ち上がった。そうして予想通り右へ左へよろける。
 慌てて兄さんを支える。
「待って……、湯舟にお湯を溜めるし、着替えを出すから。……一人で大丈夫? お風呂で溺れないでね。なんなら一緒に入ろうか?」
 こんな状態で入浴したら溺れるんじゃないだろうか?
「一人で、大丈夫……。大丈夫。何も、心配するな」
 呂律の回っていない兄さん。止めさせた方がいいとは思うけれど、砂漠地帯の南から帰ってきて、ボク達の身体はどことなく埃っぽい。シャワーを浴びてさっぱりしたい気持ちも判る。
 兄さんをバスルームに押し込み、髪を解いて上着とズボンを脱がせ、兄さんがその辺に捨てた服と下着を拾ってまとめる。
 兄さんは湯舟に浸かって気持ち良さそうに目を閉じている。
「お風呂の中で寝ないでよ」
「大丈夫、だいじょーぶ」
 ヘラヘラと笑う兄さんに一抹の不安を残しながら、ボクはバスルームを出た。
 ルームサービスのコーヒーが来たので受け取る。
「鋼のは弟に甘えっぱなしだな。これではどっちが兄か判らない」
 大佐が首元を弛めながら言う。
「すいません、兄さんが御迷惑をお掛けしました。大佐に会って緊張が弛んだんでしょう。大佐も沢山飲まれたんですか?」
「鋼のを送らねばならないと思っていたのでシラフでいるつもりだったんだが、鋼のの告白を聞いてつい酒に手が伸びてしまった」
「兄さんの告白?」
「鋼のとキミは愛しあってそい遂げるのだそうだな」
「…………」
 突然言われ、咄嗟に顔がつくれない。動揺したというより、どんな顔になればいいか判断がつかなかったのだ。つまり今ボクが晒している顔はまっさらな素顔だ。
 ボクは一体大佐にどんな顔を見せているのだろう? 鏡を見たい。
 ボクを見て大佐はまいったという顔になる。
「…鋼のの言った事は本当らしいな。……信じられん」
「兄さんが何を言ったのか知りませんが、ボクが兄さんとそい遂げるというのは事実です」
 批判は受け付けないと笑顔で言葉を弾く。
 兄さんはどうして大佐に言ったんだ? 気になる。
 大佐は難しい顔だ。
「……覚悟はとっくにできているという事か?」
 大佐はボクの顔から中身を正確に読み取る。
「はい。……ボクは兄さんを愛していますから」
「だが鋼のと違い、キミは兄に恋しているわけではないのだろう? 将来その関係が間違っていると気付くかもしれんぞ? そうなったら傷付くのは双方だ。そうなる前に兄と距離を置いた方がいい。禁忌の関係は勢いで始められても長くは続かない。時間が神経を磨耗させる」
「お言葉はありがたく拝聴しておきます。ですが……」
 ボクは首を横に振る。
 全く兄さんは大佐に何を言ったんだ。酔った勢いとはいえ迂闊すぎる。秘密が秘密になってない。口が軽すぎる。あまりに不用意だ。これは後でおしおきだな。
 でもボクが言う手間は省けた。
 大佐が疲れて見えたのは、兄さんの突然の告白に動揺したからなのか。色事に無縁そうな兄さんがいきなり弟との近親相姦な関係を告白したら、そりゃあビックリするだろう。悩んで苦しんでボクに告白したくせに、大佐にはあっさり言えるんだな。ちょっと立腹。
 それとも兄さんはボクとの事が重くて、誰かに相談したかったのだろうか?
「キミは兄と……離れるつもりはないという事か?」
「どうして離れなければいけないんですか? こんなに愛しているのに」
「間違った答えだとは思わんか?」
「思います。ですが必ずしも正しい事が良い事だとは限りません。それに時に正しさは幸福とは並び立たない」
「……今は間違いなくそう思えるだろう。だが、時間を置いてもっと大人になって若さと勢いがなくなれば、きっとその関係が重たくなる。人は一人で生きているのではない。他者と関わって生きている。人に言えない関係は壁を作り自分を追い詰める」
「他の人間ならそうでしょうね。……そして兄さんも」
「キミは違うと?」
「はい。兄さんはいずれボクとの関係に追い詰められるでしょう。強くて天才だけれど、所詮兄さんも常識に縛られる『普通』の人間ですから。間違った事をしているという認識が兄さんの心を追い詰める。近親相姦はそれだけ重い。人一人の心を潰すには充分です。……ですが兄さんはボクを手放せない。愛を手放して生きられる人じゃない。ボクの為であれば自分の心さえ曲げてしまう人ですが、ボクは兄さんの逃げを許さない。兄さんが離れられないくらいの愛を注いで兄さんを縛る」
 笑いながら言うと、大佐が何とも言い難いと複雑な顔になる。
「キミは……恐いな。鋼のはキミの素顔を知っているのか?」
「勿論。兄さんにウソの顔は見せない。偽りは偽りを呼びます。全てをさらけ出す事はできなくても、限り無く誠実に接する努力はできる」
「大したものだ。それが十五歳の少年の顔か? 生半可な覚悟で兄を受入れたのではないという事か」
「ボクが兄の愛を否定すれば兄さんは壊れる。兄さんから貰った愛は一生分ある。それだけあれば他の人間のはいらない。そんな余裕はない」
 ボクが自信を持って言うと、大佐は納得しきれないという顔、どういって良いか判らない大人の顔だ。幸福と常識を天秤に掛けて、どちらに傾くか迷っている秤のような顔。他人の幸不幸に判断を下す愚かさを知って、だが見逃したり無視したりするには関わりすぎている。自分の言動に責任をとれないと知っているから言葉を選んでいる。
 ボクは大佐にそんな顔をさせてしまう事を申し訳なく思った。
「鋼のの告白には驚いたが、キミがそれを受入れた方が驚きだ」
「そうですか?」
「アルフォンス……その顔は……」
「何ですか、大佐?」
「鋼のの言った事には驚かされた。だがそれで鋼のが理解できなくなった訳ではない。鋼のは誰に懸想しようがその本質は変わらない」
「ええ。兄さんはずっと変わりません。……変わってたまるもんですか。兄さんは誰にも変えられない」
「だがアルフォンスは……」
「ボクは?」
「私には今のキミが判らない」
「どんなところが?」
「その自信に満ちた泰然自若な様子は、以前のキミではない。鎧だった頃のアルフォンスは鋼のと違ってできた性格だったが、それでも鋼のと同じ年頃の稚拙さが残っていた。子供らしい部分というのか。柔らかく純粋で傷付きやすいく脆いが、傷がすぐに直る強靱さも持ち合わせていた。だが今のキミは子供らしさがない。精神が明らかに老成している。ちょっとやそっとでは傷がつかない強固な壁がアルフォンスの前にある」
「外見が成長したからそう見えるのでは? 見た目と精神は同調するものですから」
「いや違う。確かに性格は外見に引き摺られるが、それでも急にそこまで変化しない。その余裕、どこで身につけた? 鋼のとの事をまるごと受け止めている度量をいつのまに身につけた? キミの目はもう子供のそれではない」