命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・参



#11



「……んで、大佐。その物言いた気な顔止めろ。メシが不味くなる」
 エドワードはロイを睨んで、注がれたワインでパンを流しこんだ。
「鋼の。……高いワインなのだから、もっと味わって飲みなさい。これだから酒の味を知らないお子様は……」
「フンだ。気取って飲んだってうまくないぜ。気楽に飲むから酒はうまいんだろ」
「確かに一理あるな」
 ロイは自分は水を飲んで口を潤した。
 さっきとんでもないモノを見て、聞いた。
 錬金術師として生きてきて三十年。信じられないものを沢山見てきたが、これほど荒唐無稽な事実はない。
 奇蹟を事実に貶めた現実に、目眩がした。
 酒でも飲まなければやっていられない気分だが、飲めば底なしに飲んでしまいそうなのと、エドワードを送り届けなければいけないという義務感から、酒は一杯で止めておいた。代わりにエドワードが水のようにワインを飲んでいる。この分ではきっと明日は二日酔いだろう。
 エドワードを連れてきた店はホテルの裏にある酒場だ。このパブの利点は食事と酒が美味な
のと、個室がある事だった。
 ロイは会話を他人に聞かれたくなかったので個室を選んだ。
 エドワードの様子は奇蹟を起こしたというのに、いつもと変わらない。弟に言い含められたのが効いたのかそんなに喧嘩腰でもないし、口が悪いのも食欲が旺盛なのもいつものエドワード・エルリックだ。ただ張り詰めた気持ちが弛んでいるようで、幼い素顔が見え隠れしている。
「鋼の。……そろそろ本題に入ろうか」
「本題って?」
「賢者の石とアルフォンスの事だ」
「それが……?」エドワードが警戒する。
「キミらは本当にあの賢者の石を南の町で見つけたのか?」
「本当にって? オレ達がウソを言っているって言うのか?」
「全部がウソだとは思わない。だが……胡散臭すぎる。あまりに荒唐無稽で突然だ。いきなり信じろと言われて素直に信じられると思うか?」
「それは……オレもそう思う。だけど全部本当だ。賢者の石を見つけた経緯も本当の事だし、その石を使ってアルの身体を作った事も真実だ。それは誓って言える」
 エドワードの真直ぐな視線に、ロイは判らなくなってきた。
 エドワードがウソを言っているようには見えない。エドワードは頑固だが基本的には素直でウソがつけない。ロイのような百戦錬磨を相手に堂々と狡猾な立ち回りができるほど、中身がまだ練れていない。
 だが何かが違うとロイの本能に訴えかけている。今回の奇蹟には何か裏がある気がしてならない。
 だが何が? エドワードはウソをついてはいない。なら何がこの違和感を作り出している?
「鋼の。……アレは南の町で見つけたという事だが、もっと詳しい経緯を知りたい」
 賢者の石の名前は出さない。個室で誰にも聞かれないのは判っているが、用心は怠らない。
 エドワードも判っているのか、声をひそめながら言った。
「アレは……二週間前、南の町の図書館で見つけた。詳しくは図書館の地下だ。地下にはもう誰も読まない百年以上昔の歴史書などが埃を被っていた。地下は巨大な穴蔵のようで、湿気とカビと埃の匂いが満ちて、だが人の気配を忘れた静かな場所だった。……忘れられた大昔の資料なら、アレの情報の手掛かりでもあるんじゃないかと期待した。本には雪のような埃が被って中もボロボロだが、面白いものが沢山あった。だが旧アメストリス語で書かれたものが殆どだったので、解読に少し手間が掛かった。……その中に……アレの製造法が載っている本があった」
「ほう、よく見つけられたな」
「錬金術関係の本はまとめてあったから、探すのはわけなかった。半ば隠されるように一番下にあった本を読んで……オレは……絶望した」
「絶望? 何故?」
「何故だと? アレの製造法だぞ? 何が書かれていたかアンタだって判るだろう。オレ達がアレを探しまわったのは世界の何所かに絶対にあると信じたからだ。だが……アレが造られたのは四百年前。しかも材料は人の命だ。製造法が判っても造る事はできない。……本を読んで、アレがもうこの世に無いとオレは思ったんだ」
「……だがあった。しかもすぐ近くに」
「ああ。信じられない事にな。アルフォンスが見つけた」
「アルフォンスが?」
「南の町には一ヶ月ほど滞在した。オレは資料を読みあさりっぱなしで、片付けはアルがやっていた。貴重な資料を公開してくれた礼だとか言って、アイツはあのゴミ箱のような資料室を片付けていたんだ。そうして、ある日興奮しながら走って帰ってきた。アルの手には……アレがあった」
「アルフォンスが見つけたのか」
「そうだ。アルはアレを資料が積んであった下の、隠し扉から見つけたと言った」
「隠し扉? そんなモノがあったのか」
「誰も入ろうとしない寂れた図書館の地下室。その中は歴史学者や錬金術師でないと判らないカビの生えた高度な専門書の山が本棚以外にも適当に積まれて、足の踏み場も無い。価値を知らない人間からみたら殆どゴミ箱だ。誰もその更に下にお宝が眠っているなんて知らなかったんだろう。あの隠し扉を開けるには、上の本を全部どかさないといけないんだから」
「だがアルフォンスはその資料室を整理して、隠された宝の入口を見つけた」
「アルフォンスはアレを見つけて……オレに差し出した。オレはアレを持って……本物だと確信した。触れば判る。あの力。偽物からはあんな異常な気配は感じない。少し力を込めればすぐに錬成反応が起きた。あれは絶望と、相反する命の輝きが同時に存在する奇形の力だ。アレがもう見つからないと絶望していただけに、オレは……」
 エドワードはワイングラスの中の紅色に、石を思い浮かた。紅い、紅い石。禍々しく、美しい、天上の石。初めて手にした時の感動は忘れる事ができない。たとえそれが人の命を代価にして造られた物だとしても、アルフォンスの身体を元に戻せる宝だった。
 ロイにはその時のエドワードの気持ちが何となく理解できた。
 長年探し続けた賢者の石。もう無いかもしれないと思っただけに、見つかった瞬間の驚きはいかほどだったろう。
 弟の差し出した賢者の石に飛びついて、それが本物だと判ると弟を錬成した。話の筋書きには無理が無い。だが何か引っ掛かる。
「鋼の……。アルフォンスの身体はどうだ? ちゃんと医者には見せたんだろう? 健康体だというが、本当に何も異常はないのか?」
「アルの身体の事はオレも心配だから複数の医者に見せた。場所と人を変えて痕跡が残らないように、手間を掛けてちゃんと調べた。どの医者もこの青年は健康体でどこも異常がありません、だとよ」
「ついでに医者に優しそうなお兄さんと可愛い弟さんだね、とても言われたか?」
「……言われてねえよ!」
 エドワードが吠える。
 これは似たような事をきっと言われたなと、ロイは微笑んだ。
 アルフォンスの身体の事を心配して、エドワードはきっと弟の側を片時も離れなかったに違い無い。その姿は仲の良い兄と弟にしか見えなかっただろう。アルフォンスの姿はどう見てもエドワードより年下に見えない。だが兄弟は兄と弟が逆なのだ。
 今のエドワードとアルフォンスを見て、これが兄と弟だと信じる人間は少ないと思う。アルフォンスはどう見ても十五歳には見えない。エドワードは十六歳と思えないほど幼いし、誰があの兄弟が一つ違いの兄と弟だと信じるだろうか?
「アルフォンスのあの姿。あれはどうした事だ? アレの悪影響か? いくらなんでもあれで十五歳というには無理がある」
 ロイの言葉にエドワードはよく判らないと返す。
「錬成は成功だった。だが……アルの姿がああなってしまった理由は判らない。いくらなんでも成長が早すぎる」
「確かに十五歳には見えない。それに……」
「それに?」
「外見だけじゃなく、中身も変わって見える」
「中身? 何言っているんだ?」
 エドワードは文句があるのかとロイを睨んだ。
「アルが……あの魂がオレの弟じゃないって言うのか? あれは間違い無くオレのアルフォンスだ。オレが魂を錬成したんだ。アイツの魂の形は全部覚えている」
「あれがアルフォンスじゃないとは言っていない。だが三ヶ月前に会ったアルフォンスと比べると……少しだけ違和感を感じるんだ。何かが違う。……鋼のはそうは思わないか?」
「……それは」
 エドワードは咄嗟にどう言おうか考える。
 ロイの言った事をエドワードも感じていた。アルフォンスに違和感を感じる。魂の形は歪んでいない。アルフォンスの魂はエドワードが右手を犠牲にして錬成したものだ。アルフォンスの魂がどんなだか、細部まで覚えている。どこにも損傷はない。
「アルは……アルだ。オレの大事な弟だ。魂だって前のままだし、見た目が変わったんで、それで慣れないだけだ。きっとこっちの受け取りかたが変わったんでそう感じるだけだ」
「今の姿にまだ目が慣れないだけなのか?」
 ロイの疑問に、エドワードはそうだと自分に言い聞かせた。
 確かにアルフォンスには変化が見られる。前よりも堂々として自信に溢れて見えるのに、底にある思慮深さは前以上だ。エドワードを兄として敬意を払っているのに、同時に年下の子供のように扱う。アルフォンスの態度に腹が立たないのはそれがあまりに自然だからだ。ごく自然にアルフォンスはエドワードを見下ろす。その視線があまりに柔らかく優しく、だが悲しみと辛さが見え隠れしてエドワードはアルフォンスの心中を探れない。
 アルフォンスが人体錬成によって変わったのだとは思わない。アルフォンスは鎧だった時からああいう感じだった。エドワードを案じ、愛していた。
 そうだ。アルフォンスが少しだけ変わったと思ったのは、エドワードが絶望して思わず告白してしまった時からだ。あの時からアルフォンスは以前のアルフォンスではなくなった。
 エドワードは弟に到底受け入れられるとは思っていなかったので、アルフォンスが当然のように両手を拡げてエドワードを抱き締めた時には、現実が信じられなかった。どうしてかアルフォンスこそがエドワードの心に怯えるように、縋り付いていた。
 アルフォンスは何を考えていたのだろう? たった一人の家族を無くしたくなくて、深く告白の意味を考えなかっただけなのだろうか?
 兄に愛されて幸せだと言った、アルフォンス。その言葉にウソは無い。確かにエドワードはアルフォンスに深く愛されている。
 だけれど、それを訝しむ自分がいる。アルフォンスの心が読めない。全部判っていたわけではなかったが、今までアルフォンスの事は判っているつもりだった。鎧姿でもアルフォンスと気持ちの上で繋がっていた。だが今のアルフォンスはよく判らない。
 前みたいに愛されて大事にされて、叱られて、何も変化はない筈なのに、アルフォンスが何処か遠い。まるでエドワードを通して他の誰かを見ているかのように。
 まさか。アルフォンスにそんな相手がいるわけない。いたら判る。アルが愛しているのはエドワードだけだ。ばっちゃんやウィンリィは別格だが、アルフォンスの瞳の中にいるのはエドワードはただ一人だ。
 なのに、どうしてアルフォンスを遠く感じるのだろう?
「鋼の? 大丈夫か?」
 物思いに耽ってしまったエドワードにロイは酔ったのかと心配する。
「なんでも無い。……アルの変化の事は……よく判らない。アルが変わったと感じたのは賢者の石を見つける前からだから、錬成の影響じゃないと思う」
「賢者の石を見つける前から? 何時ぐらいからだ?」
「……賢者の石を見つける少し前」
「どうしてそう感じた?」
「何となく」
「アルフォンスの内面を変えるきっかけでもあったのか?」
「きっかけ……」
 思わず言葉に詰まるエドワード。理由は明確すぎるくらい明確だ。だが実の兄に恋心を告白されてそれから変わったなどと、言える筈も無い。
 エドワードが赤くなって視線を逸らしてしまったので、ロイは心あたりがあるのかと思った。しかし……。
 何だ、このエドワードから漂う、えも言われぬヌルイ空気は?
 エドワードの仕種には秘密が感じられるが、同時に隠しても溢れる幸福も感じる。
 何となく聞かない方がいいような気がしてきた。
「鋼の? 何か良い事でもあったのか?」
「い……良い事なんて、別に。何もない、何もない」
 慌ててワインをがぶ飲みするエドワードの態度はバレバレだったが、ロイは追究すべきか迷った。この感じは自分にとってあまり楽しい事ではなさそうだ。本能が訴えかける。まるでヒューズの惚気を聞く直前のようなうんざりする気配が漂ってきて、気が重くなる。
「キミは一体何を隠しているのだ?」
「……何もないっ!」
「ある筈だ。鋼のの顔に書いてある」
「え……」
 慌てて自分の顔を触るエドワード。
 単純もここまで来ると哀れで笑うしかない。ただ単に酔っぱらっているだけなのかもしれないが。
「アルフォンスの中身が変わったかもしれないきっかけというのを報告しろ、エドワード。たとえそれが人体錬成と関係なくとも、その前後にあった事なら知っておかなければならない。アルフォンスがあんなに心身共に成長した理由を知りたい。くだらないとキミが思っても、判断するのは私だ。さっさと喋れ」
「あーー。うーー」
 エドワードがテーブルクロスの上で指を動かす。
 気持ちが悪いからそのモジモジした態度を止めろ。