命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・参
大佐が腰を上げた。
「じゃあ……そろそろ私は帰る。鋼のの代わりが用意できたら連絡しろ。軍の電話は盗聴の危険があることを忘れるな。余計な事は喋らず、聞かれて困らない事だけ言え」
「……勧誘はするけどあまり期待しないでくれ」
「それでは困るのだよ」
そう言って大佐は部屋を出ようとし、振り向いた。
「そうだ。私は夕食がまだなのだが、一緒にどうだ? 男と食っても楽しくないが、まあたまにはいいだろう。目的も果たした事だし、祝いに御馳走してやるぞ」
「大佐とメシ? 奢りかあ。でもいいや。アルがいるし、ルームサービスで済ませるよ」
兄さんは大佐の誘いをあっさり断った。
「兄さん行ってきなよ」
ボクは兄さんの背を押す。
「アル? ……だってオマエが……」
「うん。ボクはまだ顔を外に晒せないから部屋の中で食べるけど、兄さんだけ大佐と行ってきなよ」
「え、でも……」
「ボクらはまた旅に出てゆっくりできないんだから、たまには大佐とちゃんと話をしなよ。ボクは鎧を磨いたり本を読んだりすることあるし。それに身体がある事を忘れていたんでちょっと疲れた。しばらく休みたい」
「大丈夫か、アル? なんなら医者でも呼ぶか?」
「兄さん大袈裟だよ。ただボクはゆっくりしたいだけだ。兄さんはボクに構わず大佐と行ってきて。どうせ近くで食事を取るんだろ? 一、二時間で帰ってくるんだから、ボクはその間ノンビリしているよ」
「アルゥ……。オレ別に大佐とメシ食いたいわけじゃないし……」
「ボクが一人になりたいって言ってるの。兄さんはしばらく外に出ていて」
「アル?」兄さんがショックを受けている。
「ほら、大佐が待っているよ。行きなよ」
行きたがらない兄さんの背中を押して部屋から追い出す。
「じゃあ大佐、兄さんをよろしくお願いします。……兄さん、暴れないで大人しくしているんだよ。小さいとかからかわれても暴れないように。もし喧嘩なんかしたらお仕置きだからね」
「アルフォンスの分も後で買ってこよう。鋼の事は任せてくれ」
大佐がボクにすまないという顔で言う。
「いえ、それには及びません。ボクの分はルームサービスで頼みますから。……大佐」
「なんだ?」
「本当に申し訳ありません」
「キミが謝る必要はない。キミらの旅の目的は始めから判っていた事だ」
「いえ。ボクが謝ったのは別の事です」
「別? ……なんの事だ?」
「……色々です。……御迷惑ばかりかけて申し訳ありませんでした」
ボクは深々と頭を下げた。
「鋼のの件はアルフォンスのせいではない。キミらは私を利用し、私はエルリック兄弟を利用した。等価交換だ。だがもうその必要もないだろう」
「……はい。大佐には……感謝してもしきれません」
「アルフォンス……キミはいつも礼儀正しいが、今夜は特にだな。何かあったのか?」
「ありすぎて……。奇蹟が目の前を駆け巡って……まだ動転しています」
「まあ確かに。……人類初の人体錬成成功例だし、賢者の石は発見できたし、錬金術師として生涯忘れられない経験をキミらはしたのだからな」
「はい」
「じゃあなるべく早く鋼のを返すよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
ボクは大佐と兄さんが出ていった扉に向かって、もう一度頭を下げた。
ロイ・マスタング。この人には本当に大きな迷惑を掛けてしまった。
未来の准将にはもう言葉は届かないので今の大佐に詫びるしかない。ボクの我侭のせいで未来のロイ・マスタング准将は、未だ重たい記憶を抱えているはずだ。それはずっと続く錘だ。
今の大佐には何の事か判らなかっただろうが、ボクはそれでも謝らずにはいられない。
………ゴメンナサイ、大佐。今も未来もアナタには迷惑ばかりをかけている。
でも兄さんの事では引く事ができないんです。
大佐の目付きが少し気になる。カンの鋭い人だ。ボクついて何か勘付いているらしい。ボクの身体の事と賢者の石を、今頃きっと理論立てて考え続けているに違いない。
そうして。兄さんとボクが何か隠してないか、探りを入れている筈だ。
だけれど兄さんは何も知らない。
何が嘘で何が本当なのか、知っているのはボクだけだ。……ボクだけが罪人だ。
大佐と兄さんは互いに話したがっていた。兄さんはボクの事を相談する人間が必要だし、大佐も兄さんに色々確かめずにはいられない。だから二人きりにした。
兄さんはウソの下手な人だから、大佐にはボクら関係がバレてしまうかもしれない。
まあそれはいい。ボクはこの関係を恥じてはいないし、誰に知られても平気だが、知られれば畜生と詰られるだろう。
それによって兄さんが傷付くのがイヤだ。兄さんはきっとボクが責められるのは自分のせいだと思い込んで、また悩む。
それがどうしたと、開き直って堂々としてくれればいいのに。
ボクは神様を信じない。男同士だから子供をつくる心配もいらない。
ボクと兄さんを隔てるものは常識という目に見えない、過去の人間が面々と築いてきた無形の世界の理だ。
だがそれは時の流れによって変わってゆくものだから、何が本当に正しいのか、その正否には絶対はない。
だからボクは常識という理に従う必要性をあまり感じていない。大昔であれば兄弟で子供を作る事も当然だったし、強姦で結婚が成立する事も当たり前な風習があった。子供が親を殺すのも親が子供を奴隷にするのも、全部それが常識となっていた世界が歴史や過去にはあるのだ。
いや、今なお外国では酷い常識がまかり通っている。
それを考えると、今ボクらが禁忌としている事が、未来ではごく普通の事になるかもしれない。
宗教とか道徳とか、所詮人間が決めた理を、神様が決めた事のように世の正道とするのはとてもおこがましい。
ボクは兄さんを愛している。それを間違った事だと言うなら、そんな常識も神様もいらない。
大体神様が全能なら、そんな気持ちをボクら兄弟に初めから植えつけなかっただろう。
神様が全能なら、この世は穏やかな神の小羊しか存在しない。
そんな世界ならロイ・マスタングは野望など持たなかった。
本音を隠してボクは羊の仮面を被って兄さんの側にいる。
大佐はボクの仮面の下にある素顔を察したのかもしれない。隠しても獣の気配は同類には嗅ぎ分けられる。大佐も戦う人だ。隠してもボクの殺気を含んだ気配に感じるものがあったのだろう。
そうだ。この身体は兄さんが作ったもので、まだ人を殺した事のないまっさらな肉体だが、中身の精神と魂は返り血に染まっている。五千の人間を元に賢者の石を作ったボクは人の皮を被った悪鬼だ。
だけれど綺麗だった頃に戻りたいと思わない。力がなければ兄さんを守れない。ボクには力がある。経験もある。人を殺すのも躊躇わない。
もし兄さんに何かあればボクは兄さんに判らないように、笑顔のまま人を殺すかもしれない。いや、殺してしまうだろう。兄さんを傷付ける者に遠慮はいらない。ボクはその覚悟でこの手を血に染めた。
未来で軍人となって一年半。前線での体験は悲惨を極めた。沢山人を殺した。銃弾の雨の中、隣で同胞が血まみれで事切れた。その血が顔にかかり、目に口に入ってきた。恐怖で夢中で銃を打ち続けた。敵が全員倒れても、ボクらは弾がなくなるまで銃を乱射し続けた。上官には弾の無駄遣いだと叱咤されたが、現実の恐怖に勝るものはなかった。そうして皆人を殺す事に対して麻痺していったのだ。
今の兄さんはこんなボクの姿を知らない。
人を殺さない綺麗な兄さん。ボクは兄さんを守る為ならいくらでも引き金を引く。
だけれど兄さんが悲しむからそんな姿は見せない。残してきた『未来』の兄さんならこんな気遣いは必要ないのだけれど。
でも『未来』で人を殺して殺戮マシーンになっても、兄さんは綺麗だった。感情の欠落した兄さんは人形のように緻密で精巧で、とても現実の存在には見えなかった。
ボクは過去に引き摺られる思考を無理矢理追い出す。
考えてはいけない。ボクが捨てたものに未練を残してはいけない。
ボクは未来の兄さんを捨てた。そんな酷い事をしても兄さんの愛を取り戻したかった。なら捨てたものに未練を残すのは、両方の兄に対して失礼だ。
判っているのに、ボクは『未来』の兄さんを思わずにはいられない。
酷い男だ。最低だ。
現在の兄さんとは違い過ぎるあの人。魂だけ愛を覚えていて違和感が気持ちが悪いと言っていた心のない人。
あんな兄さんは兄さんじゃないと捨てたのは……愛していたからだ。あんまり愛していたから愛されない事であの人を憎んだ。自業自得ゆえに誰も責められず悔恨の嵐だったから、愛を無くした人に憎しみを向けるしかなかった。ボクを愛して欲しいと乞食のように縋っていた。餓鬼のように愛に餓え続けた。
そうして一番大事な人を壊して逃げたのだ。
……兄さん。アナタは今幸せですか?
ボクは今とても幸せです。
だって兄さんの愛に包まれているから。
ボクを忘れて幸せですか?
兄弟がいないというのはどんな感じですか?
アナタを捨てたボクだけれど、実はとても言い辛いのですが……愛しています。とてもとても愛しています。
無くして憎まずにはいられなかった程、愛しています。
せり上がってきた嗚咽を咽で止める。
目眩がした。壁に寄り掛かって衝動を抑える。
忘れなければならない。ボクは今隣にいる兄さんと幸せになるのだから。今の兄さんだけを愛して全力で幸せにしてあげなければいけない。
……でも。
否定すればするほど愛は募った。
恋しいと兄を呼ぶ。今はもう会えない人に愛を捧げる。
この痛みが罰だ。一生苦しまなければいけない。許されてはいけないのだ。
「ゴメン………兄さん」
両方の兄に謝罪した。
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