命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・参



#08



 ……でも何時になったらボクらは平和に暮らせるのだろう?
 ボクは兄さんがいれば一生逃亡生活でも構わないと思っている。だけれど兄さんはそんな事はしない。逃亡生活がボクにとって不幸な事だと思っているから。
 頑な兄さん。ボクの言う事など聞きはしない。まあそれが兄さんなんだけれど。
 兄さんがそうしたいならボクはそれに付き合うだけだ。ボクが生きるのは兄さんがいるからだ。
 この人が望むならいくらでも戦おう。ボクは兄さんの楯となり剣となる。

「話は判った。……ところで鋼のはまだ機械鎧のようだが、君の手足は直さないのか?」
「オレの手足が機械鎧だというのは皆が知っている事だ。突然生身に戻ったら、どうしてそうなったのか追求される。そうなれば賢者の石の存在がバレる」
「そうだな。だがアルフォンスは? アルフォンスの中身が空だという事は、知っている者は知っている。スカーとの一戦で多くの兵士がアルフォンスの中身のない姿を見た。箝口令を敷いてあるが人の口に戸は立てられない。上層部が本気になって探ればアルフォンスが魂だけだったと知れる。そうなればどうやって人体錬成を可能にしたのか手段を知りたがる筈だ」
「分っている。だからしばらくはアルの姿は隠しておく。折角人の姿に戻ったけれど、当分の間は鎧を着たままで過ごすつもりだ。そうして序々に顔を見せていこうと思う」
「そうだな。しばらくはそうした方がいいだろう。いっそアルフォンスだけリゼンブールに帰ったらどうだ? その方が安全だろう」
 大佐の提案をボクは一蹴した。
「それはできません。ボクは兄さんと離れて暮らすのはイヤです」
「オレだってアルはリゼンブールに帰った方がいいと思うんだが、アルが承知しないんだよ。それにオレもアルと離れて暮らすのはイヤだ」
 兄さんとボクをみて大佐は呆れ顔になる。
「キミら兄弟はいつもベッタリだな。アルフォンスが鎧姿の時はともかく、肉体を得た今なら一緒にいる必要はないんじゃないのか?」
「必要だから一緒にいるんじゃない。居たいからいるんだ。アルはずっとオレの側にいたんだ。そしてこれからも離れて暮らすなんて考えられない」
「鋼の。ブラコンもそこまでいくと恐いぞ。いつまで子供のつもりでいるんだ。そろそろ大人になって弟離れしたらどうだ?」
「人はいやがおうにでもいずれは大人になる。それまでは子供のままでいるさ。姿だけ成人した半人前なんか世の中にゴロゴロしているじゃないか。無理に大人になろうとは思わない。自分の成長は自分で決める」
「やれやれ。その頑なさが子供だと言うんだ。……アルフォンスの意見も同じなのか?」
「はい。ボクは兄さんとずっと一緒に居たい。その為ならなんでもします」
 大佐は天井を仰ぎ見た。
「やっぱりキミら二人は子供だな。……だがその子供が大人にも出来ない事をやってのけた。……いや、子供だからこそ『できない』と思わなかったのか? どちらにしろ二人は目的を果たした。……それじゃあ私はこれからどうすればいい?」
「その事で御相談が」
 ボクは言った。
「オレ……軍を辞める。もう軍に用はない」と、兄さん。
「鋼の……。それは難しい」と、苦い顔の大佐。
「判っている。軍にとってオレはまだ価値のある狗だ。それにオレ達は色々踏み込んではいけない場所に入り、知ってはいけない事を知ってしまった。退役が簡単に認められるとは思わない。だが軍にはいられない。……手を貸して欲しい」
「鋼の、それはあまりに都合が良すぎないか? キミらは軍を利用するだけ利用して、目的が済んだらサヨナラか? 第一私の立場はどうなる? キミらを手放せば私が上層部に叱られるんだぞ?」
「だから大佐が咎められずにオレ達がうまく軍を抜けられないか、相談しているんじゃないか」
「威張って言うな、鋼の。そんな名案があるならキミの方がとっくに考えついている筈だ」
「そりゃそうだ。……でも大佐の知恵だってないよりマシだろ」
「人に相談しておいてなんて言いぐさだ」
「スイマセン、大佐。兄さんの口が悪いのは何時もの事なので聞き逃して下さい」
 ボクが代わりに謝っておく。
「大佐。自分達が都合の良い事を言っているのは判っています。ですが兄さんをこのまま軍属にしておくわけにもいかないんです。今アメストリスは三つの国と交戦中です。イシュヴァールのように国家錬金術師の登用が決定されるのも時間の問題でしょう。そうして鋼の錬金術師が戦場において、どのくらいの力を発揮できるのか上層部は知りたがるはずです。兄さんを戦争の道具にはしたくありません。軍に貸しを返せというのなら、人殺し以外にも沢山道はある筈です。お願いです。力を貸して下さい。……兄さんには人殺しはできません」
「アルフォンス」
 大佐は難しい顔になった。
 ボクの言っている事がこの人にもよく判っているのだ。
 エドワード・エルリックに人殺しはできない。
「確かに。……軍は鋼のをそろそろ戦場に投入しようと考えるはずだ。鋼の錬金術師の名前は売れている。戦場という極限の地でどう動くのか興味をもつ人間も多いだろう。だが私の一存で鋼のを退役させる事は難しい」
「そうですか? いっそ兄さんが大怪我をするとかしてしまえば退役するのは難しくないんじゃないですか?」
「アルフォンス?」
 兄さんと大佐が驚く。
「怪我をしたり大病を煩ってしまってロクに動けなくなれば、軍を辞める恰好の理由になります」
「鋼のは健康体そのものだぞ。病気を装うには無理がある」
「賢者の石を使えばそのくらいは可能です。兄さんは賢者の石によって、正体不明の奇病にかかる。しばらく不自由するでしょうが、機械鎧のリハビリさえ耐えた人ですから、ベッドの上から動けないくらいでへこたれはしません。そうして周りに鋼の錬金術師が軍人として働けない事を納得させて、退役する。軍も身体を壊した子供をいつまでも鎖で繋いでおけないでしょう。軍から無事離れられたら、兄さんを健康体に戻してボクらは故郷に帰ります」
「アル! オマエ天才!」
 兄さんが無邪気に賛同する。
 あのねえ。兄さんを病気にするのは思いっきり不本意だって判ってよ。
 ボクは兄さんの苦しむ姿なんか、見たくないのに。
 この事は前々から考えていた。軍を辞めるには身体が動かなくなってしまうのが一番だ。でも手段が手段なので本当はやりたくない。
「鋼の。……仮病とはいくらなんでも子供っぽすぎはしないか? だがまあ……アルフォンスの言う事も一理ある。賢者の石を使えば身体のコントロールは可能だろう。ロクに動けない者をいつまでも抱えておく軍じゃないからな。だが鋼の……そうなるとキミは本当に病気にかかる事になるんだぞ。それでもいいのか?」
「かまわねえよ。アルとオレの未来の為だ」
「だがキミがそんな形で軍から身を引けば、キミを薦めた私の見識不足だったと言われかねん。それはそれで業腹なのだが……。キミに協力しても私には利益がない」
「ケチケチすんなよ。大総統になろうって人間がこれくらいの試練越えられなくてどうするんだ?」
「これくらいだとキミは言うが、針の穴に糸を挿すように慎重に行動しなければ、すぐに足元をすくわれる。キミのように出たとこ勝負で事をこじらせるのはバカとしか言い様がない。もっと慎重になれ、鋼の」
「そんなに用心深く行動していたら、身動きとれない」
「だがそうしなければ軍では生きていけんのだ。キミも苦労してきたのだからその程度の事くらい学びたまえ」
 上から押さえつけられるように言われて、兄さんがムッとなる。
「兄さん。大佐の言う事は最もだよ。権謀術数の中で生き残るのは慎重で臆病な人間だけだ。勇猛果敢さは時には危険だ。大佐の懸念は最もだ。自重してよ」
「アル……。オマエは大佐の味方なのか」
「どっちの味方とかじゃないでしょ、この場合。秘密を持っている人間には薄氷を踏むような用心深さが必要だって大佐は言っているの。判る?」
「アル……。オマエ最近生意気。身長と同時に態度もでかくなってねえか? お兄ちゃん悲しいぞ」
「ボクの態度が大きいんじゃなくて、兄さんが子供っぽすぎるんだよ。いい加減大人になれば?」
「んだと!」
「でもその頑さが兄さんの魅力なんで、ボクとしても複雑なんだよね。冷静沈着な兄さんも格好良くて惚れ惚れするんだけれど、頑是無い兄さんも滅茶滅茶可愛くて、ボクとしては子供の一面を残したまま大人になって欲しいなと希望しているんだけど」
「アル? オマエ何言ってるんだ?」
 兄さんが訳が判らないとポカンとなる。
「いや、何でもない。……とにかく、大佐には協力してもらわなければ兄さんの退役は叶わないんだから、兄さんは大人しくしてて」
「その言い方が生意気だって言うんだ……」
 ボクが睨むと兄さんが横を向いた。
「そういう訳ですので、大佐。御協力お願いします」
 大佐に頭を下げると大佐は思案顔だ。
 重たげに口を開く。
「鋼のとアルフォンス。……キミらの退役をスムーズにする為の協力をするには、私の方からも条件がある。錬金術師が取り引きするなら代価が必要だ」
「条件?」兄さんが身構える。
「何ですか? 条件というのは?」とボク。
「私は有能な国家錬金術師の部下を一人失うのだ。その損失は手痛い。……鋼のが私の下から離れたいというなら、キミの代わりを見つけて来い」
「代わり? オレの?」
「そうだ。キミにとって替われるような国家錬金術師を推薦したまえ。キミらは四年もかけて旅をしてきた。色々な人間と接触してきただろう。その中には優秀な錬金術師もいた筈だ。そういった人間の中から最適な人間を選出して国家錬金術師に推薦しろ。鋼のの代わりが務まると判断できたら協力しよう」
「オレの代わりか……」
 兄さんが難しい顔になった。