命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・参
ボクの姿を見て、大佐は声もなく驚いていた。
当然か。予告なくこの姿を見て驚かなければ、そっちの方が変だ。
「アルフォンス?」
対峙してみると大佐の視線に違和感がある。
ああ、そうか。ボクは『未来』で大佐からこんな視線を向けられた事がないので、訝し気というか懐疑的な視線を向けられて少し居心地が悪い。
ボクは十五歳の少年らしく頭を下げる。
「はい。御無沙汰しております。突然この姿を見て驚かれたでしょうが、ボクは間違いなくアルフォンス・エルリックです。賢者の石を見つけ、やっと元の姿に戻る事ができました」
「背と……声が……」
「ええ。どういう訳か人の姿になったら一気に成長してしまったんです。声変わりもしているみたいですし、この背でしょ? なんでオマエばっかりでっかくなったんだと兄さんには不評なんですけれど、他は問題なく健康体です」
「君は本当にアルフォンスなのか」
「はい」
大佐は兄の自信に満ちた顔とボクとを見比べて、ようやく納得したようだ。
呼び出したホテルの部屋のソファーに腰かけて大佐が深々と溜息を吐く。
「キミ達はとうとう賢者の石を見つけたのか」
目の前に成功例があったとしても、にわかには信じきれないのだろう。賢者の石も人体錬成も実際に誰も見た事がないのだから。大佐は動揺している。
「はい。賢者の石の文献を探しに南の町に行った時に、文献の近くに埋まっていました。まさかあんな予想外のところで見つかるなんて、ボクも兄さんもビックリしました」
「……賢者の石があるのか?」
「はい」
「見せてみろ」
手渡した石に、大佐の瞳が鋭くなる。
大佐も一流の錬金術師だ。賢者の石に触れればそれが本物かどうか判る。
賢者の石。錬金術師の力を無限に引き出し奇蹟を叶える伝説の石。触れた箇所から力が入り込んでくる、ありえべからざる存在。
大佐は賢者の石をボクの姿を見た時同様、幻を確認するように眺めた。
戸惑っている。目の前にあっても尚信じられないのだ。気持ちはよく判る。
「これが本物の……賢者の石か。これを何所で見つけたのだ?」
「南のアノン地方の町だ。図書館の地下にあった」
兄さんが答える。
「アノン地方か。あの辺りは過去大きく栄えた古い町が多い。今は大部分が鉄道からも外れ寂れていると聞くが……。まさかそんな場所にあったとは……。しかし賢者の石の噂は聞いた事がない。何故そんな場所に……」
「噂になってないから、逆に今まで誰にも見つけられずに済んだんだと思う。文献によれば賢者の石が造られたのは四百年前だ。噂があったとしても四百年も経てば噂自体が無くなる。そうして賢者の石の伝説だけが独り歩きして、真相と石は砂に埋もれて忘れられたのかもしれない」
「賢者の石は四百年前に造られたのか? その文献はあるのか?」
「ここにはない。町の図書館に返した。探せばまだそこにあると思うが……」
「……が?」
「軍には知られたくない」
兄さんの言葉に大佐は「何故だ」と聞いた。
「賢者の石は………文献が正しければ人の命と嘆きを凝縮して錬成される。……そうか、アンタは知っているんだよな。軍が以前研究していた偽物の賢者の石は、本物の模倣品だからな。でも本物はもっと酷い。本物の賢者の石は、何千という人間の命を一瞬にして圧縮してできる。軍の研究が成功しなかったのは命の数が圧倒的に足り無かったからと、錬金術師の力不足だ。……軍が再び本物の賢者の石を造ろうと考えるなら、今度は何人の人間が殺されるか判らない。それこそ何千人が石の為に殺されるだろう」
大佐はしばし言葉を無くした。
兄さんの言った事を考え、事実の重さに戸惑っている。
「……そうか。……賢者の石。人の命が込められているから……等価交換を無視した錬成が可能なのか……」
大佐は手の中の石をしげしげと見、そして言った。
「ここに本物があるんだ。軍はこれ以上賢者の石を必要としないだろう。本物を造ろうとすれば大量の人間を犠牲にしなければならない。そこまですれば世論が黙っていない。消える人間は十や二十じゃないんだ。流石の軍も机上の理論と諦めるだろう」
「だといいんですが………でも、軍はそんなに甘くないでしょう、大佐?」
自分に言い聞かせるように言う大佐の言葉を、ボクは上から否定した。
「アルフォンス?」
「ボクは知っています。人間の欲望には際限がない。そして軍という集団には人としての感情がない。名前だけで力を示せる団体の前では、人間としての尊厳は無いに等しい。獣との合成、キメラに始まる人体実験、内乱を抑えるという名分の弾圧。軍の行動は裏では非道につきます。この賢者の石を見たら、軍は増産を考えるでしょう。一つで満足するわけがない」
そう、ボクは軍人として四年間前線にいた。
そこでは正気では考えられないような事が起こっていた。敵軍の捕虜に尋問の名目で行われた拷問、面白半分で行われた強奪と陵辱、負傷した兵士の人体実験…………挙げればドブに詰まった汚泥のように次から次へと汚いものが出てくる。
勿論それが軍の全てではない。
だがそういう悪行も確かに存在するのだ。
軍では上からの命令は絶対だ。事の善悪に関係なく、逆らう行為自体が悪になる。
「アルフォンス。どうしてそう思う?」
「大佐が自分でそう思っているからです」
ロイ・マスタングの探るような声にボクは言った。
大佐は虚をつかれたような顔になる。
「キミは人の心が読めるのか?」
「読まなくても少し考えれば判る事です。ボクは軍属ではないけれど兄さんの側にいて軍が何をしているのか見てきた。市民が、否、一般の軍人でさえ知らない事を知っている。自分が見たモノから何が起きたのか推測するのは容易い。……軍は餓えた子供のようなものです。お腹一杯食べてもすぐに空腹になる。満たされるという事が無い。黄金を作り出す事は禁じても、賢者の石を造る事は禁じられていない。何故なら誰もそんなもの作れないと思っていたから。だが不可能は可能になった。……軍は賢者の石の造り方を知れば造らずにはいられない。目の前に在る御馳走をみすみす見逃さない。軍は口がいくつもある、子供のバケモノみたいなものです。一つの口を閉じても別の口が御馳走を強請る。賢者の石は軍によって造り続けられるでしょう。……大佐にはそれが分かってらっしゃる筈です」
ボクの言葉に大佐は何も言えない。
そうだ、この人こそ軍がどんな場所か判り切っている。
大佐の視線が剣の先のように鋭くなってボクを見た。
「アルフォンス。キミの言う通りだ。上層部は賢者の石の存在を知れば、それを利用せずにはいられない。ましてや製造法が判れば必ず造ろうとするだろう。たとえそれが人の命を代価にしたものだろうと」
「だって……命を代価っていったって、数人単位じゃないだろう? 何千人も人を殺すなんて、いくら軍でもできるわけがない」
兄さんが吐き捨てるように言った。
「鋼の……軍はそれができるのだ」大佐の声は苦い。
「大佐? どういう事だ?」
「……戦争ですね」
ボクは大佐の言葉を先回りして言った。そうだ、ボクも兄さんも『未来』でそうして賢者の石を造りあげた。
「アル?」
兄さんがボクを振り向く。
大佐が言う。
「そうだ、アルフォンス。軍が人を殺すには大義名分がいる。犯罪者を代価にするにしても数千人も集める事は難しい。だが戦争となれば話は別だ。軍は自国の人間ではなく敵軍の命を代価とする。賢者の石を造ろうと造らまいと各地で戦闘は続いている。敵を葬るついでに石を造ってしまおうと、上層部ならそう考えるだろう。敵ならいくら葬っても、戦争というベールが全てを隠す」
「な……」
顔色を変える兄さん。沈痛な面持ちのロイ・マスタング大佐。
部屋の空気は重い。
「だからそうならない為に大佐に相談したくて、こんな形で呼び出したんです」
大佐をこのホテルに一室に呼び出すさいも再三の注意を払った。
大佐は女性と会うのにこのホテルをよく利用するとヒューズ中佐から聞いていたので、大佐が目撃されても違和感ないように同じホテルに泊まり、大佐を呼び出したのだ。
大佐が部下である鋼の錬金術師と個人的に会ったところで勘ぐられる事はないが、念には念を入れた。盗聴器がないか探したし、隣の部屋から聞かれないように壁をもう一枚錬成した。
それだけ賢者の石の存在はタブーなのだ。
「キミの身体の事と賢者の石。秘密にしなければならない事は多い。……何故キミ達は人体錬成を成功させた時に逃げ無かったのだ? 軍に関わる危険性は充分考えただろう。逃亡犯として追われる方がまだ安全なのではないか? 賢者の石を使えば姿形だって変えられる。何故逃げなかった?」
大佐に聞かれてボクらは顔を見合わせた。
逃げるという選択。考えない訳ではなかった。
兄さんが大佐の前の椅子に座る。
「確かに逃亡も考えた。賢者の石を使えば逃亡も楽だろう。だがそれでは故郷に二度と帰れない。ばっちゃんにウィンリィ、それに母さん。……今までだって散々心配を掛けてきたんだ。これ以上苦労を掛けたくない。逃げるならいつでもできる。逃げるなら……自分ができる事を全部やりとおしてからだ」
「ええ、そうです。大佐。ボクらは逃げない。逃げるだけなら簡単だけれど、努力無しに逃げれば後悔が残る。だから現実と戦っていきます」
大佐はボクらを見比べて、得心したようだ。
そうだ。逃げるだけなら何時でもできる。ボクらはいつでも戦ってきた。賢者の石を見つけて目的を果たしてもボクらの戦いは続く。
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