命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・弐



#06



「アル? 何を考えているんだ?」
「これからの事。どうしたらボクらが離れずに幸せに暮らしていけるか考えている。そうして兄さんがボクを信頼してくれるのかを」
「オレはアルを信頼しているぞ? 疑われるような言動をオレがとったのか?」
「ううん、違う。ただ兄さんはボクの兄さんに対する愛を信じてないからね」
「そんな事あるわけないだろ」
 ボクは甘い毒を注ぐように辛辣に言った。
「あるよ。兄さんはもしボクに他に恋人ができでもしたら、潔く身を引こうと考えている。ボクが一生側にいることを信じてない」
「……っ」
 気まずげに兄さんが下を向く。……図星か。
「兄さん。信じてよ。ボクはこれより先に兄さん以上に誰かを愛する事なんてない。もし他に心惹かれる人間ができたとしても、兄さんより上になるなんて事絶対にないんだ。ボクが命を捧げても惜しく無いほど愛しているのは、母さんと兄さんだけなんだ。頼むから信じて」
「……信じているよ」
 無理に微笑む兄に腹が立ってくる。
 絶対に信じていないな、兄さんは。自分の幸福に懐疑的な人だから、弟の言葉でさえ信じ切れないのだ。そんな不幸体質早く捨てちゃえばいいのに。
『心』を無くした未来の兄さんにはこの憂いの陰がなかった。愛を知らないって事は本人はたいして不幸じゃない。不幸なのは愛を取り上げられた人間だ。
 未来の兄さんと今の兄さんはどちらが幸福なのだろうか?
 ……いけない、どうしてボクは二人を比べているんだ?
「兄さん。信じられないって言うのなら、何も信じなくていいよ。その代わり、ボクが兄さんをいらないって言うまでずっと側にいて。ボクに恋人ができようが誰と付き合おうが兄さんはボクの側にいるんだ。ボクから兄さんを取り上げないで。ボクにすまないと思うなら責任取って一生側にいて」
「オマエが望むなら一生側にいてやるさ」
「本当だね?」
「本当だ」
「もし……嘘をついたら、ボク死んじゃうかもしれないよ?」
 冗談のようでも本気の言葉。
「アルっ! 死ぬなんて冗談でもそんな事言うな!」
 怒る兄さん。だけどボクの方がもっと怒っている。ボクへの愛を捨てた兄さん。ボクの自業自得だけれど、やっぱり許せないんだ。
「冗談じゃない。ボクはもう独りで生きるのはイヤなんだ。もし兄さんがボクの為とかなんとか、ひとりよがりの考えでボクから離れたら……生きていけない。兄さんのいない世界なんて生きていたくない」
「アル……オレはオマエをおいて何所にも行かない。いったい何処に行くって言うんだ?」
「絶対?」
「絶対だ」
 ボクが両手を広げれば兄さんが飛込んでくる。ボクに見下ろされてムッと腹を立てる兄さんだけれど、額を摺り合わせると緊張してしまった。
 キスされるかと思った?
 ボクはキスの代わりに本心をさらけ出す。
「ボクは死ぬまで兄さんと一緒にいて、そうして兄さんを看取る。死ぬ間際までアナタはボクのモノ。ボクだけを視界に写してそうして死ぬんだ。ボクは兄さんより先には死なない。置いていかれるのは辛い。独りになるのは絶望だ。だから兄さんにはそんな思いはさせない。これ以上辛い思いなんかさせない。ボクは兄さんを幸福にしてあげる。だから兄さんはボクだけを見て、愛して」
「アル……それはオレのセリフだ。オマエに辛い思いはさせたくない。だけど……」
「ボクより後には死にたく無いんだろ? ボクに看取られてこの世界からいなくなりたいんだね? ……知っているよ」
「何でオマエはオレの事が判るんだ?」
「さあ?……愛の力じゃない? …っていうか兄さん単純だからね。兄さんの考えていることなんてお見通しさ」
「アールー。オマエ最近お兄ちゃんに対して尊敬の念が見えないぞ」
「無いものは見えなくて当然じゃない?」
「……オマエ、オレの事尊敬してないの?」
 兄さんの不安な顔にベーと舌を出す。
「牛乳嫌いの兄を尊敬しろって言われてもねえ。……牛乳飲めるようになったら尊敬してあげるよ」
「さり気なく白色タンパク質を勧めるな! どうしてオマエはそうなんだ……。…っとに真面目な話をしているのに……」
 ボクはクスリと笑った。
「こういう軽口がきけるならもう大丈夫だね。安心した? 兄さんずっと気を張り詰めていたでしょ?」
「気が付いていたのか」
「当たり前だよ。ボクは兄さんの事ずっと見てるんだから」
「アル……」
「ずっと一緒にいよう。兄さんがいてくれればボクはそれだけで幸福だ」
 真剣な声で言えば兄さんはどう反応していいか判らない顔になる。嬉しいのだけれど、それを素直に表していいかどうか迷っている顔だ。
 自分の望みと弟の望みが同じものだと信じていない、でも信じたいと願う顔。
 我侭なのに臆病な兄さん。勇気も意地も胆力も持っているのに、心の奥に泣いている子供を抱え込んでいる。
 ジッと兄さんを見れば兄さんはボクの視線に留められて動けないでいる。蛇に睨まれたカエルみたいに。
 この人がいるからボクは生きられる。この人がいるからボクは混乱して辛い。この人がいるから……ボクは還ってきたのだ。
「アル……何、マジな顏になって……」
 ボクが何も言わないので兄さんは居心地が悪そうだ。
「……アル? 何か言って……」
 どうしてだろう。チクリと何かが胸を刺した。
 兄さんを見ていると胸が痛い。
 そんな痛みを抱える理由はない筈なのに。これから二人で幸せになれる筈なのに、人に戻ったボクは兄さんを見ているのが辛いのだ。
 愛している。この人を失ったら生きていけない。それは間違いない筈なのに、何かが兄さんとボクの間を隔てている。
「……アルフォンス?」
「兄さん」
 ボクより小さい兄さん。兄さんとボクが並ぶと兄弟は逆に見えてしまう。何故なら今のボクの姿は十五歳のものではないから。ボクの身長は百八十センチ以上あり、顔も身体も成人しているようにしか見えない。とても十五歳の少年の姿ではない。
 そうして兄さんは十二歳の頃からあまり成長していないのだ。十六歳なのに、その姿は痛々しいくらい幼い姿を留めている。
 兄さんが成長しないのは機械鎧着用のせいばかりではないだろう。
 兄さんは心の何処かで成長を拒んでいる。弟が人の形を失っているのに自分だけ成長し大人になり、弟との間に距離ができるのを恐れている。
 兄さんは口では成長を望みながらも、大人になる事を無意識に拒んでいた。だから兄さんは今でも小さいままだ。
 ボクは賢者の石で人の姿に戻れたけれど、それは本来ある十五歳の身体ではなかった。
 ボクは一度二十歳まで成長している。過去に戻ったボクだけれど、魂や精神は若がえらない。だから賢者の石はボクの肉体を二十歳の身体にしてしまった。
 兄さんはボクだけ大きくなったと言って錬成の失敗を案じているけれど、これは本当のボクの姿なので錬成は成功している。……なんて本当の事はとても言えないけれど。
「兄さん……愛している」
 内側から滲み出す感情のままに自然に言葉が出た。
「アル……いきなりなに……」
「愛しているから……絶対に離れないでね」
「当たり前じゃないか。どうしてオレがオマエの元を離れると思うんだ?」
「兄さんは自己犠牲を平気でしちゃう人だから。ボクの為と思い込めば何でもする。ボクから離れる事だって躊躇わない」
「アル……」
 兄さんを抱いた腕に力を込める。
 兄さんの手がボクの背に回る。
 兄さんの肩に頭を乗せる。
 胸が詰まった。
 この人を取り戻す為に、ボクはもう一人の兄さんを切り捨てた。
「アル……どうした? ……どうして泣いているんだ?」
 泣いてなんかいない。ボクには泣く資格なんてないんだ。
「アル? 泣かないでくれ。何が辛いんだ?」
 辛いのはボクじゃない。本当に辛いのはボクが置いてきてしまった人達だ。『未来』の兄さん。
「アル?」
 どうしてこんなに胸が痛いのか判った。自分が幸せだと思うからだ。今が幸せだから不幸にしてしまった人を思い出さずにはいられない。ボクの幸福はあの人の不幸の上にある。
『未来』の兄さん。ボクの事を忘れて幸福になってくれるといい。切にそう願う。
 兄さん、兄さん。ボクが置いてきてしまった、心のない、不幸の意味を知らない人。今頃は心を取り戻し、代わりに弟の存在を忘れ新たな人生を歩んでいる事だろう。
 ボクを見ても誰だか判らなかった兄さんは、昔みたいに笑っていた。
 ロイ・マスタングは信頼のおける人だ。きっと兄さんのいいようにしてくれる。
 ボクが兄さんの幸福を願うなんておこがましい。ボクはあの人を捨てたのだ。
 でも……幸せになって欲しい。
 今が幸福だからこそ捨てた人が重い。許して下さいと言える相手はもういないのだ。
 目の前の兄はボクの待ち望んだ人だ。ボクが謝るのはこの人じゃない。
「アルフォンス?」
 ボクを呼ぶ兄さんの声。たまらなくなって更に強く抱き締めた。
「アルフォンス?」
「兄さん。……一生側にいて。絶対に……離れないで」
「当り前だ。オレは一生アルの側にいる」
 泣きながら抱き締めるボクの背中を、兄さんはずっと擦ってくれていた。昔みたいに。
 その優しさと温かさが辛かった。
 そしてとても幸福だった。