命につく名前を「心」と呼ぶ



最終章・弐



#05



 抵抗しない兄さんが可愛い。
 けれど横を向いてボクと視線を合わせない兄を見ていると意地悪してやりたくなる。自分ばかり弟を愛しているつもりなのだろう。
 ボクがどんなに兄さんを愛しく想っているかなんて、この人は考えもしないのだ。一度兄を失っているボクは、もうこの人無しでは生きていけないというのに。
 ボクの事を何も判っていない兄に意趣返ししたくなってきた。
 四年間、『兄』に散々な仕打ちをされた事が甦ってくる。
 ボクは兄さんに振り回っされぱなしだ。
 たまにはボクに振り回されてよ、兄さん。
 抱き締めて兄を見るばかりのボクに、どうして何も仕掛けてこないのかと兄さんが訝し気にボクを見る。
 ああ、やっぱりアナタは綺麗だ。何を考えようが何を行動しようが、一人で潔癖な子供のままだ。
 コンチクショウ。その潔癖さが今は面白くない。
 もっとエゴイスティックで汚いところも見せてよ、兄さん。ボクが欲しいって縋れよ。ズルイよ。
「アル?」
「やっぱ止めた」
「え?」
「大事な兄さんにお仕置きでキスするなんていけない事だよね。兄さんが求めてくるまでキスもそれ以上もしないよ。ボクは兄さんが大切なんだ。兄さんが望む事は何でもしてあげる。一生側にいて兄さんの為だけに愛を注ぐよ。でも兄さんの望みは兄さん自身の口から語って。でないとボク一人だけが暴走しちゃうから」
 ボクの向ける真剣な瞳に、兄さんが動けないでいる。きっとこの優秀な頭の中で葛藤が始まっているんだろう。
 つまるところボクは兄さんが求めなければキスもセックスもしてあげないと言っている。兄さんが自分の口から「キスして」だの「抱いて」だの言えるはずもないのだが、ボクから求めるばかりでは寂しい。やはり初めての時は兄さんから求められたいという、ささやかな男心だ。
 二十歳の記憶のあるボクは兄さんと息がかかるくらいの距離で会話する事で欲が誘発されて困るのだが、それでもこちらから強引に求めてなし崩しになるのはイヤだ。
 だって兄さんはボクが求めるならいくらだって与えようとする人だし、それじゃあ互いに一方的すぎる。
 やはり恋人同士になるならば、お互いで求め合いたい。
 ボクは兄さんを抱きたいし、イヤになるくらいキスしてイチャイチャしたい。
 一度タガが外れれば自分がそうしてしまう事を知っている。だからこそ兄さんに求められてタガを外したという形にしたいのだ。
 見栄とかじゃなくて、何でもしてあげるから、口に出して求めて欲しいのだ。
 何も言わずに欲しいものを求めてはいけないと思う。錬金術師は等価交換が原則だからね。
「アル……」
「言って、兄さん。でないとボクは兄さんに何もあげられない」
「オレは……別に……アルの愛だけあれば、それで充分なんだ」
 照れて幸せそうに恥じらう兄さん。
 ボクは肩透かしをくらって少し苛立つ。
 ボクは全然充分じゃない。
 しおらしい兄さんなんてらしくない。いつものようにもっと我侭言って欲しい。
 どうしてこんな時ばっかり我侭控えめでしおらしいんだよ!
 わざと兄さんの耳元に口を寄せる。
「ボクはそれじゃあ満足できない。兄さんの全部が欲しい」
『全部』の意味が判る兄さんは増々赤い。
 そう、好きな相手に求められるのは嬉しいに決まっている。
「欲しければ、そうすればいいじゃないか。所有者がいいって言っているんだ」
 兄さんは強気だ。
 へえ。自分ではおねだりしないけど、ボクがする分にはオッケーだって言うの? それってもしかして誘っている?
「ボクは許可が欲しいんじゃない。判っているくせに」
「わ、わかんねーよ。だって……アルは……オレの事、そういう意味で好きじゃないんだろ? それなのに……こっちから求められるかよ」
「そういう意味ってどういう意味? 形にこだわるなよ。恋してなきゃ欲情しちゃ駄目なの? 全部欲しいって望んじゃ駄目なの? 独占欲と愛だけじゃ兄さんを求める代価に足りないって言うの?」
「いや……代価には……足りなくないけど……」
「なら、兄さんも代価を払ってよ。ボクに兄さんの『意志』を頂戴。ほら、言って。ボクが欲しいと。そうしたら何でもあげる。ボクを望め」
 唇が触れあうすれすれで言葉を交すボクら。
 兄さんが期待している。ボクが口付けるんじゃないかと。
 でもあげない。
 兄さんの縋るような瞳をもっと見たい。ボクが欲しくてたまらなくて餓えた子供のようにそれしか考えられない目で見て。そうして望んで。ボクに奪われたいのだと示してよ。常識など消して。弟に組み敷かれて貪られたいと言えよ。望んでいるくせに。
 ボクには兄さんが何を考えているのか手に取るように判る。まるで心が流れ込んでくるかのように全部判ってしまうのだ。これって人体錬成の後遺症みたいだ。
 兄さんはボクに何も隠せない。兄さんの本心は全部ボクに筒抜けなのだ。
 でも兄さんには内緒だ。心が全部バレているなんて流石に恥ずかしいからね。ボクは何も知らないフリをする。
「アルフォンス……」
「うん」
「オレは……オマエが……」
「……何?」
「オマエが……」
 兄さんの声が咽につかえたように止まった。
「どうしたの? どうして言葉を止めるの?」
 兄さんの瞳が揺れる。
「言って……いいのか? オレは……オマエに相応しくない」
「何それ? ふさわしいって何? 今更何を言い出すんだよ?」
 どうして自分の欲しいモノを言わないの? 今更何を躊躇うの?
「オレはオマエに受入れられるなんて考えてなかったから……」
「だから?」
「本当にアルとそういう関係になっていいものか……判らないんだ」
「兄さん、今更……。ボクは兄さんがいれば幸せなんだよ? だから常識とかそんな事考えないで、ボクの言葉だけ聞いてよ」
「判っている。オマエが本当に心からそう言ってくれているっていうのは。だからこそ……ちゃんと考えたい。勢いじゃなく、流されるんじゃなくて、オマエのものになっていいかどうか……しばらく考えたいんだ」
「兄さん……」
 しまったと思った。兄さんはこういう人だった。自分の望みより、愛する者にとってどうしたら一番いいか考える人。そうして余計な事まで考えすぎてしまう。
「ボクが……兄さんに恋してないから兄さんは躊躇っているの? 恋愛関係に陥ってはいけないと思うの?」
「そうじゃない。……ただ考えた事がなかったんだ。オレがアルと……だなんて。オマエの事はただ好きだった。そういう意味で好きになってはいけないと考えれば考えるほど、恋という形に縛られて動けなくなってしまった。ただ好きだった。……だけれどオマエに恋されるとかそういう関係になるとかは……一度も考えた事がないんだ。だから……」
「だから、いざ受け入れられてしまうと、どうしていいか判らない?」
「ああ。オマエと兄弟関係じゃなくなるなんて……考えたことないから」
「別に兄弟である事を止めるわけじゃない。ボクは今でもたった一人の家族として、兄さんを誰より愛している。ただ……肉体関係を始めるのに、躊躇いはない。そういう関係になっても苦しまない。何故なら……」
(ボクは一度兄さんの心を失っている
。あんな想いをするくらいなら、禁忌なんかクソ喰らえだ。二度と兄さんを失うものか)
「アル?」
 ボクの辛そうな顔に兄さんも不安そうな顔になる。
 振り切るように無理に笑った。
「……何でも無い。ただ覚えていて。兄さんは自分の中だけで答えを出してボクの為という大義名分で動こうとするけれど、それはボクの為なんかじゃない。『弟の幸せの為』という勝手な思い込みで動けば、兄さんの心が楽だからだ。その為に血を流しても、自己犠牲というひとりよがりの満足で心は楽になる。それは前進ではなく逃げだ。心の痛みを他の苦痛で誤魔化しているだけだ」
「アル……オレは……」
「ボクの為を思うなら逃げないで。痛くても辛くてもしんどくても何一つ目を逸らさずにいて。苦しくても隣にはボクがいる。ボクが兄さんを助ける。だから兄さんも本心をボクに曝け出して」
「アル……。どうしてオマエはそんなにオレを許すんだ? オレは今までオマエに散々酷い事をしてきたのに」
「酷い事って?」
「オレのせいでオマエは身体を失った……」
「ボクの身体が無くなったのは兄さんのせいじゃない。たまたま運が悪くてボクの身体が持って行かれただけだ。もしかしたらボクらの運命は逆だったかもしれない。兄さんの方が身体を失っていたかもしれない」
「アル。それでもオレはあの失敗が自分のせいだと思っている」
「ボクは身体を無くしたのがボクの方で良かったと思っている。この喪失感は失った者でないと判らない。こんな思いはボク一人で沢山だ。兄さんの身体が残って良かったんだ。だからもう気にしないで」
「アルフォンス。オレだって代わってやれたらとずっと思っていた。だがそれも傲慢な考え方なのかな……」
「ううん。そんな事はないよ。兄さんがずっと苦しんでいたのを知っている。ボクは身体を無くしたけれど、兄さんは身体が残った代わりに苦痛が残った。兄さんが苦しんでいるのは見ていて辛かった。そうして空っぽの身体でも耐えられたのは兄さんがいたからだ。ボクの為に生きようと、変わらない愛情を注ぎ続けてくれるアナタがいたからボクは狂いもせずにいられたんだ。そんな風に愛されてボクはいつしか兄さんなしでは生きられなくなっていた。……無くして初めて判ったよ。ボクは兄さんがいないと生きていけないんだ」
「……? 無くしてって? オレ達が離れた事なんてなかったろ?」
 兄さんが訝し気に聞く。
「……ああ、そうだね」
 ボクは誤魔化すように何でも無いと笑った。
(ボクは兄さんを一度無くしている。アナタの心を。それはボクだけしか知らない秘密。この痛みは兄さんにさえ言えないボクの罪の象徴)
 言えない秘密の重さに胸が痛んでもそれは自分だけが背負えばいい贖罪だ。
 兄さんは何も知らなくていい。ただボクの側にいてくれれば、ボクは幸福になれる。