命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・弐
「これからどうするの、兄さん?」
ボクの問いに兄さんは素直に応える。
「そりゃソッコー軍を辞めて、リゼンブールに帰るぜ」
「軍を辞めるんだね?」
「まあ一度は戻って、正式に手続きしないとな。世話になった人達にはちゃんと挨拶しないといけないし。ヒューズ中佐とかホークアイ中尉とかアームストロング少佐とか」
「国家錬金術師でなくなるのは賛成だけど……軍が兄さんを手放してくれるかなあ?」
「素直に辞めさせてくれると思うか?」
「たぶん無理な気が……」
「だがオレ達にはもう軍の狗でいる理由がない」
「うん。ボクの身体、元に戻ったしね」
兄さんの手足はこれからだけれど。
ボクの身体は賢者の石により元に戻った。
でも兄さんの手足はまだだ。早く兄さんの身体を元に戻したい。
「だから本当ならさっさと軍を辞めてリゼンブールに戻りたいんだが、軍は簡単には退役を認めないだろうな」
兄さんは苦い顔だ。
「兄さん軍の表看板の一枚だからね。鋼の錬金術師の名前は売れすぎている。軍は最年少国家錬金術師を手放したがらないだろうね」
「大佐だって今オレに辞められたら評価に響くから、辞めさせるの渋るだろうな」
兄弟揃って苦い顔になる。目的を果たしてしまえば、国家錬金術師であることは枷でしかないんだけれど、自分達の都合と周囲の思惑は一致しないから面倒だ。
「でもこのままいったら、兄さんは軍の狗として戦場に立たなきゃいけくなるかもしれない」
「各地で戦争が激しくなってきているからな。軍の空気、かなりキナ臭ぇ」
「うん。……未成年を戦場で使うのは流石に外聞が悪いんで今まで要請がなかったけど、兄さんも十六歳だし、そろそろお呼びがかかる頃だと思う」
ボクは少しだけ焦っていた。
本来の歴史なら兄に召集がかかるのは年明けの予定の筈だ。それまでに何とかしなければいけない。
ボクの知る歴史の通りなら、兄に徴集がかかるのは四ヶ月後だ。あと四ヶ月のうちに兄さんを軍から抜けさせないと、不味いことになる。
「戦争に行くなんて冗談じゃ無い。けど命令は絶対だ……」
「ボクだって兄さんを戦場に行かせるなんて嫌だよ、冗談じゃ無い。絶対に駄目だよ。兄さんに人殺しはさせられない」
「ああ。……賢者の石を探す為なら、アルの身体を元に戻す為ならなんでもする覚悟でいたが、アルフォンスの身体は人に戻った。もう覚悟なんて……必要ない」
「国家錬金術師でいる意味が無くなった今、軍とは縁を切りたいけど、さてどうしようか……」
「逃げる事もできねえしな。逃げたらリゼンブールに戻れなくなっちまう。んな事したらウィンリィに殺される」
「……というか泣かれるね。ウィンリィをこれ以上悲しませたくない」
「ああ」
「とりあえず、一度軍に戻ろう。大佐に会って今後の事を相談しよう」
「えーーっ? アイツに相談するのか? よせよ、絶対相談料とられるぜ。しかも金じゃなく代わりに労働力として働かされる」
兄さんがあからさまにイヤそうな顔になる。
あのねえ。当然の選択なんだけど。……本当に我侭な人だ。
ボクはまあまあと兄を宥める。だけど何だか兄を宥めるというより、小さな猛獣を操っている気分だ。
そうだ。兄さんてこんなに感情豊かな人だったんだ。こういう子供っぽい兄さんは四年ぶりなので、ちょっとくすぐったく新鮮だ。
「どうせ大佐には話をつけておかなきゃいけないんだから、全部素直に話して一緒にどうしたらいいか考えた方が早いよ。大佐なら兄さんを戦場に出さない方法を考えてくれるよ。ね、そうしよう」
「うーー。大佐に相談ねえ……。あんまり気が進まないんだが……」
「人体錬成を……ボクの身体を元に戻す事が旅の目的だって判っているんだし、その為に大佐はボクらに勝手を許してきてくれたんだよ。報告するのは義務だろ」
「それはそうだけど……。軍に言ったら賢者の石を取り上げられちまうんじゃねえか?」
「そうだろうね。……まだ兄さんの手足を直していないのにそれは困るけど、軍じゃなくて大佐個人なら大丈夫だと思う」
「そうか? だけど秘密はいずれ露見するものだ」
「確かに気をつけてても、何所から秘密が漏れるか判らないか…」
「な、困るだろ? だからしばらくほとぼりが冷めるまで時間稼ぎをして……」
兄さんの足掻きをボクは一蹴した。
「兄さん、それは単なる逃げ口実だよ。現実から目を逸らしてどうするの?」
ボクが強い口調で言うと、兄さんはバツの悪い顔をしてそっぽを向いてしまった。
我が兄ながらどうしてこういう場面では子供っぽいというか、判断力が低下するんだろ? ……と、ボクは内心溜息を吐く。
「今度の定期連絡を入れた時に戻る事をちゃんと伝えるんだよ、分かった?」
「……分かった」
渋々と頷く兄さんの頬に触れる。
「大丈夫……きっと何とかなるよ。どんな困難があっても、今までみたいに一緒に乗り越えればいい。ボクが隣にいるからね」
「ああ。……そうだ。一緒だ……」
兄さんが目を細める。
頬に触れる温かさに目眩するように、兄さんが目を閉じる。数年ぶりに感じる弟の体温が、まだ信じられないみたいだ。
ボクが過去に戻ってから一週間がたった。
ボクの人体錬成は成功した。
ボクが未来から持ってきた賢者の石を兄さんに差し出した時は見物だった。信じられないという顔。
まあそれはそうか。四年間かけて探してきたモノがあっけなく見つかったのだから。
賢者の石は、図書館の地下から見つけだしたという事にした。兄さんはボクの言葉を疑いもしなかった。
赤い石が本物の賢者の石かどうか疑う事はなかった。兄さんほどの錬金術師なら真偽を見抜く事は雑作も無い。
赤い石に秘められた強大な力。等価交換を無視したありえざる力の結晶。
兄さんの手にあるそれは歓喜している。何故ならこれはボクが造ったものだから。
石は意志を持ち作り手の影響を受ける。ボクと賢者の石は繋がっていて、兄さんを愛するボクの心に応じて石も兄さんの手にあることを喜んでいる。
これなら賢者の石は兄さんの望みを適えるだろう。すなわちボクの人体錬成を。
兄さんは愛おしむように賢者の石をその胸に抱き締めた。優しい仕種は石ではなく、きっとこれから抱きしめるだろうボクの身体を想っての事だ。今まで積もりに積もった想いが胸の中で渦巻いているのだろう。
ボクを見る兄さんの瞳は言い様のない想いで一杯だった。
ボクの為に兄さんの心が波打っている。
とても幸福だった。
石を手にして兄さんは震えていた。声が歓喜に満ちている。
「アル。これで……オマエを元の身体に戻してやれる」
「うん」
「待たせて……悪かったな」
「ううん。全然。大丈夫。兄さんを信じてたから」
「ああ。オレも……オマエが絶対に元の身体に戻れるって信じていた」
「やっと戻れるんだね、ボク達」
「アルフォンス……」
「今まで頑張ってくれてありがとう、兄さん」
「礼を言うのはオレの方だ。オマエが我慢強くオレの側にいて助けてくれたから、オレは挫けずに今までやってこれたんだ」
「違うよ。絶対に諦めない兄さんがいたからボクは絶望せずにいられたんだ。兄さんの強さにボクは支えられていた」
「オレ達……お互いずっと支えあってきたな」
「これからもだよ」
「ああ」
「だからお願い。兄さんの手でボクの身体を元に戻して欲しい」
「……判った。何も心配するな」
「心配なんかしてない。兄さんを信じている」
「アル……今すぐ……元の身体に戻してやる」
そう言って兄さんは石を手に、両手を合わせた。
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