命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・壱
心底辛そうに苦悩を浮かべても、言っている事は結構身勝手だよ、兄さん。気持ちを告白するっていうのは感情を押し付けているのと同じことだ。兄さんは拒絶を前提で告白しているけど、押し付けられた気持ちが処理できなければ拒否するしかないじゃないか。結果双方が傷付いてジ・エンドだ。
ボクはそうして四年前に大事なモノを無くしてしまった。
ボクはずっと自分を責めて悔やんでいたけれど、こうして考えてみると兄さんにも責任の一端があると思う。……ので、意地悪したくもなる。
あのねえ、兄さん。兄さんも傷付いたかもしれないけれど、ボクだってあの時滅茶滅茶傷付いて悲しかったんだよ?
「……兄さん。それって勝手過ぎない? 一方的に告白して人を仰天させておいて『忘れて欲しい』? それで『分かった、忘れる』って応える弟が何所の世界にいるんだよ?」
「それは……だって……」
「……気持ちは判らないでもないけど。弟に恋した時点で失恋確定だもんね」
「……判っている」
「イヤ、全然判ってないよ」
「判っているって、アル! オレはオマエに受入れてもらおうなんて思ってない! オレは罪人だ。間違っているのも汚らわしいのも判っている。オマエがオレを撥ね除けるのも承知の上だ。ただ……アルにオレの気持ちを判って欲しかっただけなんだ」
「だから、兄さんはボクの事全然判ってない。勝手に自己完結しないでよ。……ボクは兄さんの『恋』を拒絶したりしないのに」
「……アル?」
パチクリと兄さんがキョトンとした顔になる。
判ってない兄さん。可愛いなあ、もう。
ボクの身体が鎧じゃなきゃこのまま押し倒して可愛がってあげるのに。
小さい兄さんは保護欲をそそる。今の兄さんは年下なんだ。今のボクは十五歳童貞の未経験者じゃなくて、中身は二十歳でそれなりに経験豊富な成人男子だから、目の前で愛しい人がボクへの愛で苦悩しているのに抱き締められないというのは、ハッキリ言って辛い状況だ。
肉体が戻ったら覚えてろよ。
「兄さんこそ判ってないね。ボクは兄さんを世界一好きだって言ったでしょ。現在過去未来二十四時間。それはボクが鎧だろうと人だろうと変わる事はないし、ボクが人に戻って誰か可愛い女の子と付き合う事になったとしても、ボクの一番はやっぱり兄さんなんだ。その位置関係だけは変わらないよ。兄さんはボクにとって誰より愛しい人なんだから」
ああ、兄さんが混乱している。恋を受け入れないボクだけど、全く変わらない弟の姿勢にどう対処していいのか判らないのだ。想像外の展開なので対応しきれない。
ボクに否定されてそれで終わりだと思っていた兄さん。アナタがそんなんだから、ボクだって兄さんを傷付けてしまった。
兄さんが胸の前で祈るように両手を握る。
「アル……じゃあオマエは今までどおりこれからもずっと……オレの側にいてくれるっていうのか? こんなオレの側にいて……イヤじゃないのか? オレはアルが好きなんだぞ。……恋しているんだ。オマエの幸せを願っている。オマエがいずれ誰かと出会い恋をして結婚するのを願っている。オマエが生涯幸福である事を願っている。でも……なのに……同時にオレ以外の誰にも心を移さないでくれと、心底……願っている。…………反吐が出るくらい浅ましい」
「あのね。同じ事を繰り返すのはイヤなんだけど。堂々巡りの会話って無駄だよ。……ハッキリ言わせてもらうけど、ボクはいずれ兄さんとそういう関係になるつもりでいるから。だからボクは誰とも結婚しないから安心して。恋人は生涯兄さん一人だけだよ」
「そういう関係って?」
「肉体関係」
「にっ……く……たい、関係?」
鳩が豆鉄砲喰らったような顔。……しかしボクは鳩が豆鉄砲を喰らった顔を一度も見た事がないので、正しいのか判らない。ハトに豆鉄砲撃つのは動物虐待だからやってはいけないと思う。
「ア……アル……アルフォンス」
兄さんがあわあわと下手な創作ダンスのように手を動かしている。
「そんなに動揺しないでよ。言い方は即物的かもしれないけど、事実だから」
「事実って……」
「ボクは兄さんを抱きたいって言ってるの。ボクに人の身体があればすぐにでも押し倒しているよ。だって今の兄さんは凄く可愛いからね。だけど悔しい事に今のボクは鎧の身体だ、兄さんには触れない。いくら触っても兄さんの体温も感触も判らない。そんなのは凄く寂しい。セックスはやっぱり体温を感じられなきゃね。ボクは身体を取り戻したら、兄さんを抱く」
「ア……」
「絶句しないでよ。今更ブるなよ。ボクとすることくらい想像したことあるんでしょ? 一人でする時、ボクとする事をネタにしてたんだろ? それともまさか自分でしたこと無いの? ……なわけないよね? もう十六歳だし。兄さんがスル時のボクは鎧? それとも生身? 兄さんはする方、それともされる方? どんな想像をした? ボクはどっちかっていうとする方が好みなんで、『その時』になったらするのはボクの方だと思っててね」
「ア……アルフォンス……だって、オマエ……オレの事兄としか見てないって言ったじゃないか……」
兄さん口パクパク金魚。
アクシデントに弱い人だ。それともボク限定?
「言ったよ。それが? ……ボクは兄さんが兄さんだから愛しているんだ。兄さんはボクを誰にも渡したくないって言ってたけど、それはボクだって同じだ。だけどボクは兄さんには幸せになって欲しかったから、独占を諦めていた。ボクが望めば兄さんは何でもしてしまう。だから兄さんの負担になる事は言わないでおくつもりだった。……でも兄さんがボクに独占されたいって望むなら、ボクは兄さんを誰にも渡さない。遠慮していたのがバカみたいだ。愛に恋とか家族とか囲いをつけないでよ。生まれてしまった感情に謝る事もしないで。おかしくてもいいじゃない。どうせボクらはもう禁忌にまみれている。ボクは人に戻っても人体錬成の結果という禁忌の忌み子だ。でもそんなボクでも兄さんは焦がれるように愛してくれる。そんな愛に育まれたボクが兄さんを愛し返さない筈がないじゃないか。気持ちは見えにくいものだけど、セックスは分かりやすい感情の形だ。勿論欲望と愛はイコールで繋がらないけど、欲望だけで実の兄を抱ける程ボクは餓えちゃいないし、その意味が判らない程バカじゃない。禁忌を押し退けても欲しいと切望するくらいアナタが好きだ。……ねえ、兄さん。それじゃ駄目?」
途方に暮れたような兄さん。そうして見ると年下に見える。まあ実際、今のボクの方がもう大人なんだけどね。ボクの精神年齢は大体二十歳くらいだ。戦場には一年半いたからもっと上かもしれない。苦労は人を老成させる。
「アルフォンス……じゃあ、オレは……オマエを好きなままでいていいのか?」
縋るような声と顔。
ああ、そんな瞳で見ないで。今のボクには身体がない。兄さんを抱きたくてもできない。
代わりにそっと抱き締める。感覚がないのが辛い。
「ボクの事ずっと好きでいて。兄さんの愛がボクをこの世に留めた。ボクの魂は兄さんの愛でできている。ボクが兄さんを愛するのは当然なんだ。兄さんに想われてボクは……幸せだ」
兄さんの手がボクの身体をギュッと抱き締めた。
ガチッとボクの身体と兄さんの機械鎧が当たって音を立てる。空洞の身体に音が反響する。
血印がピリと痺れた。
嗚呼。
兄さん。
やっと……。
「アルフォンス……」
兄さんがボクを呼ぶ。縋るように。
ジワジワと湧いて来る感情。判る。これは歓喜だ。
四年半ぶりだ。長かった。こんなにも長い間ボクは兄さんに餓えていたんだ。兄さんに愛されなくなって……ボクの心は悲鳴を挙げていた。心が寒くて凍えて寂しかった。
でももう無くさない。何をしても兄さんがイヤだって言っても側にいる。歴史を曲げても、兄さん自身を傷付けても、ボクはボクの為に兄さんの側にいる。
腕の中の兄さんは小さい。この人がボクの全て。
全部全部ボクのモノにしてしまおう。誰にも奪われないように、無くさないように。
手の中の石をそっとチョークケースの中に潜り込ませた。
過去から持って来た賢者の石。時間移動のせいで輝きが薄くなっている。だけどボクの肉体を作るくらいにはまだ使えるだろう。
さてこれをどうやって見つけた事にするか。
兄さんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
生身のボクを見て、兄さんはどんな顔をするだろう。
きっと泣きそうな顔で歪んで、いや、泣いちゃうんだろうな。それで一通り泣いたら最後には笑うんだ。兄さんは単純だから分かりやすい。
未来は全部手の中にある。ボクはもう迷わない。
『未来』の兄を捨てたボクは人でなしだ。でも良い人のまま不幸な人生を送るより、ボクは人でなしになって幸福になる事を選んだ。
最低の人でなしのままボクは兄さんの側にいる。
もし最悪兄さんが戦場に駆り出されることになったら、ボクが代行する。どうせもうこの手は血にまみれている。
ボクと兄さんの錬金術の腕は互角だ。やってやれない事はないだろう。ボクだって戦争を経験してきたんだ。できない筈は無い。兄さんの代わりに人殺しになる。功績も汚名も全部肩替わりする。兄さんが手を汚す必要は何所にもない。
血にまみれたボクを見て、兄さんはどう思うだろう?
きっとアナタはその愛ゆえに沢山傷付く。
泣いてもいい、傷付いてもいいよ。側にいてくれればその傷を舐めて癒してあげる。だからボクを愛し続けて欲しい。そうしたら何でもしてあげる。
暗くなった部屋の中で、ボクたちは抱き合って溢れる感情に耐えた。
……それぞれが別の事を想って。
ボクの手の中に運命の鍵がある。
ボクは鎧の中で笑った。おかしくてたまらなかった。
その笑いはもう一つの感情を誤魔化す為のものだというのを自覚していた。
鎧の中でキシリと何かが震えた。
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