命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・壱
目を開けると『兄』が目の前にいた。
「……兄さん?」
思わず周りを見回す。
ここは……この場所は……。
『兄』に視線を戻す。随分目線が低い。
『兄』の顔だちに少しだけ動揺した。随分と幼い。
……四年前はこんなにまだ子供だったのか。
戻ってきた。夢でも幻でもない。
今は『過去』だ。兄の幼い姿がすぐ目の前にある。
嗚呼……。
時間移動の錬成は成功した。
信じられない。だがこれは現実だ。都合の良い夢じゃない。
ボクは賢者の石を使った。そうして意識が飛び、気がついたら『あの部屋』にいた。帰りたいと願った、過去の『あの時間』だ。目の前には会いたかったかつての兄がいる。
それがゆめ幻ではなく過去だとすんなり理解ったのは、幼い兄の姿と、人ではない鉄の自分の身体故。
視線を下げて自分の手を見る。見慣れた鉄の指。感覚はなにもない。視界も慣れた人の身体より高い。
からっぽの身体。そう、鎧の身体だ。これが今の自分の身体なのだ。
そうして兄さん。泣きそうな顔だ。気丈な心で自分を支えている。張り詰めて破裂寸前の水風船みたいだ。
何度も夢に見た『あの時』の兄の顔。ボクへの思慕で心が焼き切れそうになっている兄さん。
アナタはこんなにも辛そうな顔でボクに心を伝えようとしていたんだね。
『あの時』に戻れたなら……と何度後悔しただろう。『あの時』に戻れるなら……と、のたうちまわって悔やんだ過去が目の前にある。
兄さんは平常心を保とうと必死だ。見ていて痛々しい。
アルフォンスには兄の様子を観察するだけの余裕がある。エドワードは可哀想な程に緊張している。兄の中の、弟への気持ちが最大限に膨張し続け、限界を越えて外に漏れる直前なのだ。
過去、ボクはこの兄の必死の気持ちを顧みず、壊してしまった。膨らんだ水風船。本当にエドワードはギリギリに追い詰められていたのに。無邪気な無神経さで床に叩きつけてしまった。
だが、『今』のボクはその過ちを知っている。二度とそんな愚かな真似はしない。
エドワードがアルフォンスから視線を外さず、必死に言葉を紡いでいる。
「アルフォンス。ずっと……ずっと……心の中にあって言いたかった事がある。……間違いじゃない。思い込みでもない。ただ其処にあるんだ。ずっとあるんだ。あって動かないんだ。楔みたいに刺さっているんだ。船の錨みたいなんだ。底に沈んで心がそれ以上何所にも行けないんだ。……苦しいんだ。……助けてくれ。………………ゴメン。……でも、好きなんだ。弟なのに、兄弟なのに。……間違ってるって判ってるのに……。オマエを誰にも渡したくないんだ。兄だからオマエの幸福を願わなければならないのに、オマエがオレ以外の誰かを愛して離れていく事が我慢ならないっ。……ずっと側にいて欲しいんだ。……愛している。ずっとずっと愛している。全部やるから。オレの心も身体も命もこれからの人生も全部やるから……だから……だからだからだから……」
壊れたラジオのような兄の声。
嗚呼。苦しいんだね。ボクへの愛が溢れて自分がコントロールできなくて、堤防が決壊して本心を曝け出してしまったけれど、それが過ちだと知っているからボクに拒絶されるのが恐いんだ。事実、過去のボクは兄さんを拒絶して傷つけてしまった。
こっちの兄さんには『心』がある。だから苦しい。
ボクは安堵する。
ゴメンね。アナタはこんなに必死で怯えて苦しんでいるのに、嬉しいんだ。だって兄さんが苦しいのはボクを愛しているから。アナタの痛みはそのまま『愛』なんだ。
ああ、ボクは兄さんに愛されている。
心が弛む。緊張が解れていく。
ボクは……過去に……戻ってきた。成功したんだ。
手の中の賢者の石をギュッと握った。
「……アルフォンス?」怪訝な兄の声。
今のボクは鎧だから表情は伝わらない。ボクが何を考えているのか兄さんには判らない。
「どうして……何も言ってくれないんだ? …………突然こんな事言われて混乱しているのは判るけど……でも…………なにか、なにか言ってくれ」
泣きそうな兄さんの瞳。薄いガラスみたいだ。手荒に扱ったらヒビ割れて砕けそう。
いっそ自分の手で壊してしまおうか。今はあの時とは状況が違う。望めば兄はアルフォンスの意のままになる。粉々に砕いてその欠片を残さず閉じ込めて自分のものにしてしまおうか。そうすればこの人は一生ボクのモノ。誰にも奪われることはない。
愛しい人間の『心』が自分の思いのままに動かせるという状況にボクは興奮した。
兄を脅かさないようになるべく普通の声で喋る。
「兄さんはボクを好きなんだね? 兄弟の情の他に……『恋』って形でボクを想っている?」
「……ああ」
「でもボクは兄さんに『恋』してない。……できない。だって兄弟だから」
「判っている」
傷付いたような兄さんの目。
その傷が痛ましいと同時に歓喜する。兄さんの『心』がボクに向いている。愛が溢れている。
ボクのヒビ割れて干涸びた心が、兄さんという水で潤う。愛されるとはこういう充足感を得る事だ。
「ゴメンね、兄さんの想いは受け入れられない。でも……ボクは嬉しい」
「嬉しい? どうしてアル?」
「兄さんが傷付いているから」
「アル?」
ほうら、ボクの一言で兄さんの心が容易く揺れる。
「兄さんが苦しいのはボクを愛しているから。ボクは兄さんに愛されて、とっても嬉しいんだ」
鎧なので顔がつくれないが、なるべく無邪気にサラリと流す。まるで兄の告白など無かったかのように。
案の定エドワードは傷付いた風に顔を歪める。
らしくなく、自分を卑下するように言った。
「だけどオレの想いは……普通じゃない。オマエがオレを愛するように純粋なだけの愛じゃない」
「そう、普通じゃない。兄なのに弟にあってはならない想いを抱いている。それは禁忌だ。家族への裏切りだ」
ボクの言葉が針となって兄さんを刺す。
兄さんが辛そうにボクから視線を外す。
「判っているよ、アルフォンス。オレの想いは罪だ。……拒絶されるのは当然だ。だが……」
イヤだよ。ぼくを見て。その瞳の中に存在させて。
「だが……何?」
「だが……許して欲しい」
「何を許すの?」
「オレの想いが間違っているのは判っている。オマエに受け入れられてもらおうなんて思わない。だけど……判って欲しい」
「誰が拒絶したの?」
「え?」
「ボクは『兄さんに恋してない』とは言ったけど、嫌だとか困るとかは言ってない」
「……でも、困るだろう?」
「どうして?」
「だって……兄に恋されるなんて……」
自分で告白しておきながら自己否定する兄さん。混乱している。
「ボクはイヤじゃないよ」
「……えっ?」
ボクは兄さんと視線を合わせ(身体はないけれど兄さんにはボクの視線がちゃんと判るのだ)真面目に言った。
「うまく説明できないけれど……兄さんがボクを好きでいる分にはどんな形であろうと構わないんだ。ぶっちゃけボクは兄さんが大好きで、兄さんの事は命掛けるくらい世界で一番愛しい。それは兄さんのボクへの想いにひけを取らない。……兄さんに負けないくらい、ボクは兄さんを愛している。兄さんだって同じくらい愛していてくれてると信じている。ボクのそれは家族愛で、兄さんの心の変化とこの展開は予想外だったけど、兄さんの中のボクへの愛に恋が足されたからって、それでどうしてボクが兄さんを否定しなきゃいけないの? だって兄さんはボクを違う形で更に好きになっただけでしょう?」
「オマエは……判ってない。オレの想いは……オマエの持っているような綺麗な感情とは違うんだ。程遠い……醜い感情だ」
「綺麗な感情って何? キスしたいとかセックスしたいとか、そういう欲望を持たなければ綺麗なの? 欲望を持つのは汚い事なの?」
「ア、アル! そういう事、言うな……。セ、セックス……なんて……」
赤くなった兄の顔。欲望を持っていたと知られるのが恥ずかしいんだろう。
恋と身体の関係は密接に結びついているものだから、あって当然の事なのに。
しかし十六歳でこんなおぼこくていいんだろうか? 『未来』の兄さんは適当に女と遊んでいたというのに、えらい違いだ。
兄が自分の手の中にあるという事にゾクゾクする。
ボクはわざと「やれやれ」と呆れた声を出した。
表情が作れないっていうのは案外不便だ。ずっとこの身体だったのに、四年もブランクがあるとかなり違和感を感じる。感覚がないっていうのはやっぱり辛い。
「兄さんの言っている事はそういう事だろ。兄さんはボクをそういう風に独占したいんだろ。……まあ確かに常識からすれば兄弟でそんな関係になるのはタブーでいけない事だろうけど、自分の持っている感情を否定しても事実は無くならない。一度芽生えた感情は萎れようと成長しようと、なかった事にはできない。兄さんがボクと寝たいとか独占したいとか思うのは、素直な感情の発露でしょ? 自然に湧いてきた気持ちだろ? その気持ちを消せないからボクに縋っているんでしょ? ……兄さんはどうしたいの? ボクに告白して終わり? 一方的に気持ちを押し付けて聞き流せって言うの? そうして忘れろとでも言うつもり? 恋を押し付けてそれで満足した? 兄さんはボクにどうして欲しいの?」
「アル……すまない。オレは……言ってはいけないと知っていたのに我慢できなかった。……許してくれとは言えないけど……忘れて欲しい」
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